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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えるまで  作者: ふじやん
第5章:飛躍の盤面 知の要塞

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第4話:情報の覇者と、未来への布石

 明治四十三年(一九一〇年)夏

 南国特有の焼けつくような陽光が台北の街を白く染め上げる中、瑞長財団本部の最上階にある会議室は、分厚い遮光の引き戸と静かに首を振る電動扇風機によって、ひんやりとした静謐な空気が保たれていた。

 部屋の中央に据えられた大きな紫檀の円卓。その上座で、新城和也は腕を組み、静かに目を閉じて報告に耳を傾けていた。


「――以上が、内地の造船所に特命で発注している『海底電信線敷設艦』の建造進捗です。資金の投入は計画通り、船体そのものは年内には間違いなく進水式を迎えられる見通しですわ」

 金庫番である黄翠玲ホァン・スイレイが、手元の分厚い綴りから顔を上げ、淀みない声で報告を締めくくった。その目元には、膨大な数字の辻褄を合わせた安堵の色が微かに滲んでいる。

「翠玲さん、毎日の細かな帳簿の確認、本当にありがとう。建造の遅れがないのは何よりの吉報です」

 翠玲の隣に座る十五歳の新城康政が、温和な笑みを浮かべて労いの言葉をかけた。翠玲は少しだけ目尻を下げて頷き、手元の書類を揃える。

 康政は、卓上に広げられた極東から東南アジアにかけての広大な海図に視線を落とした。

「ですが父上。敷設艦が完成したからといって、すぐに台湾と大陸、あるいは南方とを結ぶ海底線の敷設に取り掛かるわけにはいきません。船が引き渡され次第、まずは数ヶ月間、近海での練習航海を徹底的に行います」

 和也がゆっくりと目を開き、息子へ温かい眼差しを向けた。

「練習航海か」

「はい。海底電信線の敷設は、ただ海に線を沈めれば良いというものではありません。潮流の速さ、海底の複雑な地形、そして海水の塩分濃度による腐食。これらを正確に読み取り、一定の張力を保ちながら線を這わせる高度な操船技術が不可欠です。我々が真に手に入れなければならないのは、鉄の船ではなく、それを完璧に運用できる『次世代の海の男たち』という担い手なのです」


 康政の言葉に、和也は深く頷いた。

「そうだな。何事も急いては事を仕損じる。まずはしっかりと人を育てて、盤石な運用体制を築き上げていこう」

「ありがとうございます。父さん、この独自の通信網構築は、決して列強や軍部に対する武力的な牽制ではありません。これはあくまで、アジア全域の情報網を我々がいち早く支配し、莫大な先行利益を独占するための純粋な商いです。情報の遅れは命取りになります」

 康政は海図の南端、シンガポールの位置を指先で静かに叩いた。

「そして、深海の過酷な環境から電信線の中枢を守るための絶縁体として、どうしても東南アジアに自生する樹木から採れる天然樹脂『グッタペルカ』の独占的な供給網が必要になります。やはり、シンガポールでの直接交渉は避けられません」


 和也が頼もしく同意を示したその時、会議室の分厚い扉が音もなく開いた。

 入ってきたのは、新城家を影から護る、阿長あちょうであった。彼の岩のような表情には普段の温厚さはなく、ただ冷徹な緊張感が張り付いている。

「和也様、康政様。帝都の支部より、特報が入りました」

 阿長は二人の前に進み出ると、一枚の解読紙を卓上に置いた。


『八月二十九日、韓国併合条約、公布及ビ発効セリ』


 その短い一文が、会議室の空気を一瞬にして氷点下へと引き下げた。

 和也が眉間を深く揉みほぐし、重い息を吐き出す。翠玲は小さく息を呑み、伏し目がちに両手を強く握り合わせた。

 だが、康政は手元の茶器を手に取り、静かに一口啜ると、音を立てずに湯呑みを置いた。

(……やはり、個人の命一つでマクロな地政学の慣性は止められないか)

 康政の内心が、冷たい事実を再考する。伊藤博文があのハルビンの凶弾から生き延び、穏健派の重しとして軍部の暴走を必死に牽制していた。しかし、ロシアの南下という現実の恐怖と、山縣有朋ら軍部強硬派が推進する巨大な潮流を、完全に押し留めることはできなかったのだ。

