8.
三階の食堂へ入った瞬間、匂いが変わった。
昼とは違う。
もっと濃くて、もっとはっきりしている。肉を焼いた匂い、溶けたバターの匂い、甘い果実の匂い、熱を含んだスープの匂い。それらがいくつも折り重なって、鼻腔を刺激する。
腹が減っていなくても足を止める匂いだった。
まして、朝から問題を解かされ、歩かされ、班ごとに気を遣いすぎた身体が無意識に食事を欲している。
夕食は、整頓されて並んでいた。
ビュッフェ。
定食。
パンとおにぎり。
コンビニパン。
同じ食堂の中で、集められた場所が違う。
それだけで、人は自分がどこにランク付けされているのか嫌でもわかる。
堂島は当然みたいな顔で、先頭に並んでいた生徒の前に入った。
白峰も同じだ。
白い皿を受け取る手つきまでここへ来ることが最初から決まっていたみたいに落ち着いて見える。
そういうところが腹立たしい。
努力したからではない。悔しがる顔を見せないからこそ、余計に腹が立つ。
悠人と由良は定食の列だった。
前へ進むと、配膳台の向こうに並ぶ料理が見える。
夕食の皿は昼よりも露骨だった。
白身魚の香草焼き。表面にだけこんがりと焼き色がつき、切れば湯気が立つ。鶏肉の小さな煮込み。じゃがいもを使った温かい付け合わせ。青い豆のサラダ。ロールパン二つ。デザートには小さなガラスの器へ入ったプリン。
定食だけでも十分きれいだ。十分すぎるくらいにいつもの学園らしい。
なのに、横のビュッフェ台が見えているだけで、どうしても“その下”に見える。
ビュッフェ台には銀の蓋が並んでいた。
ローストビーフの赤。クリームソースの白。焼き野菜の濃い緑と橙。小さく盛られた海老の前菜。果物。ケーキ。グラスへ入った冷たい飲み物。
目が行く。
行くのに、見ないふりをしなければいけないのが惨めだった。
「見すぎ」
由良が低く言った。
「分かってる」
分かっている。
分かっているが、目は行く。
人間は皿の中身が違うだけでここまで卑しくなるのかと、自分で自分が嫌になる。
少し離れた列では、雫がおにぎりとスープを受け取っていた。
紙カップの湯気が細く立ち、トレイの上が妙に軽く見える。
雫はそれを両手で受け取り、落とさないように気をつけながら歩いていた。
そのさらに後ろ。
「……は?」
黒沢の声だった。
食堂の空気が、一瞬だけその方へ寄る。
黒沢は配膳台の前で立ち止まっていた。
トレイの上には、おにぎり、サラダ、スープ。
昼よりはましだ。
だが、本人にしてみれば“上がった”ことより“上へ届かなかった”ことの方が大きいのだろう。
「これ」
黒沢が言う。
「夕食だよな?」
新庄が、配膳台の向こうから答える。
「はい」
「見りゃ分かるだろ。そうじゃなくて」
黒沢が眉をひそめる。
「夜でこれって、どういう基準だって訊いてんだけど」
「発表した通りです」
新庄の声は平らだった。
「本日獲得した個人ポイントと加算ポイントに応じて決定しています」
黒沢はトレイへ目を落としたまま、口元だけを歪めた。
隣の列にはビュッフェ。
少し前には定食。
自分の手元は紙カップとおにぎり。
これで納得できる人間ではない。
「ふざけんなよ」
声が少し大きくなる。
「何であいつらが上で、俺がこれなんだよ」
あいつら、という言い方だけで、誰を見ているか分からない。
堂島だ。
白峰かもしれない。
あるいは、自分より静かに点を取っていった連中全部かもしれない。
食堂の何人かが、食べる手を止めた。
誰も真正面からは見ない。
でも聞いている。
こういう時、最下位クラスの生徒はみんなそうだ。目は逸らすのに、耳だけはしっかりそちらへ向く。
堂島は、ビュッフェ台の前で皿へローストビーフを取っていた。
黒沢の声が聞こえていないはずはない。
それでも振り向かない。
あの男は、味方する時も放っておく時も、最初に相手の顔色は見ない。そこがまた黒沢にはきついのだろう。
「席に着きなさい」
榊原が言った。
低い声だった。
怒鳴らない。
それでも、黒沢の肩がぴくりと動く。
「聞いてんのかよ」
黒沢は新庄ではなく、榊原の方を見た。
「これを黙って食えって?」
「そうです」
短い。
榊原はそれ以上の説明をつけなかった。
黒沢はトレイを掴んだまま、一歩だけ前へ出た。
その歩き方に、美苑の肩が遠くの席で固くなるのが見えた。
教室でもそうだった。黒沢が立つと、近くにいる人間の方が先に縮む。
「ふざけんなって言ってんだよ」
その瞬間だった。
榊原が間を詰めた。
速い。
食堂の広さが一瞬、消えたみたいだった。
次に見えた時にはもう、榊原の手が黒沢のトレイを横から押さえていた。
