第8話:狂乱の兜町と、数日間の煉獄
明治四十年(一九〇七年)、一月中旬。
日本橋兜町 東京株式取引所の周辺は、真冬の刺すような寒空の下にあって、そこだけが異界のように茹で上がっていた。
日露戦争の辛勝と、それに伴う鉄道国有化や新企業設立の熱狂。それは「戦勝国となった大日本帝国の経済は、これから永遠に成長し続ける」という、根拠のない集団幻覚を生み出していた。
取引所の入り口には、軍服を着た将校、シルクハットの華族、前掛けをした商人、さらにはなけなしの貯金を握りしめた学生や職人までもが、血走った目で群がっている。彼らの熱気と汗、そして安煙草の煙が入り混じり、兜町の通りには独特の饐えた匂いが立ち込めていた。
「東京電燈、また新高値だ! 買え! 借金をしてでも買え!」
「帝国鉄道も止まらないぞ! 家を担保に入れても今日買えば明日には倍になるんだ!」
誰もが「株は上がるもの」と信じ切り、手持ちの資金を遥かに超える借金をしてまで買い注文に走っている。人間の「貪欲」が理性を完全に焼き尽くした、市場の狂乱の頂点であった。
その阿鼻叫喚の立会場を、二階の薄暗い提携証券会社の貴賓室から冷ややかに見下ろしている一団があった。
瑞長商会の金庫番、翠玲である。豪奢な外套を椅子に掛けた彼女の背後には、入り口を岩のように塞ぐ大男の護衛と、侍女のふりをして室内のあらゆる動線に鋭い眼光を配る女性護衛 燕 が静かに控えている。
「翠玲様! ご覧なさい、今日もまた相場が跳ねました! 貴女様がお持ちの建玉、帳簿上の利益はもはや計算が追いつかないほどの莫大な額に膨れ上がっておりますぞ!」
株の仲買人が、額に脂汗を浮かべ、揉み手で翠玲にすり寄る。
「そう。それは結構なことね」
翠玲は、熱い紅茶のカップを優雅に傾けながら、ガラス越しに眼下の立会場を見つめた。彼女の瞳は、足元で蠢く相場師たちを「哀れな羽虫」を見るかのように冷え切っている。
コンコン、と控えめなノックの音が響き、燕が素早く扉へ向かった。
受け取ったのは、大北電信会社の配達員からの緊急電報である。燕がペーパーナイフで封を切り、中身を確認してから翠玲の傍らへ進み出た。
「台湾の若様からです」
暗号表と照らし合わせた燕の囁きに、翠玲の肩がわずかに動いた。
『引鉄ヲ引ケ』
新城康政からの、冷酷無比な処刑宣告であった。
「支配人」
翠玲が、カップをソーサーに置き、透き通るような声で呼んだ。
「はいっ、何なりと! さらに買い増しでございますか!?」
「いいえ。我が瑞長財団が複数の名義で保有する『すべての現物株』を、現在の最高値で、今この瞬間に全株売り払いなさい」
仲買人の顔から、さっと血の気が引いた。
「な、何を仰いますか! まだ相場は天井知らずですぞ! 今手放すなど――」
「全株売り払いなさいと言っているのよ。そして同時に、我が財団の全資金を証拠金として担保に入れ、市場の許容量の限界まで『延白(信用取引での空売り)』の注文を浴びせなさい。一株残らずよ。我々の資本力に逆らうつもり?」
「ひ、ひぃっ……! か、畏まりました!」
巨額の資本という「暴力」に屈した仲買人が、転がるように立会場へと駆け出していった。
数分後。
異常な熱気に包まれていた一階の立会場に、突如として冷や水がぶちまけられた。
瑞長財団の口座から発せられた、市場の常識を覆すほどの『桁違いの売り注文』が、相場という名の巨大な水槽に叩きつけられたのだ。
「な、なんだこの売りは!? どこかの大資本家か!?」
「一気に値を下げたぞ! ……いや、待て。これは一時的な押し目(買い時)だ! ここで拾えば明日には大儲けできるぞ! 買え! 全部買え!」
群集心理とは恐ろしいものである。初日、血走った投資家たちは落ちてくるナイフを素手で掴むように、翠玲が放った売り注文に群がった。彼らは「すぐに反発する」という幻想にしがみつき、さらなる借金をして株を買い支えようとした。
