第10話:盤上の生還、帝都に舞う美姫
凍てつくハルビンの空気を切り裂くように、ロシア語の激しい怒号と、分厚い木製扉を叩く鈍い音が、駅長事務室の前に響き渡っていた。
「開けろ! 貴様ら、閣下をどうする気だ! 私は主治医の小山であるぞ!」
「ロシアの憲兵隊が来る! 早く扉を開けぬか!」
伊藤博文の側近である室田義文や専属主治医の小山善が、半狂乱になって叫んでいた。凶弾に倒れた日本の最高権力者が、見ず知らずの軍医と大男によって密室へ引きずり込まれたのだ。彼らが正気を失い、扉を打ち破ろうとするのも無理はない。
だが、内側から施錠された扉の前に立ちはだかる阿長は、巨岩のように微動だにしなかった。その規格外の巨躯から放たれるどす黒い殺気は、分厚い扉越しにすら外の人間を竦み上がらせ、物理的な破壊を躊躇させるほどの絶対的な威圧感を持っていた。
「阿長さん、外の連中には絶対に指一本触れさせるな。点滴の針が狂えば、二人の命は終わる」
即席の手術台に向かう高柳の声は、極度の緊張で掠れていた。
ガラス瓶から伸びたゴム管を伝い、琥珀色の水――ペニシリンが、伊藤と燕の静脈へ一定の拍子で流れ込んでいる。まだだ。まだ血中の菌をすべて叩き潰すには時間が足りない。
(なぜ、乃木中尉の部隊は突入してこない……!)
高柳は額に滲む汗を拭いながら、焦燥に駆られていた。乃木保典率いる精鋭部隊が、ハルビン近郊に待機していることは知っていた。
高柳は、康政という少年の底知れぬ合理性をまだ深くは理解してはいなかったのだ。ここはロシアの勢力圏。平時に完全武装の日本軍が踏み込めば、それだけで外交問題になる。
だからこそ康政は、乃木に動くなと命じていた。
暗殺事件という未曾有のテロが発生し、「自国民の緊急保護」という国際法上の絶対的な大義名分が成立する、その瞬間まで。
事件発生から半日。ついに、地響きのような軍靴の音がプラットホームの喧騒を塗り潰した。
「ロシアの警備も、外務省の役人も信用できん! 退けッ!」
軍の権威を爆発させた乃木保典の咆哮だった。悲劇を前に、ロシア側も日本の正規軍による強行介入を拒む名分を失っていた。
「台湾総督・乃木大将の特命である。これより伊藤閣下および関係者の身柄は、我が大日本帝国陸軍が保護し、大連の病院船へ移送する!」
反論を許さぬ乃木の武力により現場は制圧され、室田や小山たちも半ば拉致されるように特別列車へと押し込まれた。高柳の点滴を受け続ける伊藤と燕もまた、厳重な警護のもと、大連港へと一気に南下を開始した。
深夜の大連港。漆黒の海に浮かぶ貨客船『瑞長丸』の威容を見上げた時、室田や小山は自分たちがとんでもない激流に呑み込まれたことを悟った。
タラップを登り一等客室の豪奢な扉が開かれた瞬間、血と泥と石炭の煤に塗れた彼らの前に、目を疑うような光景が広がった。
「お待ちしておりました。皆様、大変な労苦でございましたね」
そこに佇んでいたのは、極上の絹で仕立てられた豪奢な和装に身を包み、微笑みを浮かべた瑞月だった。
室田が息を呑む。瑞月のその息を呑むほどの伝統的な美貌と、凄惨な現実から完全に切り離された優雅な空気は、怒り狂う明治のエリートたちを一瞬にして沈黙させた。
「お疲れ様でした、高柳先生、阿長。さあここから先は、どうぞご安心くださいませ」
瑞月の流れるような指示により、船内は淀みなく動き出す。
高官たちが通されたのは、緊急改装されたとはいえ、当時の日本の常識を根底から覆す異次元の設備だった。真鍮の蛇口からは温水が流れ、陶器製の便座は清潔な水洗式。そして乃木の部下たちが当たり前のように配膳してくるのは、疲労しきった彼らの胃腑に染み渡る、温かく栄養価の高い極上の食事だった。西洋の最新技術を詰め込んだ箱舟の中で、和装の美姫が君臨しているという圧倒的なアンバランスさが、彼らの常識を静かに破壊していく。
「馬鹿な……大日本帝国の最新鋭艦にすら、これほどの設備はないぞ……」
呆然と呟く室田の横で、主治医の小山はさらに深い恐怖に震えていた。
特別医療区画のガラス越しに見える、伊藤博文の姿。腹部を撃ち抜かれ、ハルビンの不衛生な環境に晒されれば敗血症で死に至るのが医学の常識だ。だが、高柳が投与し続ける「琥珀色の水」は、目に見えて老政治家の顔色を回復させていた。
