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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第5章:飛躍の盤面 知の要塞

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第14話:横浜の庇護者と、南風の帰還

 明治四十四(一九一一)年、秋。

 開け放たれた硝子窓から、微かな潮の香りが流れ込んでくる。横浜の小高い丘に建つ別荘の客間には、静謐ながらも重厚な空気が満ちていた。

 ハルビンの駅頭で凶弾に倒れたものの、一命を取り留めて静養を続ける伊藤博文の膝には、厚い毛布が掛けられている。頬は少し削げ落ちていたが、深く座るその男の眼光は、少しも曇ることなく国家の行末を見据えていた。

 客間の長椅子には、伊藤を慕う原敬、牧野伸顕、そして若き外交官である吉田茂が同席している。


 康政は卓に広げた数枚の書類に視線を落としながら、帝都での数日間に及ぶ成果を報告していた。陸軍の宇垣一成、海軍の秋山真之との間に築き上げた関係性。それは、机上の空論でも精神論でもなく、大出力の造船や物資の量産という物理的な土台を用いた関係の構築であった。

「軍の石頭どもに、彼らが自ら渡りたくなるような『実利の橋』を架けてきたか」

 伊藤は低く喉を鳴らし、口元に皺を寄せて笑った。

「よかろう。軍部との線は君たちが繋いだ。ならば、政府や元老院から上がるであろう余計な横槍は、このワシが防波堤となろう」

 伊藤の言葉に康政が深く頭を下げると、横で黙って聞いていた原敬が、身を乗り出すようにして口を開いた。

「軍部との交渉は見事だが……新城君、私が注目しているのは、君たちが台湾との間に敷こうとしている海底電信線のことだ。政府の認可を待たず、財団の単独事業として進めていると聞いているが、あれほど莫大な費用をかけてまで、独自の通信網を急ぐ理由はそこにあるのかね?」

 原の鋭い問いかけに、康政は穏やかな表情を崩さずに頷いた。

「はい。いざ有事となれば、情報の遅れは致命傷になります。我々が構築する海底電信線は、政府や他国の干渉を受けない、独立した強靭な線脈です。情報の速度こそが、我々と国を守る最大の防壁となると考えております」

 外交に通じる牧野が、感心したように顎を撫でた。末席で控えていた吉田茂も、十六歳の少年が国家の根幹に関わる基盤を事も無げに構築しつつある事実に、ただ瞬きを忘れて聞き入っている。

 康政は書類を畳み、真っ直ぐに伊藤と側近たちを見据えた。

「伊藤公。お身体が本調子に戻られましたら、皆様もぜひ一度、台湾へ視察にいらっしゃいませんか」

「台湾へ、かね?」

「はい。南風は身体の療養にも適しておりますし、何より、我々が造り上げている巨大な造船所や電信の設備を、直接皆様の目で確かめていただきたいのです」

 康政の提案に伊藤が少し目を細めたその時、瑞月が静かに立ち働き、台湾から持参した茶葉の入った白磁の急須を傾けた。

 無駄な音を一切立てず、ただ流れるような衣擦れの音だけが座敷に響く。透き通るような肌と、深い漆黒の瞳。湯呑みに茶が注がれるその一連の動作には、一片の隙も存在しなかった。

 立ち昇る芳醇な茶の香りと、洗練され尽くした瑞月の所作の美しさに、老練な政治家たちは自然と口を噤み、ただ静かに見惚れていた。一介の民間財団に、これほどまでに磨き抜かれた人材が控えているという事実そのものが、台湾という地の底知れぬ成熟を無言のうちに雄弁に物語っている。

