第7話:春の嵐の前奏曲 無垢なる掌と、北への秘命
明治四十一(一九〇八)年、冬。
南国・台湾にも僅かながら冷たい風が吹き込む季節となっていた。だが、台北にある新城家の本邸は、その冷気を完全に遮断するような、穏やかで甘やかな温もりに包まれていた。
「さーえーこ。ほら、お兄ちゃんだよ。お・に・い・ち・ゃ・ん」
陽光が差し込む縁側。僕は、揺り籠の中で手足をばたつかせる妹の沙絵子に向かって、でんでん太鼓をゆっくりと振りながら、この数ヶ月間、何百回と繰り返してきた言葉を語りかけていた。
世界の資本を動かし、歴史の巨星たちと渡り合う『若き特別顧問』も、この家の中、妹の前ではただの親馬鹿ならぬ「妹馬鹿」へと成り下がる。中身が四十代の疲れた男であろうと関係ない。この無垢で愛らしい生き物の前では、人間の理性など脆くも崩れ去るのだ。
「康政、少し休んだらどう? あなた、沙絵子の顔を見ると本当に嬉しそうね」
庭の冬椿を花瓶に活けていた母・和子が、くすくすと笑いながら温かいお茶を置いてくれた。
「仕方ないですよ、母さん。沙絵子が可愛すぎるのがいけないんです。ほら、沙絵子。にーにー、だよ。にー、にー」
僕が鼻先をくっつけるようにして覗き込むと、沙絵子は黒曜石のような丸い目をぱちぱちと瞬かせ、僕の人差し指をその小さな両手でぎゅっと握りしめた。驚くほど柔らかく、そして温かい命の感触。
その時だった。
「……に、に」
「えっ?」
僕はピタリと動きを止めた。和子も、奥で洗濯物を畳んでいたリンも、一斉に顔を上げる。
「あ、に……にー、に」
沙絵子の小さな唇から、桜色の吐息とともに、確かにその音が紡ぎ出された。
「母さん! リンさん! 今、聞きましたか!? にーにーって、僕のことお兄ちゃんって呼びましたよこの天才は!!」
「まあっ! 本当ね、康政! 沙絵子、すごいわ!」
「お嬢様、もう言葉がお分かりになるなんて……!」
僕は弾かれたように立ち上がり、興奮のあまり両手で頭を抱えた。四十代の冷静な実務家の魂などどこかへ吹き飛び、ただの一人の兄として、歓喜のあまり縁側をウロウロと歩き回ってしまう。
「にー、にっ」
沙絵子がキャッキャと笑い、短い腕を僕の方へと伸ばす。僕はたまらず妹をそっと抱き上げ、その柔らかい頬に自分の頬をすり寄せた。
この温もり。この笑顔。
僕は沙絵子の小さな背中を優しく撫でながら、母とリンに向けて満面の笑みを向けた。そして、ゆっくりと妹を揺り籠に戻すと、その小さな額に一度だけ口付けをして、仕事部屋へと向かうために踵を返した。
振り返った僕の瞳からは、先ほどの気の抜けた兄の顔は消え失せていた。
この絶対の温もりを、何があっても守り抜く。そのための実務をこなすため、僕は静かに襖を閉めた。
その日の午後。
台北にある瑞長財団本部の、日当たりが良い広々とした第一会議室。卓上にはリンが淹れた極上の烏龍茶が心地よい香りを漂わせ、窓の外からは春を待つ鳥の囀りが微かに聞こえてくる。
集まったのは僕、父・和也、瑞月姉さん、そして阿長と燕。和やかな空気が満ちる、静謐な空間であった。
「来年の秋。十月二十六日。満州のハルビン駅構内にて、伊藤博文公が、暗殺されます」
僕が手元の資料から顔を上げ、まるで来月の帳簿の数字でも読み上げるような、一切の淀みもない淡々とした声で告げた言葉に、会議室の空気が一瞬だけピンと張り詰めた。
「なっ……! 伊藤公が、だと!?」
父・和也が、思わず机に身を乗り出した。初代総理大臣にして、日本の近代化を牽引してきた元老中の元老。
「下手人の名は、安重根という活動家です。すでに同志と共に、凶行へ向けて動き出しているはずです。これは予測ではなく、確定した災厄です」
瑞月が、静かに扇子を閉じて僕を見た。
「康政。我々財団が、なぜその火中の栗を拾う必要があるの? ハルビンは我々の商圏からは完全に外れているわ」
瑞月の財団代表としての当然の問いに対し、僕は二つの指を立てた。
「理由は二つあります。一つは、暴走の制動です。伊藤公は現在、軍部の急進的な満州拡大路線と韓国併合を抑え込む『最大の重し』です。彼が倒れれば軍の強硬派を止める者は誰もいなくなり、東アジアは一気に戦火へと傾く。我々が築き上げているこの台湾の平和な経済圏も、連鎖的に軍の無謀な戦争の渦に巻き込まれるでしょう」
