第1話:赫き凶報と、静かなる布石
大正三(一九一四)年、七月。
南シナ海を渡る風は、ねっとりとした湿気と刺すような熱気を孕み、香港のヴィクトリア港を重苦しく包み込んでいた。数多のジャンク船や汽船が吐き出す石炭の煤煙と、海面の淀んだ匂いが入り混じる喧騒の只中に、漆黒の船体を持つ瑞長財団の貨客船『瑞長丸』が岸壁に横付けされている。
船内の客室では、天井に据え付けられた扇風機が、生ぬるい空気をただかき回していた。その単調な羽音の下で、法務顧問の霧島誠一郎は、額に滲む汗を白いハンカチで拭いもせず、分厚い契約書の束に冷徹な視線を落としていた。
「これでよろしい。大英帝国からの要請に基づいた、高柳少佐率いる医療部隊・第二陣の人道支援は、予定通り今月末をもって終了とします。ですが――」
霧島は銀縁の眼鏡を指で押し上げ、対座する香港支部長に低く告げた。
「李烈鈞将軍との、希少金属の買い付けに関する取引はここからが本番です。部隊は台湾へ引き揚げますが、医薬品と糧秣、そして稼働中の浄水施設の維持管理は、香港支部が責任を持って継続しなさい。彼らが掘り出すタングステンやマンガンの一片たりとも、他国の商人に渡してはなりません」
「承知しております、霧島先生。すでに現地の倉庫と輸送路の確保は完了しております」
支部長が深く首を垂れるのを確認し、霧島は静かに頷いた。
窓の外では、絶え間なく物資を積み下ろす『瑞長丸』の太い煙突から、黒煙が香港の空へ力強く立ち昇っている。華々しい人道支援の裏側で密かに構築された冷徹な兵站線は、誰に誇られることもなく、ただ盤石に脈打ち始めていた。
数日後。台湾・台北の瑞長財団本部。
夏の強烈な日差しを遮るため、重厚な窓掛けが閉じられた大会議室には、財団の最高幹部たちが円卓を囲んでいた。
上座には当主である新城和也が座し、その隣には、十九の夏を迎えて精悍さを増した康政が控えている。そして阿長や霧島、艶やかな美貌の裏で相手を圧倒する凄腕の交渉術を秘める瑞月といった面々が静かに言葉を待つ中、沈黙を破ったのは、財団の金庫番である翠玲だった。
「ロンドンおよびニューヨークの市場は、現在極めて神経質な動きを見せておりますわ」
翠玲は、手元に集められた海外市場の電信記録を指先でなぞりながら、透き通るような声で報告を始めた。
「先月二十八日、サラエボで起きたオーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者暗殺事件。当初はバルカン半島の局地的な騒乱と見られておりましたが、ここ数日で欧州の各市場から急速な資本の引き揚げが始まっております。特に穀物、鉄鋼、そして石炭の先物価格が異常な高騰を記録しており、これは単なる外交的緊張の範疇を超えています」
「市場は、すでに最悪の事態を織り込み始めているということか」
和也が低く唸ると、翠玲は静かに頷いた。
「はい。そして、この事態がもたらす『真の恐怖』は、株価の暴落などではありません」
翠玲の言葉を引き継ぐように、康政がゆっくりと顔を上げた。その瞳には、未だ十代の若者には似つかわしくない、底知れぬ先読みの光と実務家としての冷徹な計算が宿っている。
「欧州の複雑な同盟と協商の網は、すでに臨界点に達しています。オーストリアがセルビアに宣戦すれば、背後のロシアが動き、同盟国のドイツが動き、そしてフランス、イギリスが連鎖的に引きずり込まれる。……欧州全土が、巨大な火薬庫として弾け飛びます」
康政は、卓上に広げられた世界地図に視線を落とした。
「戦端が開かれれば、列強各国は自国の民間商船をこぞって軍事徴用するでしょう。これまで我々が利用してきた欧州系の定期航路も、一夜にして姿を消す。世界の海運と物流網は、数ヶ月の内に致命的な麻痺に陥ります。……世界規模の兵站の崩壊です」
会議室の空気が、氷のように冷え切った。
阿長が腕を組み、重々しい溜息を漏らす。自らの足で世界中の物流を繋いできた彼にとって、海運の麻痺という言葉の重みは痛いほど理解できた。
「康政の言う通りだ」
和也が、力強い声で場を引き締めた。
「康政の予測が外れたことは、これまで一度もない。世界は未曾有の暗黒に包まれる。だが、それは同時に、我々が血の滲むような思いで築き上げてきた『備え』が試される時が来たということだ。ただちに財団を戦時体制へと移行する。完成したばかりの『蓬莱丸』『美麗丸』の稼働準備を急がせ、高柳少佐の医療大隊にも待機を命じよ」
当主の決断に、幹部たちは一斉に深く頷いた。
その翌日。康政と和也の姿は、台北の中心部に建つ台湾総督府の執務室にあった。
目の前には、台湾総督・乃木希典大将が、巌のような静寂を纏って座している。
「康政殿。……急ぎの相談とは、何事だ」
乃木の声は、深く、低い。かつて康政の流血によって死の呪縛から解き放たれた老将は、今や瑞長財団の最も強力な、そして最も誠実な後見人であった。
