第10話:海を渡る頭脳と、鋼鉄の洗礼
明治四十年(一九〇七年)、七月初旬。
台湾北部の梅雨が明け、突き抜けるような青空から猛烈な太陽が降り注いでいた。基隆の街を包む湿り気を帯びた熱気は、生命の咆哮そのものであり、地面からは陽炎が立ち上っている。
台北尋常小学校の教室。休み時間の喧騒の中で、僕、新城康政は、すでに僕の「小さな閣僚」として機能しつつある学友たちと向き合っていた。
「康政。親父の部隊、山への出撃が立ち消えになって、今は先住民の集落と港を繋ぐ『警備と街道整備』の任務で大忙しだよ。親父は『戦うより荷車の数を確認する方が忙しい』と笑っていたが、あれはお前が裏で糸を引いたんだろう?」
駐留軍の嫡男・御子柴烈が、からかうように僕の肩を叩く。
「効率の問題だよ。彼らを敵にするより、新城の供給連鎖に組み込んだ方が、軍の補給線も安定する。そう伝えただけさ」
僕が答えると、久世景秀が優雅に扇子を畳んだ。
「総督府の強硬派を、美貌の瑞月さんが『利益の数字』で黙らせた話は、僕の父の耳にも届いている。康政君、君は十二歳にして、この島の『支配の形』を、武力から事業へと書き換えてしまったね」
教卓に座る橘響子が、僕にだけ聞こえるような小さな声で囁いた。
「ありがとう、康政君。山の人たちが、商会の制服を着て、誇りを持って木を運んでいるそうね。あなたは彼らを『排除すべき敵』ではなく、共に富を築く『隣人』として認めたのね」
「そんな大層なものじゃないよ。僕はただ、嘘をつかない協力者が欲しかっただけだ」
僕は照れ隠しのように言葉を返したが、手応えは十分だった。僕が春の間に仕込んだのは、ただの「平和」ではない。山から絶え間なく届けられる「無煙火薬の原料(樟脳)」と「強靭な木材」、そして山を知り尽くした「最強の輸送労働力」。これらが生み出す無敵の供給連鎖が、今日、ついに完成しようとしていた。
同日午後、基隆港。
かつての泥濘は、八田與一が史実を十年以上先取りして造り上げた近代的な港湾設備に取って代わられていた。
コンクリートで固められた埠頭に、二隻の巨大な蒸気貨物船が、白煙を吐きながら接岸する。ロンドンからの『グレート・ノーザン号』と、ニューヨークからの『リバティ号』。
「荒金さん、二階堂さん。準備はいいですか?」
「ああ。空っぽの工場を磨き上げて待っていたんだ。早く、あの腹の中にある『宝物』を拝ませてくれ!」
二階堂が目を輝かせて、吊り上げられる「SSコンテナ」を見上げている。
僕が設計したコンテナが、当時の標準を遥かに超える速度で荷揚げされていく中、タラップから数名の外国人が家族を伴って降りてきた。
「若様、約束の品と、最高の『頭脳』を連れ帰りました」
半年ぶりに見る霧島誠一郎が、誇らしげに一礼した。その背後に立つのは、スコットランド人技師のアリスター・ダンカン。そしてアメリカ人技師のサミュエル・ミラーである。
彼らの目に、かつての「お雇い外国人」が抱いていたような傲慢さや不満はない。あるのは、契約書に記された「新城規格」という狂気じみたほど精緻な図面を提示した人物に対する、強烈なまでの「好奇心」だった。
「あなたが、あの図面を書いたヤング・ミスター・シンジョウか?」
アリスター・ダンカンが、不器用に帽子を脱ぎ、僕を真っ直ぐに見つめた。
「ロンドンで霧島からあの『公差管理(Tolerance Management)』の基準を見せられた時、私は自分の目を疑った。イギリスの老舗工場ですら、まだ職人の勘に頼っている部分を、あなたは全て『数学』で定義していた。これほどの環境を整えられる人物に会うために、私は家族を連れてきたんだ」
アメリカ人のサミュエル・ミラーも、頷きながら僕の手を握った。
「ミスター・シンジョウ。あなたが求めている『量産』の概念……あれはデトロイトでもまだ議論の最中にあるものだ。それをこの極東の島で、ゼロから構築しようという計画に、私は技術者としての魂を揺さぶられた」
彼らは反抗しに来たのではない。母国では「早すぎる」として理解されなかった自らの理想を、新興の財閥である新城康政が提供する巨富の資本と設備を使って、具現化しにきたのだ。
「Welcome to Formosa.(台湾へようこそ。)」
僕は、彼らの期待に応えるべく、専門的な技術英語で応じた。
「あなたがたが驚くべきは、図面だけではありません。そこを見てください」
僕が指差したのは、工廠の裏手に並ぶ、山からの資源供給ラインだった。
「先住民たちが運び込んだばかりの最高級ヒノキ、そして精製されたばかりの樟脳。ここでは、海外からの『輸入待ち』という時間の浪費はありません。全ての原材料が、この工廠の胃袋に直結している」
僕は二人を工廠の内部へと導いた。
巨大なシャッターが開くと、そこには完璧に整頓された作業スペースと、メートル法に基づき、髪の毛一本分の狂いもなく設置された機械用の台座が整然と並んでいた。
「オーマイガッ。霧島が言っていたことは誇張ではなかった」
ミラーが台座の刻印を撫で、震える声で呟いた。
「ダンカンさん。ここでは、あなたが長年温めてきた特殊鋼の製法を試すためのエルー式電気炉を、最大出力で稼働させることができる。ミラーさん、あなたの量産構造を試すための五十台の精密工作機械も、すでにコンテナから降ろされている。……さあ、ここからはプロの時間だ」
ダンカンが、汚れた帽子を被り直し、不敵に笑った。
「……フン、面白い。ミスター・シンジョウ。私は今日から寝るのを忘れることになりそうだ。教えてくれ、まずは何から焼き始めればいい?」
僕は、二階堂が持ち寄った設計図を広げた。
「まずは、航空機用エンジンのシリンダーブロックだ。この島から、世界の空を震わせる産声を上げよう」
その日の夕刻。
技師たちの家族が案内されたのは、工廠にほど近い高台に建設された「外国人居住区」であった。
そこには、八田が手がけた給排水システムと、製氷機によって冷えた飲み物が用意された、快適な洋風建築が並んでいた。
彼らの妻や子供たちは、遠い極東の島国に用意された、予想外の「欧米水準の暮らし」と、先住民たちが笑顔で運んでくる新鮮な果物の山を見て、安堵と喜びの声を上げた。
福利厚生、教育、インフラ、そして最新の機材と頭脳。
康政が一年をかけて、東京の市場を壊し、山の民族と手を取り合い、海を越えて構築してきたすべての「ピース」が、今この瞬間、基隆の地で一つの巨大なパズルを完成させた。
「……さあ、始めよう」
初夏の夜。巨大工廠の電気炉に、最初の火が灯った。
その赤々と燃える炎は、台湾の夜を焦がすだけでなく、大日本帝国、そして世界の近代工業の歴史を、一気に数十年分も焼き飛ばそうとしていた。
ついに工廠が動き出しました。
ここから技術と資本が一気に繋がっていきます。
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