僕は一度言葉を切り、瑞月と和也の目を真っ直ぐに見据えた。
「そしてもう一つ。これが最大の理由です。……国の至宝たる元老の命を、我々の手で密かに救う。それは、日本政府および軍の中枢に対し、金銭では決して贖えぬ『一生消えぬ恩義』を売ることに他なりません」
その言葉に、瑞月がふっと目を細めた。
「なるほど。単なる慈悲ではなく、国家そのものを債務者にするというわけね……随分と危うい橋を渡るのね」
「はい。この楔を打てば、これ以後、新城の規格と商圏に異を唱える者は中央から消え去ります。これは将来の破滅的な損失を防ぎ、かつ政治的防壁を得るための『最優先の国防投資』なのです」
父・和也が重々しく頷き、瑞月も「見事な計算ね。決済は私が責任を持つわ」と不敵な笑みを浮かべた。
僕は、向かいに座る阿長と燕に向き直った。
「燕。標的は安重根とその一派。奴らは大連を経由してハルビンへ入ります。その動線に網を張ってください」
「御意」
「阿長。暗殺の阻止は君の部隊に任せます。十月二十六日のハルビン駅構内……標的が伊藤公に向けて引き金に指をかける、まさにその瞬間。暗殺者が『狙いを外す』、あるいは『不発に終わる』仕掛けだけを、物理的に施してください。あくまで『単独犯の未遂事件』として処理させるのです」
「承知しました。確実に、仕留めず“外させる”のですね。来春、適当な名目を立てて北へ向かいます」
阿長が、手元の茶をゆっくりと飲み干しながら応じた。歴史の書き換えは、こうして密やかに実行が定められた。
そして、季節は巡り――明治四十二(一九〇九)年、春。
台湾・台北の地に、赤煉瓦の壮麗な学び舎が完成の時を迎えていた。瑞長財団の出資によって設立された、次代の国家防衛を担う頭脳を育成する最高学府、ならびに『特設幼年部』の開校式である。
「諸君! この地で学び、鍛え、そして理をもって国を護る強き盾となれ!」
乃木希典総督の厳かで力強い開校宣言が、春の青空に響き渡った。
真新しい詰め襟の制服と、凛々しいセーラー服に身を包んだ第一期生たち。康政、御子柴烈、久世景秀、橘響子、そしてイギリスから来たトーマスやアメリカのアリスたちの顔は、新しい知識と仲間たちとの生活への希望に満ち溢れている。
「康政くん、制服、少し大きいわね」
響子がくすくすと笑いながら、僕の襟元を直してくれた。
「すぐ背が伸びるからって、瑞月姉さんが大きめの寸法を発注したんだよ」
僕が苦笑いしながら振り返ると、来賓席では母・和子やリンと共に、背広姿の阿長が頼もしげに僕らを見守っていた。和子に抱かれた少し大きくなった沙絵子が、僕の姿を見つけて「にーにっ!」と嬉しそうな声を上げて小さな手を振る。僕も、誰にも見えないように小さく手を振り返した。
誰もが笑い合い、未来への希望に満ちた、美しく眩い光景だった。
それから数日後。
基隆港には、大型の貨客船のタラップを上る阿長と燕、そして数名の商会員たちの姿があった。
「阿長、燕。北満州における新たな『物流拠点』の事前調査、苦労をかけるが頼んだよ」
見送りに訪れた父・和也が、周囲の港湾関係者にも聞こえる声で労いの言葉をかける。
「お任せください、代表。必ずや、当商会の有益な足場を築いてみせます」
阿長が朗らかに一礼し、燕もメイドの装いのまま優雅に頭を下げる。
「康政様、お留守番、よろしくお願いいたしますね」
「うん、気をつけて。お土産、期待して待ってるよ」
僕が子供らしく手を振ると、阿長はニヤリと笑って船へと乗り込んでいった。
荷役夫たちの怒号が飛び交い、海鳥が騒がしく空を舞う喧騒の中、彼らの乗る船はゆっくりと岸壁を離れていく。誰の目も引くことのない、穏やかな潮風に包まれた出航。
だが、その静かなる船出こそが、半年後に控えた歴史の分岐点――ハルビンの凶弾を無力化するための、恐るべき防衛線の始まりであった。
大いなる歴史の書き換えは、決して暗がりではなく、うららかな春の陽光と波音に溶け込みながら、白昼堂々と進行していくのである。
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