「……ついに、踏み切ったか」

 和也の苦渋に満ちた声に、康政は静かに首を振った。

「悲観することはありません。伊藤公の生存は、間違いなく彼らの強硬な歩みを鈍らせ、我々に準備の時間を与えてくれました。父さん、ここからが我々の真骨頂です」


 康政は、澄み切った瞳で和也を真っ直ぐに見据えた。

「軍部はこれから、大陸における過酷な統治へと足を踏み入れます。しかし、彼らは必ず遠くない未来に、分厚い壁にぶつかって疲弊するはずです」

「壁、だと?」

「はい。広大な大陸の維持は、点と点をつなぐ細い補給路に頼るしかありません。そこに現地の遊撃戦が絡めば、鉄路は寸断され、極寒の中で兵士たちは孤立します。そして何より、見えない病魔……この冬、おそらく満州の地で凄惨な悪疫の大流行が起こるでしょう。彼らの武力は、大地の広さと病の前に、為す術なく崩壊の危機に瀕する可能性が高いです」

 康政の声には、確信が宿っていた。

「我々が動くのは、まさにその時です」

 康政は卓上の海図に両手を突き、低く、力強い声で告げた。

「強硬派が窮地に陥り、万策尽きた時。彼らが我々の持つ規格化された物流網と、凍らない糧秣、そして悪疫を防ぐための医療を、喉から手が出るほど必要としたその絶好の節目に、我々はそれを提供します。もちろん、無償ではありません。その対価として、彼ら軍部には『伊藤公の進める穏健な外交路線や、我々の商圏に一切の干渉をしない』という楔を打ち込みます」

 軍の首根っこを押さえるための、壮大な長期戦略。十五歳の少年が描く底知れぬ盤面を前に、和也は深く頷き、代表理事としての威厳と父親としての深い信頼を込めて立ち上がった。

「国家が血を流す前に、我々の実務でその急所を握るというわけだな。お前の描くその布石、存分に進めてくれ」



 その日の午後。和也と康政は、基隆の郊外に新設された『医療研究所』へと足を運んでいた。

 数年先の軍部との巨大な取引、そして目前に迫るシンガポールでの交渉。その双方において最大の切り札となる、最先端の医療技術の進捗を確認するためである。

 研究所の分厚い扉の奥は、アルコールと次亜塩素酸の清潔な匂いに満ちていた。白衣に身を包んだ白石医師が、少し充血した目を細めながらも、深い敬意と共に二人を出迎える。

「和也様、康政様。お待ちしておりました。お二人が指定された未来の弾丸の仕込みは、順調に進んでおります」

 白石はそう言うと、二人をガラス張りの第一研究室へと案内した。そこでは数名の研究員が顕微鏡を覗き込み、血液の凝固反応を細かに記録している。

「安全な輸血の実用化に向けた研究です。血液型の概念を取り入れ、同時に康政様からご助言いただいた手法で、血液が固まるのを防ぎながら安全に保存・輸血する技術が確立しつつあります。これにより、過酷な現場での大量出血による死者は劇的に減るでしょう」

「血を他者へ移す術が、これほど安全に行えるようになるとは……本当に頭が下がる思いだよ」

 和也が感嘆の息を漏らすと、白石は隣の区画へ歩みを進めた。そこには純白の粉末が大量に精製され、ガラス瓶に詰められる工程が広がっていた。

「痛みを和らげるための強力で安全な鎮痛剤の量産体制です。すでに工場規模での稼働準備に入っております。そして、あちらの区画では……」

 白石の顔が、医師としての厳しい使命感に引き締まる。

「大陸で発生の兆しがある恐るべき悪疫に対抗するための新たな抗菌剤の化学合成実験と、飛沫の感染を完全に防ぐための微細な網目を備えた『衛生覆面』の量産設備です。万が一、大陸で悪疫が広がっても、我々の物流網を担う人員だけは、この完璧な防疫の仕組みで守り抜くことができます」


