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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えるまで  作者: ふじやん
第4章 白銀の波濤と、規格の防人

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第11話:帝都の推挙と、南の島の青写真

 明治四十二年(一九〇九年)十一月中旬。

 帝都・東京、本郷区。日本における最高峰のエリート学生を束ねる「第一高等学校」の重厚な校長室は、古き良き墨と紙、そして厳格な男たちの汗が染み付いたような、特有の重苦しい空気に包まれていた。

 だが今、その室内の空気は塗り替えられている。

 来客用の豪奢な革張りのソファに腰を下ろしているのは、極上の絹で仕立てられた和装の美姫、瑞月みづきであった。彼女が微かに動くたびに漂う伽羅の香りと、その息を呑むほどの洗練された美貌が、帝都の最高学府という堅牢な男社会の空間を、いとも容易く彼女自身の「領域」へと変えていた。

「なるほど。あの時の台湾の泥に塗れた神童が、ついに『人』を創るか」

 瑞長ずいちょう財団の代理人である彼女から手渡された分厚い書状を読み終えた一高校長、新渡戸稲造にとべ いなぞうは、微かに震える手で髭を撫で、やがて腹の底から痛快な笑い声を上げた。

 かつて台湾で、新城康政と共にサトウキビの品種改良と製糖という大事業を成し遂げた新渡戸の脳裏には、今でもあの時の記憶が鮮明に焼き付いている。泥に塗れながらも、大人たちを震え上がらせるほどの冷徹な合理主義で、南の島に莫大な富の土台を築き上げた恐るべき少年。

「昨年、乃木総督が発案された『大学』の創設。それ自体は素晴らしい国家の計です」

 瑞月は涼やかな瞳で、真っ直ぐに新渡戸を見つめた。

「しかし康政は仰いました。器だけあっても意味がない。そこに最高の知を注ぎ込むため、帝都の古き学閥に縛られず、真に自由な学問を追求する『高等学校(大学予科)』の設立こそが急務である、と」

「一高をも凌ぐ、まったく新しい学びの土台か。いかにも康政君らしい、途方もないスケールだ」

「先生。我々はあなたに、今の地位を捨てて台湾へ来てほしいとは申しません。貴方にはこの帝都で、果たすべき重責がおありでしょう」

 瑞月は、新渡戸の教育者としての矜持に最大限の敬意を払いながら、美しい声で言葉を紡いだ。

「我々がお願いしたいのは、貴方の『眼』です。帝都の古き学閥や、年功序列の泥に埋もれて息苦しさを感じている、真に優秀な学者や未来ある若者たち。彼らを、我々に推挙していただきたいのです。台湾のまっさらな土台に、彼らの類まれなる頭脳を根付かせたいのです」

「康政君の創る学び舎なら、日本の未来を託すに値する。間違いはない」

 新渡戸は即答した。古臭いしがらみに縛られず、真の教養と実学を純粋培養できる新たな学び舎の誕生。教育界の頂点に立つ彼にとって、才能を持て余している自分の教え子や、不遇の天才たちを新天地へ送り込むのに、これほど胸のすく舞台はなかった。

「喜んで紹介状を書こう。帝都に眠る最高の異端児たちを、君たちに紹介する」



 時を同じくして、遥か南の島、台湾。

 豪奢なルネサンス様式で建てられた台湾総督府の長官室にて、十四歳に成長した新城康政は、威風堂々たる台湾総督・乃木希典のぎ まれすけと向かい合っていた。

「総督。昨年、貴方が宣言された『台湾での最高学府(大学)の創立』。我々瑞長財団の全面的な資金提供により、学び舎の器は順調に整いつつあります。本日は、その次なる段階の承認をいただきに参りました」

 康政の静かな、だが確かな重みを持つ言葉に、乃木は深く頷いた。

「うむ。貴殿の迅速な手配と圧倒的な財力、見事の一言に尽きる。して、次なる段階とは?」

 康政は懐から精緻な構想図を取り出し、卓上に広げた。

「器に注ぐ知の土台たる『高等学校』の設立。そして……台湾全土における、医療基盤の構築です」

 康政が示した青写真は、決して魔法のような夢物語ではなかった。現実の過酷さを誰よりも知る彼だからこそ描ける、恐るべきほどに緻密な道筋であった。

「総督もご存知の通り、この台湾は豊かな資源を持つ一方で、風土病やマラリアの脅威が常に民衆と軍の足を引っ張っています。我々はまず、主要な街に拠り所となる数カ所の『診療所』を建設します。そしてそれと同時に、先ほど申し上げた大学の医学部に、最前線で戦える優秀な教授陣を帝都から招聘し、徹底的に次代の医療を担う人材を育成する」

