第12話:鋼の胎動と、南の島の迎春
明治四十二年(1909年)十二月も押し詰まった頃。
台湾北部の要衝、基隆港に建設された瑞長財団のドックは、冷たい海風を切り裂くような重機と鉄の咆哮に包まれていた。
視察に訪れた十四歳の新城康政は、火花が降り注ぐ足場の上から、ドックに鎮座する船体を見上げていた。
「康政様。現在、最終艤装を行っているのが、本州と北海道、そして下関と釜山を繋ぐ大型鉄道連絡船……その最後となる第四船です。年明けには公試を終え、ただちに内地へ向けて出航いたします」
付き従う工廠長の報告に、康政は静かに頷いた。
「第一船と第二船の状況はいかがですか?」
「はい。すでに下関と津軽の海に配備され、連日かなりの量の物資と人員を運んでおります。内地の物流網は、我々の船によって劇的にその速度を上げております」
「結構です。かつて鉄道院の長谷川総裁とお約束した通り……これで帝国の『内地の血流』は盤石になりますね」
康政は、満足げに目を細めた。鉄道連絡船は組み上がった端から最前線へ投入し、物流という事実をもって政府の中枢に瑞長財団の存在価値を示す。
連絡船の視察を終えた康政の足は、第一船と第二船が旅立って空いたはずの、厳重な天蓋で覆われたドックへと向かった。
そこには、異様な威圧感を放つ葉巻型の鉄の骨組み――竜骨と分厚い耐圧殻が、円筒状に組み上げられつつあった。
「試作潜水艇の進捗はどうですか」
「はい。図面の通り、水上航行用の重油機関と、潜航用の大容量鉛蓄電池による電動機、この二つの動力を組み合わせた構造で建造を進めております。しかし、海軍が用いているような揮発油を用いなくて本当によろしいので?」
工廠長の戸惑いも無理はない。現在、帝国海軍が必死に国産化を進めている潜水艇は、すべて水上航行にガソリンエンジンを採用していたからだ。
康政は、火花を散らす鉄の鯨を見つめながら、静かに、しかし断固たる声音で首を振った。
「海軍が用いている揮発油は、艦内への引火の危険が高すぎます。私たちは、圧縮着火で重油を燃やせる安全な機関を使いましょう。いずれは空気を必要としない新たな機関を載せる日が来るかもしれませんが、それはずっと先の話です」
康政は、設計図を広げる技術者たちを見渡し、丁寧な言葉で指示を続けた。
「今はまず、確実に浮上し、乗組員を無事に生還させるための、頑丈な殻を造ることに集中してください。潜航という未知の技術に挑む彼らの命を、機関の爆発というつまらない事故で奪うわけにはいきませんからね。……海は、決して甘くはありません」
「はっ……! 承知いたしました」
その穏やかで理知的な、しかし人命を最優先とする方針に、工廠長と技術者たちは深く頭を下げた。
康政の視察は、造船ドックだけに留まらなかった。
次に向かったのは、轟音と濃密な油の匂いが立ち込める『内燃機関の試験場』である。そこでは将来の陸上輸送網、さらには誰も見たことのない航空機に載せるための小型で高出力なエンジンの試作が、泥臭い試行錯誤を繰り返していた。油まみれの技術者たちが、異常発熱や部品の破損と格闘しながら、少しずつ確かな出力を記録していく。
さらに歩みを進めた先にある『電子・通信研究所』。そこは外の喧騒とは打って変わり、静寂に包まれた薄暗い空間だった。白衣を着た研究者たちが、真空状態のガラス管の中で微かに発光するフィラメントを、息を詰めるように観察している。
「この小さな光が、いずれ電線すら持たずに、遠く離れた地へ声や情報を届ける要になります。焦らず、基礎を固めてください」
康政の静かな激励に、研究者たちの顔に熱い誇りが浮かぶ。
そして最後は、厳重な空気清浄設備が稼働する『ペニシリン精製工場』であった。全身を白い無菌服で覆った作業員たちが、ハルビンで二人の命を救った「琥珀色の水」を、整然とガラス瓶へと封入している。来たるべき台湾全域の医療基盤構築に向け、特効薬の大量生産体制は静かに、しかし力強く稼働を始めていた。
医療、通信、輸送、そして軍事。のちの歴史を根底から覆す鋼と知の胎動が、この基隆の地で確かに脈打っていたのである。
すべての視察を終えた康政が最後に向かったのは、基隆の喧騒から少し離れた、瑞長財団の特別療養施設だった。
消毒液の清潔な匂いが漂う静かな個室。そこには、ハルビンでの死闘から生還し、順調に回復へ向かっている燕と、彼女を診察する高柳の姿があった。
部屋に入るなり、康政はまず高柳に向き直り、深く頭を下げた。
「高柳中尉。貴方の卓越した医術がなければ、私の描いた盤面は完全に崩壊し、あの場にいた全員の未来が潰えておりました。瑞長財団は、先生に一生の恩義があります」
「よ、よしてください康政様! 私はただ、目の前の命を繋いだだけで……」
高柳は恐縮して顔を赤らめた。だが、十四歳の絶対的な支配者から向けられたその深い敬意は、一介の軍医でしかなかった高柳の魂を震わせた。自分は今、ただの医者ではなく、この少年と共に新しい時代の医療を創り上げる開祖の一人として認められたのだと、確かな誇りが胸に宿るのを感じていた。
高柳が静かに部屋を退出した後、康政は燕が横たわるベッドの傍らに置かれた椅子に、静かに腰を下ろした。
燕は、包帯の巻かれた体を起こそうとした。
