第2話:紙の弾丸と、白き特効薬
大正三(一九一四)年、七月。
世界が欧州という巨大な火薬庫の爆発に目を奪われている隙に、極東の地では、音もなく静かに、しかし決定的な「力」の転換が始まっていた。
商都・大阪。中之島の一角に建つ、煉瓦造りの古びた建物。かつては中堅の新聞社であったその場所は、今や瑞長財団の圧倒的な資本によって息を吹き返していた。
「極東公論新聞社、か。悪くない響きだ」
室内の重厚な長椅子に腰を下ろし、法務顧問の霧島誠一郎は、真新しい金文字が刻まれた看板を眺め、静かに独りごちた。
瑞長財団による新聞社の買収は、電光石火の勢いで行われた。台北に総本社を置き、帝都・東京、そして大阪に支社を構える三拠点同時の立ち上げ。一介の民間企業がこれほど大規模な報道機関を保有することは、本来ならば政府や既存の新聞各社から猛烈な警戒を招くはずであった。
しかし、霧島が表向きに掲げた大義名分は、極めて事務的かつ「謙虚」なものであった。
「我が財団が巨費を投じて建造した病院船『蓬莱丸』『美麗丸』の活動は、言わば日本全体の国際的な貢献であります。その活動を、一企業としてではなく、公正な記録として内外に知らしめる広報部門が必要なのです」
この「企業広報」という体裁が、権力者たちの目を眩ませた。軍部も政府も、瑞長財団が自分たちの宣伝役を買って出てくれるものと、楽観的な誤解を抱いたのである。
だが、霧島が編集長として招き入れたのは、かつて御用新聞の姿勢を激しく批判し、内地を追われた気骨あるベテランの新聞記者たちであった。
「利益も、既存の権力への忖度も一切無用です。我々がこれから海を越えて行う『命の記録』を、一切の検閲を排して内地の民衆へ、そして世界へ撃ち込む『紙の弾丸』となっていただきたい」
霧島から手渡された一通の原稿。それを手にした編集長の眼光が、かつてない熱を帯びて鋭くなった。
八月上旬。帝都・東京。
いよいよ欧州で本格的な戦端が開かれ、号外が街を舞う中、女子大学の校門近くの売店には刷りたての『極東公論』創刊号が山積みにされていた。
新聞記者を志し、一高や各大学で学ぶ若者たちに混じって、一人の女子学生がその紙面を手に取った。響子である。
彼女が期待していたのは、欧州の戦況や、あるいは政府の広報めいた記事であった。しかし、一面に躍っていたのは、勇ましい出兵論などではなかった。
『亡国病を撃ち砕く、白き光――瑞長財団、五年越しの悲願。結核の特効薬「ストレプトマイシン」の開発・量産に成功』
その見出しを目にした瞬間、響子の指先が微かに震えた。
結核。それは当時の日本人にとって、かかれば最後、死を待つしかない「不治の病」であった。多くの若者が、そして多くの家族が、その病によって未来を奪われてきた。
紙面には、財団の研究施設で五年以上の歳月をかけて続けられた執念の研究成果と、詳細な症例記録によって証明された劇的な治療効果が、緻密な知見と共に綴られていた。
「これ、は……」
他の新聞がこぞって遠い異国の動乱を煽り立てる中、『極東公論』だけが、民衆の最も切実な「命の不安」に対して、科学的解決策を提示してみせたのである。
この一報で、新聞としての信頼性と権威は決定的なものとなる。そして同時に、この奇跡の薬の供給元である瑞長財団への、民衆からの支持と期待が生まれるのだ。
(康政君……これが、君の用意してくれた『戦場』なのね)
響子は、インクの匂いが残る紙面を強く抱きしめた。
ただの広報誌ではない。民衆の心に希望を灯し、同時に世論の舵を強引に切り替えるだけの巨大な力。いつかこの舞台で、自分も筆を振るうのだという決意が、彼女の胸の奥で熱く燃え上がった。
八月下旬。東京・三宅坂の陸軍参謀本部。
二十三日の対独宣戦布告を受け、いよいよ山東省・青島の攻略が現実のものとなったこの日。窓の外の蝉時雨を遮るように、厚い窓掛けが引かれた会議室では、陸軍の幹部たちが苦虫を噛み潰したような顔で議論を交わしていた。
「戦端を開くのは容易い。だが、問題は衛生だ。奉天の二の舞を演じるわけにはいかん」
一人の将官が、吐き捨てるように言った。
日露戦争以来、陸軍にとっての最大の敵は、敵の弾丸以上に「傷口の化膿」と「伝染病」であった。瑞長財団が開発した「点滴式ペニシリン」が、傷病者の致死率を劇的に下げることは、これまでの小規模な供給でも十分に証明されている。将兵の間では、今やペニシリンは「魔法の薬」として崇められていた。
「だが、予算がない。あの点滴式の薬を大軍に支給するだけの金が、どこにあるというのだ。大蔵省は一銭も出さんぞ」
海軍との予算分捕り合戦に敗れ、青島攻略という「手近な武功」を焦る陸軍にとって、高価な新型薬の調達は頭の痛い板挟みであった。