 伊藤は目の前に置かれた茶を一口啜り、ふっと頬を緩めた。

「……よかろう。これほど美味い茶を淹れる人間が育つ島だ。ワシの足が動くようになったら、皆を連れて南風に吹かれに行くとしよう」



 その日の午後、横浜港の波止場。

 黒煙を上げる巨大な汽船の傍らで、康政と瑞月が乗船の時を待っていると、人混みを掻き分けて大きな荷物を背負った人影が小走りで近づいてきた。

「早川さん……見送りですか?」

「冗談言っちゃいけねえ」

 下町の工房にいるはずの早川徳次は、額の汗を手ぬぐいで拭いながら、ニヤリと白い歯を見せた。彼の手には、使い込まれた職人の道具箱がしっかりと握られている。

「あんな途方もない図面を見せられちゃ、帝都でちまちま錺職人をやってる場合じゃねえ。俺の腕ごと、あんたらの船に乗せてくだせえ」

 自ら工房を飛び出し、台湾行きを決意して駆けつけてきた若き職人の熱に、康政は目尻を下げて深く頷いた。

 そこへ、背後から慌ただしい足音が幾つも近づいてくる。帝都で机を並べた学友たちだった。

「お前が帰っちまうと、こっちが静かで退屈になるぜ。台湾でも派手にやれよ!」

 御子柴が快活に笑い、康政の肩を軽く小突く。

「相変わらず慌ただしい奴だな。……身体だけは気をつけてな、康政」

 久世が眼鏡の位置を直しつつ、静かな声で気遣う。

「南風に吹かれて、私たちのこと忘れないでよね。……また、手紙書くから」

 響子は少し伏し目がちに言い、鞄の持ち手を握る指先にぎゅっと力を込めた。

 康政は彼ら一人一人の顔を見渡し、組織の重鎮としての顔を解いて、年相応の柔らかな笑みを浮かべた。差し出された彼らの手をしっかりと握り返す。港を吹き抜ける海風が、別れを惜しむ彼らの前髪を揺らしていた。



 数日後。台湾、台北の瑞長財団本部。

 重厚な長机が置かれた会議室で、上座に立つ康政の報告を、財団の幹部たちはそれぞれの立場で聞き入っていた。

 金庫番の翠玲は、帝都で動いた巨額の資金や早川への投資報告を前に、小さく溜息をつきながらも算盤そろばんを弾く指を止めることはない。台湾の物流と情報を束ねる阿長は、手元の帳面に陸海軍との新たな輸送経路を素早く書き留めている。

 法務・海外投資を担う霧島誠一郎は静かに腕を組み、軍部との契約における法的な隙がないかと思考を巡らせている様子だった。そして、諜報の主役である燕は壁際に寄りかかり、内地との情報のやり取りがどう変わるか、鋭い視線で康政の横顔を見つめている。白石や高柳ら医療陣、そして乃木や橘といった面々も、静かに頷きながら新たな布石の重みを噛み締めていた。

 長机の端でその様子を見守っていた父・和也は、多くを語ることなく、ただ頼もしく成長した息子の姿に静かな安堵の視線を送っている。

 理路整然とした報告が終わると、室内に深い息が広がる。瑞月が康政の斜め後ろで静かに一礼した。

「帝都での重務、ご苦労様でございました」

 その言葉を皮切りに、幹部たちから静かな、しかし確かな賛同の拍手が湧き起こった。



 その日の夕刻。舞台は財団本部から、家族の待つ新城邸へと移る。

 玄関の重い木扉が開くや否や、奥の広間から短い足音がパタパタと近づいてきた。

「おにいさま!」

 少し見ないうちにすっかり足取りがしっかりとした妹の沙絵子が、満面の笑みで駆け寄ってくる。つい先ほどまで本部で冷徹な顔を見せていた若き理事の表情が、その瞬間、だらしなく崩れ落ちた。

「沙絵子! 寂しい思いはさせなかったかい? ほら、ちゃんと内地でとびきり可愛いお土産を買ってきたぞ!」

 康政は手にした鞄を床に放り出し、しゃがみ込んで妹の頭を撫で回す。その傍らでは、母の和子が「相変わらずねぇ」と目尻を下げて笑い、侍女のリンが康政の放り出した鞄を拾い上げながら「お帰りなさいませ、康政様」と静かに頭を下げた。

 康政は立ち上がり、リンに向けて穏やかな笑みを向ける。

「リン。留守の間、家のことと沙絵子の世話をありがとう。君たちにも皆で食べられる横浜の洋菓子を買ってきたんだ。後で分けてくれ」

「ありがとうございます」

 リンが嬉しそうに鞄を受け取る横で、一緒に屋敷へ招かれていた早川は、目を丸くして固まっていた。さっきまで軍の将校のように会議を仕切っていた男と、目の前で妹を溺愛している男が同一人物とは到底思えなかったからだ。唖然とする早川の肩を、燕が呆れたように笑いながらポンと叩き、奥の広間へと促した。


 やがて、新城邸の広間にある大きな円卓を皆で囲む。

 康政が横浜の異人館街で仕入れてきた資生堂の美しいブリキ缶を開けると、甘いバターの香りがふわりと部屋いっぱいに広がった。阿長が相変わらずの巨躯を揺らして洋菓子を豪快に口へ放り込み、高柳は家人のように打ち解けた様子で隣の燕と笑い合っている。

 さらに虎屋の羊羹が綺麗に切り分けられ、和也のために康政自らが手挽きのミルで砕いた上質な珈琲が振る舞われる。

 そこには、大組織の堅苦しい空気は微塵もない。長年支え合ってきた家族としての賑やかな笑い声が、広間の隅々にまで満ちていた。

 康政は椅子に深く腰掛け、手の中の温かい茶飲み茶碗を見つめながら、ゆっくりと息を吐き出す。

 開け放たれた窓から、内地とは違う湿度を帯びた台湾の心地よい南風が吹き込み、卓から立ち昇る珈琲の湯気を優しく揺らしていた。

ご一読いただき、ありがとうございます。


5章完となります。


引き続き見守っていただければ幸いです。

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