「康政様……お越しいただき……」
「そのまま横になっていてください」
康政は静かに手で制し、そして、ベッドの上に置かれた燕の華奢な手を、両手でそっと包み込んだ。
「燕さん」
康政は、静かで丁寧な声音で語りかけた。しかし、その声にはいつもの理知的な響きはなく、ただ深い痛惜の色が滲んでいた。
「私の未熟な盤面のために、貴女の命を天秤にかけてしまった。痛い思いをさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
十四歳の少年が、深々と頭を下げる。
その瞬間、燕の胸の奥底で、何かが激しく音を立てて崩れ落ちた。
彼女は、人身売買の果てに異国の泥の中でゴミのように死にかけていたところを、阿長たちに救われた身だ。一度は捨てられたはずの自分の命に、唯一の価値を持たせる方法。それは自ら望んで血を吐くような鍛錬を積み、主君のための「鉄の盾」となって肉を裂かれることだけだと、彼女自身が己に呪いのように言い聞かせて生きてきたのだ。
だが今、己の絶対的な主君は、自ら望んで使い捨ての駒となったはずの彼女の負傷に対して、一人の人間としての深い敬意と謝罪の念を向けている。康政の温かい手のひらを通じて、燕は生まれて初めて「自分は便利な盾としてではなく、一人の人間として失いたくないと願われているのだ」と悟ったのである。
「……康政、様……」
燕の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。声にならない嗚咽が、静かな病室に響く。
これまで彼女の心を満たしていた「死んでお護りする」という冷たい刃のような感情は、熱を帯びて溶け去っていた。代わりに芽生えたのは、ひどく人間らしく、そして強烈な生への執着だった。
『 私は、生きたい 』
燕は、康政の温かい手を握り返しながら、心の中で強く誓った。盾として死ぬのではない。生きて、この温かい手を持つ人が創り上げる眩しい未来を、いつまでも一番近くで見届けたい。
一人の少女が、暗い呪縛から解き放たれ、自らの足で歩き始めた瞬間であった。
年が明け、明治四十三年(1910年)の正月。
台北に構えられた新城家の邸宅は、外の過酷な歴史のうねりや血生臭い暗闘の気配を微塵も感じさせない、温かく穏やかな空気に包まれていた。
広間には、豪華な日本のおせち料理と共に、カラスミや豚肉料理など、彩り豊かな台湾の祝膳が所狭しと並べられている。
「いやぁ、帝都の冬は本当に骨身に堪えましたわ。やはり南の島が一番ですわね」
帝都での壮大な仕事を完璧に成し遂げ、帰還した瑞月が、優雅に杯を傾けながら笑う。その隣では、同じく瑞長を裏から支える翠玲が「お疲れ様でした」と微笑みながら、瑞月に芳醇な酒を注いでいた。
「ほら燕、もっと食べなさい。血肉に変えなきゃ治るものも治らないわよ」
部屋の中心では、母親である和子が、生まれたばかりの赤子――康政の愛らしい妹である沙絵子を大事そうに腕に抱きながら、歩けるまでに回復した燕に世話を焼いている。侍女のリンも「そうよそうよ」と笑いながら、燕の皿に山盛りの料理を取り分けていた。
阿長は相変わらずの巨躯を揺らして豪快に豚肉を頬張り、高柳はすでに家人のように打ち解け、赤顔になって苦笑している。
そこにあるのは、血を分けた家族以上の絆で結ばれた、瑞長財団という一つの『家族』の温もりであった。
宴もたけなわとなった頃。上座に座っていた新城家の長であり、瑞長財団の代表理事である和也が、静かに姿勢を正して立ち上がった。
その威厳ある所作一つで、広間の喧騒が心地よい静寂へと変わる。全員の視線が、組織の真の屋台骨である大黒柱へと集まった。
「皆、昨年は本当によくやってくれた」
和也の深く、温かい声が広間に響き渡る。
「ハルビンでの死闘、そして帝都での壮絶な交渉。一つ間違えば、我々はこの世にいなかったかもしれない。幾多の死線を越え、今日こうして皆で息災に笑い合えるのは……ひとえに、ここにいる全員が命を懸けて己の責務を全うしてくれたおかげだ。代表として、そしてこの家の長として、心から礼を言う。ありがとう」
和也が深々と頭を下げると、阿長や高柳、そして瑞月たちも、静かに、しかし深い敬意を込めて姿勢を正した。
和也の少し斜め後ろ、影の頭脳たる定位置に座る康政は、父のその立派な背中を見つめ、静かに誇らしげな笑みを浮かべていた。和子が抱く幼い沙絵子が、キャッキャと無邪気な声を上げる。この平和な光景こそが、康政が何としても護り抜きたい絶対的な基盤であった。
顔を上げた和也が、自らの杯を高らかに掲げる。
「春には、いよいよ帝都から『知の黒船』がこの島にやって来る。我々の描いた夢が、本格的に産声を上げる年だ。皆、本年もどうか力を貸してほしい!」
「応ッ!」
「ええ、勿論ですわ!」
和也の力強い音頭に合わせ、阿長の咆哮と、瑞月や翠玲の艷やかな声が重なる。康政も、燕も、高柳も、全員が弾けるような笑顔で杯を合わせ、清らかな音を響かせた。
南の島の暖かな正月。彼らは春にやってくる嵐――若き学生たちとの出会いに向けて、静かに、そして力強く心を一つにしていた。
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