瑞月は横浜へ向かう航海の最中、船の揺れを感じさせない優雅な所作で極上の酒を振る舞いながら、小山の耳元で静かに囁き続けた。
「高柳先生の医術は、すでに世界の数十年先を行っておりますわ。あの御方は、いずれ日本の、いえ、世界の医学の頂点に立つ御方です」
彼女は、小山の医学者としてのプライドを粉々に砕きながら、同時に高柳を「次代の開祖」として深く刻み込むよう、巧みに誘導していった。
洋上の揺り籠の中で、燕がゆっくりと目を開けた。
真っ白な天井。柔らかな寝台の感触。そして、ガラス戸の向こうで確かに呼吸を続けている伊藤博文の姿が見えた。
(……間に合った)
安堵の息が漏れた。弾丸が肉を裂いた瞬間の激痛よりも、「康政様の描いた生存の地図を汚してしまう」という恐怖の方が、燕にとっては遥かに大きかったのだ。
燕の包帯を替える高柳は、彼女の華奢な背中に刻み込まれた無数の傷跡――基隆の泥に捨てられるまでの虐待の痕と、阿長による苛烈な修練の痕――を、無言で見つめていた。
「康政様の盾となるために、自ら望んで鉄を叩いてきた結果だ」
傍らに立つ阿長の声には、娘を想うような深い哀憐と、揺るぎない誇りが混じっていた。だが今の燕の胸の奥底には、これまでにない温かい感情が芽生え始めていた。
(私は生きて、もっと長く、康政様の創る新しい世界を見てみたい)
それは、ただの「影」から、自らの意志で空を飛ぶ「翼」へと、一人の人間が羽化を始めた瞬間であった。
そして翌日、隣の病室でついに「獅子」が目を覚ました。
伊藤博文は、ひどい喉の渇きと腹部の鈍痛の中で、自分が生きていることに驚愕した。枕元には、高柳と、直立不動の乃木保典が立っている。
「……お前は、乃木さんの次男坊ではないか」
伊藤の掠れた声に、保典は静かに頭を下げた。
「南山の激戦で再起不能の深手を負い、陸軍病院で生死を彷徨っていると聞いておったが……息災であったか」
「はい。あの地獄で一度は命を落としかけましたが、台湾の瑞長財団の放った医療班に拾われ、今この通り健勝を得ております。すべては康政様の命により、数年前から今日この日のために整えられていたと思う所存であります」
その言葉が落ちた瞬間、伊藤の脳内で無数の点と点が線となって繋がった。
昨年、乃木希典が台湾総督として再赴任したあの時から。いや、それよりもずっと前から、台湾の得体の知れない神童は、自分を殺そうとした歴史の巨大なうねりすら先読みし、最高の医療を準備し、あろうことか国家の宝である英雄の息子すら、盤上の駒として生かし、操っていたのだ。
「ふ、ふふ……ははははっ!」
伊藤は、傷口を押さえながら痛快な笑いを漏らした。己が完全に盤上で転がされた圧倒的な敗北感。それと同時に、日本の未来に恐るべき怪物が育っていることへの、抑えきれない歓喜の笑いであった。
瑞長丸が極秘裏に横浜港沖へと到着し、生還した伊藤が大磯の別邸へ引き渡された直後。盤面は帝都・東京へと引き継がれる。
帝都に降り立った瑞月が真っ先に向かったのは、軍の中枢であり、最大の後ろ盾である児玉源太郎の私邸だった。
彼女の傍らには、阿長が直々に鍛え上げた若く冷徹な専属護衛が、秘書を装って影のように付き従っている。そして児玉邸の周囲には、私服に身を包んだ保典の部下たちが、誰にも気付かれぬよう幾重にも警戒網を張っていた。
「康政からの、深い感謝の印でございます」
瑞月は、白石医師が精魂込めて調合した最上級の漢方薬と、疲労回復の貴重な滋養品を静かに差し出した。そして、声を潜めて児玉の耳元で囁く。
「最近、頭の血管が弾け飛ぶような恐ろしい夢を見るのだと、康政様がひどく案じておりました」
瑞月のその囁きに、児玉は息を呑んだ。日露の戦い以降、彼を度々襲っていた酷い頭痛。誰にも明かしていないその兆候を、遠く台湾にいる少年が「夢」という形で言い当てたのだ。康政の底知れぬ眼力を知る児玉は、その警告を単なる迷信と笑い飛ばすことはできなかった。
「康政の予見は、ハルビンで証明されました。どうか、この漢方で御身を労り、今はすべての政務から離れて絶対的な静養をとっていただきたいのです。閣下に倒れられては、日本の未来が立ち行きませんわ」
康政は、瑞月の言葉を通じて児玉を休養へと縛り付け、彼を死に追いやる過労の連鎖を断ち切るつもりだった。強引に児玉の寿命を引き延ばすための楔を、見事に打ち込んだのだ。