だが、買っても、買っても、上からの『売り圧力』は一向に止まらない。康政が積み上げてきた莫大な資金が、借金という重力となって市場を容赦なく押し潰していく。
その日は、値が付かぬまま大引け(取引終了)で幕を閉じた。
真の地獄は、ここから数日をかけてゆっくりと、しかし確実に兜町を真綿で首を絞めるように浸食していった。
二日目。市場は開場と同時に暴落の続きを演じた。
初日に「押し目買い」をした投資家たちの顔から、ついに余裕が消え失せた。銀行や仲買人が、信用取引で株を買っていた客たちに対し、非情な通達を一斉に送り始めたのだ。
『追証(追加の借金担保)を明日までに差し入れよ。さもなくば、担保の株を強制的に売却する』
三日目。崩壊の連鎖の完成である。
追証を払えない投資家たちの株が、仲買人によって市場に『強制的な投げ売り』として放出された。それがさらに株価を暴落させ、新たな追証を生み出すという死の螺旋。
連日、景気よく書き換えられていた黒板の赤文字は消え失せ、代わりに暴落を示す無慈悲な数字が場を支配した。
「う、売れぇっ! 俺の株も全部売ってくれ!!」
「馬鹿野郎、買い手が誰もいねえんだ! 値がつかない!」
「頼む、嘘だと言ってくれ! この金は、店を担保に入れて作った金なんだあぁっ!」
立会場を支配していた『貪欲』は、数日をかけて骨の髄まで凍りつくような『恐怖』と『絶望』へと裏返った。借金をして株を買っていた者たちが、破産と首吊りを宣告された亡者のように、互いを踏み台にして逃げ惑う。
翠玲は貴賓室の窓から、何日もかけて壊れていく群集の惨状を、ただ冷徹な眼差しで見下ろし続けていた。
一月下旬。暴動寸前の兜町を、燕たち護衛に完璧に守られながら、翠玲は黒塗りの自動車に乗り込んだ。
彼女の鞄の中には、数日間にわたる暴落の果てに、紙屑同然となった株を『大底で買い戻した』ことで発生した、天文学的な額の「円」の決済済み資金の受取証書と為替手形の束が収められている。
自動車の窓から、凍てつく東京の鉛色の空を見上げながら、翠玲は小さく息を吐いた。
「若様。任務は完了いたしました。日本の加熱景気は弾け飛び、膨大な『円』の富は今、我々の掌の中にあります」
彼女は、鞄の中の重みを確かめるように手を置いた。
「東京の相場で吸い上げたこの莫大な『円』の資金は、ただちに台湾の瑞長商会へ長崎を経由した為替手形と電信送金を併用し、迅速に移転させます。八田與一が指揮する基隆の巨大基盤工事と灌漑工事及び電力事業、そして海軍公認の巨大工廠の建設を加速させるための『物理的な血液(建設費・人件費)』として、台湾の地で直接運用するために」
翠玲は、懐からもう一通の電報を取り出した。それは昨日、霧島から届いた海外市場の報告だった。
「そして霧島先生がロンドンとニューヨークで並行して仕掛けた空売りも、すべて決まりました。あちらで得た『ポンドとドル』の外貨は、日本の為替を通すことなく、そのまま現地で最新技術の買い付けに使われます」
国内の暴落で得た『円』は、台湾の土台を造るために。
海外の暴落で得た『外貨』は、イギリスの特殊鋼の特許や高出力内燃機関、アメリカの精密工作機械など、工廠の中身を造るために。
一九〇七年、冬。
日本経済が数日間にわたる凄惨なパニックを経て絶望の淵に沈むその裏側で、瑞長財団という怪物は、通貨圏ごとの実務ロジックを以て、世界を呑み込むための巨大な「工業の牙」を研ぎ澄まし始めていた。
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※本作は歴史改変要素を含みます。
児玉源太郎氏は史実では1906年7月に脳出血で永眠していますが、本作では存命として描写しています。