 乃木は、康政の指し示す地図上の点(診療所)と線(交通路)を鋭い眼光で見つめた。

「教育と医療の拡充を、長きにわたり同時進行させる。一足飛びに巨大な病院を建てるのではなく、十年、二十年先を見据えて『人』という種を蒔き、育て上げる。いずれこの島に『全民的な医療制度(皆保険制度)』を敷くための、息の長い土台作りの承認をいただきたいのです」

 健康で強靭な民衆が増え、疫病の恐怖から解放された土地は、結果的にどのような武力よりも強固な帝国の防波堤となる。

 軍事の天才である乃木は、十四歳の少年が「医療と教育」という柔らかな衣を被せながら、その実、台湾という島全体を難攻不落の『見えざる要塞』へと作り変えようとしている地政学的な意図を瞬時に理解した。

「……恐ろしい男だ、貴殿は。一介の商人の枠をとうに超えている」

 乃木は微かに口角を上げ、大きく頷いた。

「見事な国家の計だ。この乃木希典の権限において、すべての計画を承認しよう。存分に腕を振るえ」



 十二月中旬。帝都の夜は、骨まで凍てつくような厳しい寒さに包まれていた。

 だが、日比谷の帝国ホテルの一室、選び抜かれた者だけが足を踏み入れることを許された『瑞長財団主催の特別招宴サロン』の会場は、まるで南国の真夏のような異様な熱気と、甘美な香りに満ちていた。

 ハルビンでの見事な暗殺阻止により、今や帝都で「国を救った英雄」として熱狂的に支持されている瑞長財団は堂々と、そして豪奢(ごうしゃ)に、帝都の頭脳を招き入れたのである。

 集まったのは、新渡戸稲造からの紹介状を受け取った、東京帝国大学、早稲田大学、慶應義塾、そして数々の専門学校の優秀な若き頭脳たち。彼らは旧態依然とした日本の学閥や、軍事優先で削られる研究予算に絶望し、野心と才能を持て余している異端の天才たちだった。


「信じられない。この真冬の帝都で、これほど熟れた果実が食えるとは」

 帝大の制服を着た男子学生が、銀の皿に盛られた鮮やかな黄色の果肉を口に運び、目を丸くしていた。

 会場に用意されていたのは、台湾特産の完熟したパイナップルやパパイヤ、甘く芳醇な香りを放つマンゴー、そして極上の凍頂烏龍茶であった。瑞長財団の輸送網と財力によって、鮮度を保ったまま帝都へ持ち込まれた南国の贅沢な品々。それは、凍えるような寒さの中をやってきた学生たちの緊張を心地よく解きほぐし、同時に「瑞長財団の底知れぬ力」と「未知なる南の島」への強烈な好奇心を、理屈ではなく舌と胃袋で理解させる『おもてなし』であった。


 ざわめきが静かな熱狂へと変わりつつある中、壇上に一人の女性が姿を現した。

 瑞月である。彼女が優雅に微笑んだ瞬間、会場の空気が一瞬にして引き締まった。圧倒的な美貌と、男社会の頂点で磨き上げられた威厳。並の学生であれば、その姿を見ただけで気圧されてしまうほどの存在感だった。

「皆様。本日は冷え込む中、瑞長財団の招きに応じてくださり、心より感謝申し上げます」

 瑞月は、彼らを見下すような真似は一切しなかった。むしろ、目の前にいる若き知性たちに最大限の敬意を払うように、深く頭を下げた。

「ここに集まられた皆様は、新渡戸先生が太鼓判を押された、帝都が誇る最高の頭脳です。すでに巷の噂や、お手元の書状である程度のご想像はついていることでしょう」

 瑞月は背後の黒板に、次々と海外の最新鋭の実験器具、膨大な洋書の目録、そして広大な学び舎の図面を貼り出していった。

「我々が創る大学と高等学校に、古き学閥や派閥闘争は一切存在しません。帝大が十年後に手にする機材が、台湾にはすでに揃っています。我々は、皆様の研究と学の探求に、一切の予算上限を設けません。あるのは、世界を先導するという結果だけです」

