第8話:海を渡る俊英と、実学の理想郷
明治四十二(一九〇九)年、八月。
南国の焼けつくような太陽が、基隆港の海面を眩しく照らし出していた。
大型連絡船のタラップから、使い古された革鞄や、ずっしりと重い柳行李を抱えた若者たちが続々と降りてくる。その数、およそ三百名。彼らは皆、夏の暑さに顔を火照らせながらも、その瞳には海を越えてきた者特有の、鋭く、それでいてどこか切実な期待を宿していた。
「おい、見ろよ。これが、本当に台湾なのか?」
一人の学生が、呆然と立ち止まって呟いた。
彼らの目に飛び込んできたのは、未開の島という偏見を根底から覆す光景だった。泥濘一つない、石と瀝青で舗装された広大な埠頭。そこには巨大な蒸気クレーンが何基も並び、黒煙を上げながら貨物を軽々と吊り上げている。規則正しく鳴り響く汽笛と、整然と並ぶ赤煉瓦の倉庫群。帝都・東京の築地や芝浦ですら、これほど機能的に洗練された港湾設備はまだ整っていない。
僕は税関のバルコニーから、その光景を静かに見つめていた。
(令和の感覚だと、入学式といえば四月の桜を思い浮かべるけれど、この時代はまだ違うんだな)
僕は手元の名簿を指でなぞりながら、頭の中の歴史知識を整理する。
当時の帝国大学や高等教育機関は、欧米の学年暦に倣い「九月入学」が標準だ。小学校などは四月始まりに移行していたが、官僚や学者を志す者たちにとって、本当の新年は秋に始まる。
春に校舎が完成してから、僕と父、瑞月姉さんは内地の新聞に異例の広告を打った。それを見て集まった数千名の志願者から、瑞長財団の網を使って思想と能力を徹底的に洗い出し、選び抜かれた三百名。彼らがこの八月、九月の新学期に向けて続々と上陸してくるのだ。
「若君、ご覧ください。彼らの中に……」
隣に立つリンが、驚きを含んだ声を漏らした。
三百名の集団の中には、男子学生に混じって、凛とした袴姿の女子学生たちが数十名、毅然と前を向いて歩いていた。当時の内地では、帝国大学が女性を受け入れるなど到底考えられない時代だ。周囲の役人や男子学生たちが困惑と好奇の視線を投げる中、彼女たちは財団の過酷な試験を突破した「一握りの異能」としての自負を隠そうともしなかった。
学生たちが乗り込んだのは、台北へ向かう定期運行の客車だった。
開け放たれた窓から南国の熱気が吹き込むが、彼らは汗を拭うのも忘れて外を眺めている。車窓に広がるのは、瑞長財団の灌漑施設によって整えられた美しい水田と、等間隔に配置された最新の通信用電柱だ。
「特別扱いでもない普通の列車で、これほど揺れが少なくて速いとは……」
内地の不便な各駅停車に慣れた彼らにとって、その「当たり前の快適さ」こそが、何よりの衝撃となっていた。
台北の郊外に建つ寄宿舎に到着した学生たちは、再び声を失った。
「水が、勝手に流れていくぞ」
一人の学生が、水洗式の便所を覗き込んで呟く。当時の内地では、いかなる名門校の寮であっても、不衛生で悪臭漂うのは日常の風景だった。しかし、ここには塵一つ落ちておらず、廊下には瑞長商会が普及させたあの清潔な石鹸の香りが微かに漂っていた。
特に彼らを驚かせたのは、一階に設けられた共同浴場と「淋浴」だった。
「驚くのはそこまでにしろ、諸君」
寮長を務める初老の男が、学生たちの前で厳格に指を立てた。
「夕刻五時から夜半の十一時まで、石炭ボイラーを焚いている。その時間内であれば、この真鍮の管から出る熱い湯で、長旅の埃を洗い流すがいい。贅沢をさせるためではない。不衛生による病や虱で、君たちの『時間』を奪わないための措置だ」
学生たちは、頭上から降り注ぐ温かい湯に歓喜した。長旅の疲れと共に、内地で培われた「蛮カラ」という名の不潔な矜持までもが、排水溝へと消えていくようだった。思わず笑い声が上がった。
夕闇が迫る頃、寮の各部屋にパチリと小さな音が響き、白熱電球がオレンジ色の明かりを灯した。
「電気が、通っているのか……。ランプの煤を気にする必要がないなんて」
学生たちは、その穏やかな光の下で、支給された機能的で清潔な詰襟に着替えた。
食堂へ向かった彼らを待っていたのは、質実剛健ながらも生命力に溢れた食卓だった。
卓に並ぶのは、白米に三割の麦を混ぜた「麦飯」と、豚肉の角煮、そして台湾産の豆や野菜を煮込んだ栄養満点の汁物。
「麦飯、ですか?」
一人の男子学生が、意外そうに椀を見つめた。白米至上主義の時代、麦を混ぜることは貧しさの象徴でもあったからだ。
「勘違いするなよ」
配膳台の奥から、白衣を着た校医が淡々と告げた。
「これは新城の『規格』だ。現在、内地を苦しめている脚気という病を知っているだろう。その麦は、君たちが病で倒れて教育費を無駄にしないための、徹底した兵站管理の一環だ。女子学生も同様だ。贅沢ではなく、戦うための燃料だと思って腹に入れろ」
学生たちは顔を見合わせ、やがて一人が勢いよく飯を頬張った。
「うまい! 麦の歯ごたえが、かえって肉の脂と合います!」
それを合図に、食堂は活気に包まれた。彼らは、自分たちが「大事にされている」ことだけは、誰の目にも明らかだった。そして言葉にできない高揚感を抱いていた。
それから数週間、学生たちは驚くべき速度で台湾の生活に馴染んでいった。
放課後、広大なグラウンドでは、彼ら内地の大学生と、幼年部の僕や烈、景秀、そして近所の台湾人の若者たちが、入り混じって白球を追いかけていた。
「お兄さん! 今のはストライクですよ!」
烈が投げ込む豪速球に、内地の学生が真剣な顔でバットを構える。
「言うじゃないか、坊主!」
快音と共に白球が夕空に消え、皆が泥だらけになって塁を駆け抜ける。
そこには、内地から持ってきた不必要な秀才意識も、性別や年齢、国籍の壁もなかった。あるのは「野球がしたい」という純粋な欲求と、それを支える健康な肉体、そして明日への確かな希望だけだった。
僕は二塁の守備位置で、彼らの熱狂を肌で感じていた。
(……この活気が、この島の新しい日常になっていくんだ)
だが、その穏やかな夕暮れの風に乗って、一通の電信が僕の元へ届く。
日が落ち、寮の消灯時間が近づく頃。執務室に戻った僕に、リンが一枚の暗号解読紙を差し出した。
「若君、ハルビンの燕様より届いております。……定時連絡です」
僕は電信の紙を広げ、フィラメントの灯りの下で目を凝らす。
『標的ノ足取リ、確定。十月二十六日、ハルビン駅構内。ロシア側ノ警備配置、計算通リニ死角アリ。配置ノ調整、完了セリ』
僕はそれを読み終えると、一度だけ深く息を吐き、静かに承認の印を記した。
窓の外からは、石鹸の微かな香りと、麦飯で腹を満たした学生たちの穏やかな寝息が漏れ聞こえていた。
「了解した。……歴史の針を、僕たちの手で正しく導こう」
台湾の地に根付き始めた「希望の頭脳」と、北の大地で牙を研ぐ「影の実務」。
二つの異なる潮流が、それぞれの場所で、静かに運命の十月二十六日へと向かって加速し始めていた。
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