康政は居住まいを正し、乃木の瞳を真っ直ぐに見据えて切り出した。
「総督。欧州の戦火は、遠からず我が国をも巻き込みます。……間もなく、大英帝国から日本政府に対し、日英同盟に基づいた参戦の要請、並びに艦隊の派遣要請が届くはずです」
乃木の眉が、ピクリと動いた。
「……しかし、今の内地の空気では、その要請を断る可能性が高い」
康政の静かな断言に、乃木は無言のまま先を促した。
「我が国の国益、ひいては将来の太平を考えた時、日英同盟の絆をここで損なうことは絶対に避けねばなりません。イギリスからの艦隊派遣要請は、何としても政府に受諾させる必要があります」
康政は懐から一通の厳重に封をされた書状を取り出し、乃木の前の机にそっと置いた。
「総督。お願いがございます。帝都にいらっしゃる伊藤博文公、そして児玉源太郎大将に、この信書をお届け願えないでしょうか。……イギリスからの要請が来た折には、政府がそれを断ることのないよう、御両所に水面下での根回しをお願いしたいのです」
乃木は書状を一瞥し、そして康政の顔をじっと見つめた。
「康政。陸軍の強硬派どもは、遠い欧州の海に艦隊を送るなどという益のない話には、猛反対するぞ。彼らを黙らせるだけの『手札』が、お前たちにあるのか」
「……もし、近々日本政府や陸軍から我が財団へ、山東省などへの病院船派遣の要請があった場合は、我々は喜んでそれをお受けいたします」
康政は、どこまでも温和に、しかし氷のような冷徹さを底に秘めて答えた。
「陸軍が動くのであれば、我々の持つ医療と兵站のすべてを提供し、彼らの命を救いましょう。香港での実績がある以上、必ずや我々を頼ってくるはずです。……彼らが我々の備えを必要とするなら、存分に利用していただきたいのです」
康政は決して「青島で特大の恩を売り、将来の艦隊派遣要請の際に陸軍の口を封じる」とは口にしなかった。しかし、乃木はその言葉の裏にある、あまりにも巨大で冷酷な政治的計算を正確に感じ取っていた。
陸軍を財団の圧倒的な兵站と医療に依存させ、逆らえないほどの恩の鎖で縛り上げる。そうすれば、来るべき英国からの要請に対して、陸軍は反対の声を上げられなくなる。
齢二十にも満たぬ青年が、大日本帝国の陸軍すら自らの「習熟訓練」の場として利用し、世界の歴史の針を裏から動かそうとしているのだ。
乃木は小さく息を吐き、不敵な笑みを浮かべて机の上の信書を力強く掴み取った。
「……よかろう。お前の描く盤面、伊藤公と児玉大将には、わしから責任を持って届けよう」
台湾の南端、熱気渦巻く高雄。
そこには、かつての鄙びた漁村の面影など微塵もない。巨大なドックが幾つも並び、耳を劈くような鋲打ちの音が昼夜を問わず響き渡る、鋼鉄の揺り籠となっていた。
「馬鹿野郎! E型給油艦の配管の継ぎ目が甘ぇぞ! 図面通りに組めばいいってもんじゃねえんだ!」
造船親方、荒金源三の怒号が、焼け付くような夕闇を突き抜けて響く。
ドックの中では、一万トン級の輸送艦の巨大な竜骨が、幾つも並行して規則正しく据え付けられていた。康政の厳命により開始された、新城型輸送艦の緊急量産体制である。すでにそれぞれの艦種に応じた工程が組まれ、工員たちは黙々と鉄を打っている。
荒金は、顔を煤だらけにした若い工員の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
「こいつはただの商船じゃねえんだぞ! 荒れ狂う海の上で、あの白亜の病院船に腹一杯の油を飲ませ続ける命綱だ! 一滴の漏れが命取りになるんだよ、叩き直せ!」
「へ、へいっ!」
怯える工員を怒鳴り散らした後、荒金は隣のドックで組み上げられつつある別の船殻――窓の多い上部構造を持つF型貨客船の足場を見上げ、さらに声を張り上げた。
「あっちのF型、人員交代船の居住区画も同じだ! 防音と水密、絶対に手を抜くんじゃねえぞ! 欧州までの地獄の往復で、医者や船乗りたちを畳の上で休ませて、人として生かして帰すための絶対の揺り籠だ! 康政様が思い描く命の補給線を、俺たちの油断で千切るわけにはいかねえんだ!」
荒金の言葉は、機能の説明などではない。過酷な工程の中で疲弊しかけている工員たちへ向けた、その船が担う『使命の重さ』の再確認であり、職人としての誇りを叩き起こすための強烈な檄であった。
「「「おおォォォッ!!」」」
工員たちの間から、機械の轟音に負けない力強い雄叫びが上がる。
アリスター・ダンカンが焼き上げた特殊鋼。康政が設計した合理的な規格。そして、現場の男たちが流す汗と執念。
世界が破滅の炎に包まれようとする中、台湾の南端では、遠き未来の命を繋ぐための巨大な兵站線が、力強く、音を立てて立ち上がりつつあった。
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