(これさえあれば、史実の満州肺ペストによる破滅的なパンデミック被害を、最小限に食い止められるはずだ)

 康政は内的独白の中で、冷徹に被害予測の論理を弾き直す。だが、白石の報告はそれで終わりではなかった。

 彼は最も奥にある、厳重に密閉された特別培養室の前で足を止めた。

「康政様。最後に、貴方から厳命されていた最も困難な課題についての報告です」

 白石はガラス越しに、無数の平皿が並ぶ培養棚を見つめた。

「日本の若者たちを死に至らしめる最大の病、亡国病たる結核。これまでは不治の病とされてきましたが……康政様の言われた通り、特定の土壌に生息する菌から、結核菌を死滅させる成分を抽出する実験に、ついに着手いたしました」

 (ストレプトマイシンの原型開発……間に合ったか)

 康政の心臓が、静かに、しかし大きく跳ねた。

「まだ道のりは険しいですが、数年以内には必ずや、進行を止める特効薬を完成させてみせます」

 結核を、治る病にする。その言葉の重みに、和也は絶句し、ただ白石と康政の横顔を交互に見つめることしかできなかった。

「白石先生、無理はしないでくださいね。皆さんの身体が資本なのですから」

 康政は温かい言葉をかけ、深く頭を下げた。

「先生たちの血の滲むような研究の成果は、今すぐ世に出すためのものではありません。これは、来るべき軍部との交渉、そして列強の巨大資本から我々が望む条件を引き出すための、誰も抗うことのできない最強の武器です。どうか引き続き、命を救うための弾丸を磨き続けてください」

「はっ。我々医療陣の総力を結集し、必ずや盤石な手札を揃えてみせます」



 その夜、新城家の書斎にて。

 窓の外から聞こえる南国の穏やかな虫の音を背に、康政は父・和也と共に、一枚の暗号電報を見つめていた。

 香港へ先行して潜入している、燕と瑞月からの吉報であった。


『金融防壁ノ構築、完了セリ。并ビニ、英国人社交界ヨリ、星港シンガポールノ石油・樹脂資本幹部ヘノ「有力者ノ紹介状」ヲ獲得ス。盤面ハ整エラレタリ』


 康政の脳裏に、漆黒の極上な絹の夜会服を纏い、香港の英国人社交界を席巻する瑞月の姿が鮮明に浮かび上がった。計算し尽くされた視線の落とし方と、甘く危険な香りを放つ微笑み。彼女の息を呑むほどの美貌と、男たちを掌で転がす立ち振る舞いは、どんな屈強な武力よりも確実に相手の理性を奪う。野蛮な極東の島国と侮っていた誇り高き英国の紳士たちが、彼女の魔性に抗えず、進んで紹介状を差し出す光景は容易に想像がついた。

「終わってみれば、本当に見事な手際だったな」

 和也が、安堵と誇りが入り混じった笑みを浮かべる。

「ええ。瑞月姉さんの魅力と、霧島さんや燕さんの完璧な実務のおかげで、シンガポールの独占資本と対等な席に着くための切符が手に入りました」

 康政は、机の上に置かれた東南アジアの広大な地図に視線を落とした。

 大陸で疲弊する強硬派を抑え込み、大切な家族と仲間たちを守り抜くための医療の仕込みは、白石たちの手で順調に進んでいる。ならば次に行うべきは、その強固な防壁の物理的な動力源となる油と、情報網を支配するための樹脂を、自らの手でもぎ取ってくることだ。

「父さん。いよいよ、最大の壁に挑む時が来ましたね」

 康政が静かに立ち上がると、和也もまた威厳ある総帥としての顔つきになり、力強く立ち上がった。

「ああ。春のシンガポール……相手がどれほど巨大な大英帝国の資本であろうと、我々『瑞長』の理で、必ず道を開いていこう」


 ランプの灯りが、二人の決意に満ちた横顔を赤々と照らし出す。

 和也は静かに引き出しを開け、長旅に向けた旅券の束を取り出し、康政は地図の上からシンガポールを示す小さな駒をそっと拾い上げた。

読んで頂きありがとうございます。


誤字報告助かります、感謝申し上げます。

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