その夜、帝都の中心、赤坂の高級料亭『奥座敷』。
暗殺未遂の報で大混乱に陥り、さらに軍の無断行動に怒り狂う山縣有朋の側近ら政府重鎮たちは、呼び出した「瑞長の代理人」を座敷で睨みつけながら待ち構えていた。彼らにとって、自分たちの警備の不手際を隠蔽するためにも、勝手に動いた軍と背後の瑞長財団を徹底的に叩き潰す必要があった。
障子が静かに開き、豪奢な和装の瑞月が悠然と足を踏み入れた。背後には、児玉邸から引き続き、若き専属護衛が声もなく影のように付き従い、外堀は保典の部下たちが固めている。
「お前が瑞長の代理人か! 女の出る幕ではない! 乃木の軍紀違反、どう落とし前をつける気だ!」
予想外の若き女の登場に、重鎮の一人が顔を真っ赤にして怒号を飛ばす。部屋の空気は、一触即発の殺気に満ちていた。
しかし、瑞月は涼やかな微笑みを一切崩さなかった。それどころか、彼女の放つ常軌を逸した美貌と、場を支配する蠱惑的な香気が、怒り狂う男たちの毒気を一瞬にして抜いていく。彼女はただそこに存在するだけで、男社会の頂点に立つ古狸たちを圧倒し、ひれ伏させるほどの魔性を持っていた。
「勘違いなさいませんよう。保典中尉の部隊は、台湾総督である乃木大将の緊急特命により動いた、正当な軍の作戦です。我々瑞長財団は、総督の要請に応じて医療と船を支援したに過ぎません」
「だ、だからと言って中央の許可もなしに――」
「中央の許可を待っていれば、閣下は確実に命を落としておりましたわ。ロシアとの間に再び火種を抱え、諸外国から帝国の警備体制を嘲笑される。その国家の恥を、未然に防いだのは誰ですか?」
痛烈な事実を突きつけられ、元老たちは言葉に詰まった。瑞月はその美貌と威圧感で彼らの退路を断ち切り、とどめを刺すように妖艶に微笑んだ。
「この乃木大将の英断を『軍紀違反』として騒ぎ立てれば、困るのは皆様の方でしょう? ……すでに皆様の懇意にしている製薬会社へ特許を提供した『外用薬(塗り薬)』は、ほんの序の口ですわ。今回、伊藤閣下の命を繋ぎ止めたのは、まだどこにも出していない、あの琥珀色の水の『点滴薬』……。総督と中尉の件を不問にし、我々の自由な商いを保証してくださるなら、この新薬の恩恵もいずれ帝都に回して差し上げます」
「未知の点滴薬」という抗いがたい切り札と、「国家の恥の隠蔽」。そして何より、目の前で優雅に微笑む美姫の底知れぬ凄みを前に、政府の重鎮たちは沈黙するしかなかった。
交渉を終え、料亭を後にした瑞月は、暗がりに待機していた瑞長財団・東京支部の責任者に短く告げた。
「手筈通りに」
「ハッ。各新聞社への版木の納入は完了しております。明日の朝刊で、すべてが弾けます」
そして翌朝、帝都の空は瑞長財団が仕掛けた未曾有の熱狂に包まれていた。
東京支部が事前に仕込んでいた綿密なリークにより、主要新聞の紙面は「ハルビンの惨劇を救った神の手を持つ医師・高柳中尉」と、「国家の危機を救済した愛国財団・瑞長」の美談で埋め尽くされていた。
薬の広告など一言も載っていない。ただ純粋に、「国を救った英雄的な財団」としての称賛だけが、帝都を駆け巡った。
政府が事態を把握し、瑞長の動きを牽制しようとした時にはすでに遅かった。民衆の熱狂と圧倒的な支持が、瑞長財団へのあらゆる政治的介入を封じる防壁として機能していた。
数日後。
帝国の中心に位置する高級ホテルの貴賓室。瑞月は、自身の仕掛けた熱狂に沸き返る帝都の街並みを窓から見下ろし、優雅に紅茶のカップを傾けた。背後には、若き女性専属護衛が声もなく控えている。
「政府というものは、意外と扱いやすいのかもしれないですわね」
瑞月は、有能な経営者としての確かな野心を秘めた、気品ある微笑みを浮かべた。
「さて……明日は、帝都の若き才能たちに、新しい世界への招待状をお渡ししませんとね」
同じ頃、遥か南の島、新城家の書斎。康政は、窓の外から聞こえる波音を聞きながら、巨大な世界地図の上で「ハルビン」から「東京」へと、静かに、そして力強く一本の太い線を引いていた。
本日2話目も読んで頂きありがとうございます。
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