 瑞月の理路整然とした演説と、提示される圧倒的な環境に、男子学生たちは息を呑み、目を輝かせた。


 その熱気の中で、会場の片隅に固まって立ち尽くす一団があった。

 東京女医学校や、数少ない女子高等教育機関から招待された、優秀な女学生たちである。彼女たちの眼差しには、怯えや卑屈さはなかった。あるのは、並み居る男子学生にも劣らない「知的な誇り」と、この夢のような話が本当に自分たちにも適用されるのかという「聡明な警戒心」だった。

 瑞月は、壇上から静かに彼女たちへと視線を向け、微笑みかけた。

「そちらの麗しき才女の皆様。お手元の募集要項をご覧になって、半信半疑なのでしょう? 無理もありませんわ。この国ではまだ、女性が最先端の学問を修めることへの見えない壁が厚すぎますから」

 瑞月の言葉に、一人の女医学生が一歩前に出た。彼女の瞳には、強い意志の光が宿っていた。

「……噂は聞いております。瑞長財団は、男女の隔てなく能力を評価すると。ですが、本当に私たちが海を渡ったとして……殿方たちの助手の真似事や、単なる雑用で終わることはないと、断言できるのですか?」

 その真っ直ぐな問いに、瑞月は心からの敬意を込めて深く頷いた。

「断言いたしますわ。瑞長に、殿方も女もありません。あるのは『能力』という絶対的な基準だけです」

 瑞月の凛とした声が、静まり返った会場に響き渡る。

「我々は、数年、十数年をかけて台湾全域へと張り巡らせる医療網、その要として『医学部』『看護学部』『薬学部』を創立します。あなたたちの手と知識が、何百万の命を救う盾になるのです。そして……」

 息を呑む彼女たちに、瑞月はさらに恐るべき青写真を広げて見せた。そこには、教育学部、工学部、物理学部といったすべての学科の募集要項が記されていた。

「医学も、工学も、物理学も、教育学も。すべての門戸は皆様に平等に開かれています。さらに、財団設計理事である康政はまだ誰も飛んだことのない空を制するための『航空飛行学部』すら創設します」

「航空、飛行……私たちが、空の学問を……」

「ええ。帝国は皆様に、良妻賢母であれと説くでしょう。ですが康政は、皆様に『自らの翼で空を飛べ』と仰っているのです」

 瑞月はふふっと優雅に笑い、会場全体を見渡して付け加えた。

「唯一、商船学部だけは、狭い船内での長期間の共同生活という物理的、合理的な理由で男子の割合が多くなりますが……それ以外に、台湾の空と学舎に、性別の壁は一切存在しませんわ」


 男社会の頂点で堂々と商いを動かす瑞月の姿。そして、見えない天井を破壊する康政の冷徹なまでの合理主義。

 聡明な警戒心を抱いていた女学生たちの目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。それは悲しみの涙ではない。自分たちの知性と努力が、ようやく正当に評価される世界を見つけたという、純粋な歓喜の涙だった。

 会場の熱気は最高潮に達し、何人かの学生が瑞月が用意した契約書に手を伸ばそうとした。だが、瑞月はそれを静かに手で制した。

「お待ちになって」

 瑞月は、柔らかな、しかし絶対的な威厳を含んだ声で語りかけた。

「今すぐ、この場で答えを出す必要はありませんわ」

「え……?」

「皆様の人生を懸けた決断です。熱気にあてられて即決するのではなく、この膨大な資料をお持ち帰りになり、ご自身の冷徹な頭脳で、じっくりと熟考なさってください」

 それは、相手の知性を信頼しているからこそ見せられる、瑞長財団の余裕だった。

「我々は、未知なる海を渡る困難を理解し、それでもなお、自らの意志で新しい世界を切り拓きたいと願う方だけを……南の島でお待ちしております」


 夜が更け、学生たちが去った帝国ホテルの一室。

 熱狂の余韻と、南国の果実の甘い香りが微かに残る空間で、瑞月は一人、学生たちに渡した招待状の控えが記された美しい名簿を見つめていた。

 窓の外には、凍てつく帝都の夜景が広がっている。だが彼女の心はすでに、この若き知性たちが集うであろう、遥か南の島の輝かしい未来へと向かっていた。

 瑞月は優雅に紅茶のカップを傾け、静かに微笑んだ。

「さて……この中から、どれだけの若鳥が自らの意志で海を渡ってくるか。康政様の創る新しい空が、今から楽しみですわ」

お読み頂きありがとうございます。


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