落とさないための押さえ方ではない。
動かさせないための手だ。
「席に着きなさい」
榊原が、もう一度言う。
「今すぐに」
声は変わらない。
だが、さっきより近い。近いぶん、余計に逆らいにくい。
黒沢が手を振ろうとした。
その動きを、新庄が横から止める。
今度は肩だった。
肩口を押さえ、そのまま半歩だけ体勢を崩させる。
大げさではない。
でも、それで十分だった。
喧嘩でも、生徒指導でもない。訓練された大人が、相手を暴れさせない角度だけを知っている押さえ方だった。
食堂が、しんと静まる。
黒沢の顔に、はっきり怒りが出た。
だが、その怒りより先に、ほんのわずかな驚きが混じっていた。
普段の学園なら、あり得ない。
「……離せよ」
「席に着きなさい」
新庄が繰り返す。
語尾まで同じだった。
その同じ言い方が、よけいに怖い。
黒沢は一瞬だけ、堂島の方を見た。
助けを求めたのではない。
だが何か、合図みたいなものを待ったのかもしれない。
堂島は皿を持ったまま、ようやくそちらを向いた。
冷たい目だった。
それだけの目で、黒沢は舌打ちをした。
「……っざけんな」
吐き捨てて、ようやく引く。
榊原が手を離し、新庄も肩から手を外す。
黒沢はトレイを鳴らしながら席へ戻った。
何もなかったように、とは誰もできない。
食堂の空気はすっかり変わってしまっていた。
九条が、小声で言う。
「何あれ……」
返事はない。
神宮寺すら黙っている。
由良もフォークを持ったまま動かない。
悠人は、自分の喉がまた小さく鳴るのを聞いた。
普段の学園生活では見ない手つきだった。
生徒を諭す手でも、押し返す手でもない。
暴れた時のために慣れている人間の手つきだった。
先生はいなかった。
伊吹もいない。
残っているのは榊原と新庄だけだ。
その二人が、いつもの副担任とはもう違って見える。
いや、違っていたのではなく、見えていなかっただけなのかもしれない。
黒沢の席では、誰もすぐに何も言わなかった。
美苑は視線を落としたまま、トレイへ手を伸ばせずにいる。
宮部は呼吸まで浅くなっていた。
白萩だけが静かに前を見ている。
その沈黙が、教室のいつもの力関係をそのまま連れてきている。
由良が、ようやく小さく言った。
「……普通じゃない」
その言葉は、黒沢のことだけを言っているのではなかった。
配られた食事の差も。
押さえつける手つきも。
この場を、誰も“学校の行事”として扱っていないことも。
全部含めてだった。
悠人は返事をしなかった。
返事をすると、その異常さが本当に言葉になってしまう気がした。
その代わり、視線の端に先生のいない食堂を入れる。
いない。
それなのに、ここで起きていることの全部が、あの人の意志の内側にあると分かってしまう。
真面目な生徒にとっては先生。
不良たちにとっては地味子。
でも、いまこの食堂にいなくても、いちばん上にいるのはあの人だった。
そこから先の夕食は、妙に静かだった。
ナイフとフォークの音。
紙カップを持ち上げる音。
ロールパンをちぎる小さな音。
それだけが、広い食堂のあちこちで続いている。
料理はちゃんと美味しい。
魚は柔らかい。
スープは熱い。
パンはまだ少し温かい。
だからこそ不気味だった。
こんなにまともな味がするのに、食卓の空気だけがまともではない。
雫はおにぎりを持つ手つきまでおそるおそるしている。
神代は静かに食べるが、時々だけ顔を上げて周囲の席を見ていた。
九条は結局また、最後まで軽口を戻せなかった。
神宮寺は平然と食べているように見えるが、さっきより背筋が固い。
白峰はそんな空気の中でも食べ方を崩さない。
堂島は喋らず、黒沢は黙り込んだままスープを飲み干した。
初日の夕食。
本来なら、まだ何も壊れていないはずの時間だ。
修学旅行の一日目なら、料理のことを言い合い、夜の予定を話し、少しくらい浮かれていてもいい。
なのにここには、もうその気配がない。
楽しくない、というより、楽しくしてはいけない場所みたいだった。
夕食が終わる頃、新庄が前へ出た。
「食べ終えた者から移動します」
短く言う。
「これより入浴です。班ごとに三階連絡通路へ集合してください」
入浴。
それ自体は普通の予定のはずなのに、その一言まで何かの指示に聞こえる。
椅子が引かれ、食堂の空気がまた動き始める。
だが、今度はさっきまでと違う。
料理の匂いの中へ、もう一つ別のものが混ざっている。
押さえつけられた黒沢の沈黙。
それを見た全員の息苦しさ。
それが食堂の奥に、うっすら残ったままだった。