沈黙の中、児玉源太郎大将の意を汲む一人の参謀が、静かに口を開いた。
「買う予算がないのであれば、彼らが持っている『白亜の病院船』ごと、青島への医療支援として正式に要請しては如何でしょうか」
一同の視線が集中する。
「瑞長財団は、今や二隻の二万トン級特設病院船と、台湾軍の下部組織たる医療大隊を抱えております。彼らを『従軍』させる形にすれば、医薬品の費用も、船の維持費も、すべて財団側が持つことになる。我々は、一銭の負担もなく、最高の医療体制を手に入れられるのです」
「……向こうは受けると思うか。民間企業だぞ」
「彼らは『人道支援』という名目に目がないようです。現に、香港での活動はイギリスからも高く評価されている。日本政府としても、彼らの活動を支援する形をとれば、国際的な面目が立ちます」
強硬派たちは、この「無料で極上の医療が手に入る」という甘い餌に飛びついた。
自らが首を突っ込もうとしているのが、将来のイギリスからの要請――地中海への艦隊派遣――を断れなくするための、康政による巨大な「恩の罠」であることなど、微塵も疑わずに。
九月上旬。台湾・基隆港。
日本軍の上陸作戦開始に呼応するように、夏の強烈な陽光を反射して輝く『蓬莱丸』『美麗丸』の甲板は、かつてない活気に包まれていた。
舷梯の下では、瑞長財団の医療研究開発を統括する白石医師が、感慨深げに白亜の巨艦を見上げていた。医療大隊の指揮を執るのは、軍務や大隊の運営を統括する威厳ある面持ちの橘少佐と、純然たる医療の実務を束ねる高柳少佐である。
看護婦の制服に身を包んだアリスが、高柳少佐の後に続いて軽やかな足取りで歩み板を登る。その後ろからは、最新式の大型写真機を大切そうに抱えた『極東公論』の従軍記者たちが続いた。
「落とすなよ! こいつは俺たちの命、いや、紙面の命なんだからな!」
彼らの手には、財団から発行された特別な従軍許可証と、撮影のための膨大な感光板が握られていた。
その喧騒の中、一台の黒塗りの自動車が岸壁に滑り込んできた。
降り立ったのは、台湾帝大で教鞭を執る秋山真之少将である。その背後には、純白の第二種軍装を凛々しく纏った二人の海軍将校が控えていた。
「康政。今日の講義は休講にして正解だったな」
秋山が、親愛の情の混じった笑みを浮かべて歩み寄る。康政は深く一礼して迎えた。
「秋山少将。わざわざ港までお見送りに来ていただけるとは」
「見送りだけではないぞ。……こいつらを正式に、この船の『観戦武官』として同行させるよう、海軍省から辞令をもぎ取ってきた」
秋山が顎でしゃくると、二人の将校が歩み出た。
「お久しぶりです、康政理事。いや、今日は康政君と呼ばせてもらうよ」
落ち着いた声の主は、かつて康政と知己を得ていた米内光政少佐であった。
「先月から、秋山少将の呼びかけでこの船の『蒸気と内燃機の混載機関』を視察に来ていたのだが……まさか、そのまま陸軍の作戦に従軍することになるとはね」
米内が苦笑交じりに言うと、その隣に立つ小柄な将校が一歩前に出た。
「海軍大学校より参りました、高野五十六大尉です」
彼はまだ三十そこそこの若さながら、全身から溢れるような覇気を纏っていた。高野は康政を見据え、その背後の煙突の間に据え付けられた水上機へ、獲物を狙うような熱い視線を投げた。
「少将の言われた通りだ。ただの傷病兵の運び屋ではない。空からの索敵と、絶え間ない海上補給……。この船は、戦の概念そのものを変える」
康政は、未来の海軍を担う二人の将校を、深い思惑を秘めた瞳で見つめ返した。
目先の武功と傷薬にとらわれ、康政の罠に自ら足を踏み入れた陸軍。一方で、この船の真の恐ろしさをいち早く嗅ぎつけ、開戦前から優秀な若手を送り込んでいた海軍。
(彼らのような海軍の有能な頭脳にこそ、我々が築き上げたこの『理性の景色』を深く刻み込んでおかねばならない)
「米内さん、高野さん。ようこそ『蓬莱丸』へ。……最高の医療と兵站をどうか特等席でご覧ください」
岸壁には父・和也が立ち、その背後には阿長が、輸送される膨大な点滴式ペニシリンと医療物資の最終確認を終え、静かに頷いている。
「康政。準備は整ったな」
和也の問いに、康政は青い空を見上げて応えた。
「はい。この『白亜の盾』と『紙の弾丸』、そして今日加わった海軍の新たな『目』。これらすべてが、近い将来、この国が誤った道を選ぼうとした時、それを押し止める最大の枷になります」
重厚な汽笛が、基隆の空に響き渡る。
一九一四年、九月。
歴史の針を裏から操るための、巨大な「命の箱舟」が、いよいよ最初の戦地、山東省へと向けて抜錨した。
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