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3-1 精霊の善悪

 長い髪をまとめる手を止めて、クラウスはふいに溜め息をついた。

 真正面のドレッサーにはめ込まれた鏡には、見慣れないクラウス自身のいまいち表情の読み取れない顔が写っていた。


「クラウス?」

 呼びかけられて、声の方を見る。

 ソファでくつろいでいたナルーシャが顔を上げて、気づかわし気にクラウスを見ていた。

「いえ」

 なにか言わなければと口を開いたが、応じる言葉が浮かばず、クラウスは黙り込んだ。


 クラウスが聖女の館に住み始めて、もう一週間が経つ。

 その間に、民衆の聖女ブームも一旦の収まりを見せた。時間が経ったということもあったが、聖女はしばらく表に出さないという正式な声明が出たことが大きい。


 とはいえ、クラウスはそれを直接目にしたわけではない。

 現状館に引き籠らざるを得ない聖女の護衛――悪霊の性質上その傍を離れることが出来ないとなれば、自然とクラウスも館から出ることはない。

 教会の現況も、連絡係の者から伝え聞くだけだった。


「引き籠るのに飽きた?」

「……そうですね」

 ナルーシャの言葉はクラウスの思っているものとは少し違ったが、ある意味正しい。


 この一週間、クラウスに対してヘルムートからの連絡はない。

 話すことを決心した途端に出鼻をくじかれ、宙ぶらりな状態はクラウスにとってかなりのストレスとなっていた。


 クラウスがこの一週間顔をあわせるのはナルーシャ、館で働く者たちと聖女マリ、毎日のように現れるアスランぐらいだった。

 マリがしょんぼりと窓の外を見ている姿は、クラウスには他人事と思えずただただ胸が痛む。

 帰還の魔法陣はアスランに任せるしかなく、ヘルムートに連絡を取ろうにもうまいやり方がない。多忙な枢機卿はさておいても、ニブルムは勿論クラウスは顔を見せるだろうと思っていたフィスティテスすらこの一週間見ていない。


「今日はどうするの?」

「今日は……薪割りでも手伝おうかと」

「暇だもんね」

 成人して職を得ている身には辛い一言に、クラウスは苦笑いするしかない。


 何かをして気を紛らわせようにも、館に持ち込まれていた聖女儀典室の書類事務は最初の二日程度であらかた片付いてしまっていた。

 クラウスが手持ち無沙汰な一方、ナルーシャは気まぐれに姿を変える術を練習したり、今のように人の姿のままソファやベッドにごろごろとしたりと、割合充実した生活を送っていた。

 不幸中の幸いは、滞在する部屋の快適さだ。

 ナルーシャと同居という点で見ると、元居た寮は手狭と言わざるを得なかった。


 髪を結び終えドレッサーの前から立つと、クラウスはソファで寝そべるナルーシャのそばに膝をついた。


「そう言うナルーシャは、なにをするんですか?」

 くしゃくしゃになった青い髪を手櫛で整えてやりながら、クラウスはなんとなしにそんな質問をした。

「ひみつ。クラウスを驚かせるから」

 その言葉通り何かを企んでいるのか、楽しそうに答えたナルーシャに、クラウスは不思議そうにまじまじとその顔を見つめた。


 質問を重ねようとクラウスは口を開きかけたが、それも無粋なような気がして疑問を振り払うよう小さく首を横に振る。

「楽しみにしています」

 やわらかな表情でクラウスが一言告げれば、ナルーシャははにかみながらそれに頷いた。



 身支度を整えたクラウスは部屋にナルーシャを残し、いつも通り朝食のために食堂へと足を運んだ。


 マリの警護、そして魔法使いという身分もあってクラウスはマリと三食の食事を共にしている。

 この日の食堂には既に席についているマリと、そして朝食の用意されていない席にいつもは昼頃に現れるアスランがいた。

 二人は話し込んでいて、クラウスには気づいていない。


 アスランの姿に不思議そうな顔をしながらもクラウスが歩み寄っていくと、足音で二人はようやくクラウスに気づき視線を向けた。

「おはよう」

「おはようございます、クラウスさん」

「……おはようございます」

 挨拶にクラウスもそれに返したが、不自然な間が空く。

 二人の表情には、朝の挨拶にしては張り詰めたものがあった。

「何かありましたか?」

 さしもの他人に踏み込もうとしないクラウスでも、この二人の様子は無視できない。

「ヘルムートさんから、明後日街に出かけてもいいって連絡が来たんです」

「外出……明後日?」

 あまりにも唐突な話にクラウスが目を丸くしていると、アスランは吐き捨てるような溜め息をついた。

 音につられてマリとクラウスがアスランを見れば、アスランは鬱陶しそうに前髪をかきあげた。

「聖体を取り戻す為だろうな」

 アスランの推察は、クラウスを納得させるものだった。


 悪霊の問題だけであれば、現状で問題はない。

 しかし、持ち去られたであろう聖体はそのままというわけには行かない。

 このままではヘルムートの問責として、事が大きくなる。他人にも厳しいが自身に対してもそうあるヘルムートが、権力に物を言わせてこれを握り潰すとは考えにくい。

 その是非はさておいたとしても、教会としては聖体を取り戻す必要がある。


「リヒャルト殿をおびき寄せると」

 クラウスが聞く限り、リヒャルトはあの後見つかっておらず聖体紛失の重要参考人にして、行方不明という扱いとなっていた。

 すぐに王宮に連絡が行き警戒が敷かれたものの、相手が魔法使いということもあり捜索は困難を極めていた。

「そいつが本当に聖女を亡き者にしたいのなら、姿を表すだろうな」

 アスランの言葉にマリが渋い顔をした。仮にとはいえ、聞いていて愉快になる話ではないだろうとクラウスも苦い顔になる。

「ああ、いや」

 二人の様子にすぐに気づいたアスランは、気まずげに咳払いした。

「……すまない。ともかく、外に出るなら多すぎず少なすぎずの護衛が必要だ」


 悪霊を警戒するなら、例えリヒャルトをおびき寄せると言ってもクラウスが外れるわけにはいかない。

 しかしクラウスだけでは対人の護衛としては些か頼りなく、その点魔法だけではなく武器の扱いにも長けたアスランは、護衛として最もうってつけの人間だった。

「私と貴方と、あとは遠くから一人ぐらいでしょうか」

 いざというときに、あと一人はほしいと思ったクラウスにアスランが頷く。

「ああ。当てはあるから、俺に任せて欲しい」

「お願いします」

 教会から出せる護衛がいない以上、これはアスランに任せるしかなかった。


「えっと、すみません」

 話し合う二人の会話が切りのいいところで、小さな声が呼びかけた。


 その声にはっとすると、二人は声を発した当人に視線を向ける。

 遠慮がちに小さく右手を挙手したマリは、事の当事者だというのに何やら申し訳なさそうな顔をして口を開いた。

「お出かけするのは確定?」

 そも根本的な彼女の疑問が、二人には図星だった。


「そうなりますね……マリ様が断らない限りは」

 ヘルムートからの指示であれば、クラウスには断る選択肢はない。

 しかし、マリがどうであるかと考えればその限りではなかった。聖女ではあるが正式に即位しておらず、教会に保護はされていてもまだ教会に属しているわけではない。

 つまり、拒否権がないわけではない。


「猊下も言っていたな。これはお願いだと」

「ええ?」

 悩んだ様子のマリは、朝食を避けるようにテーブルに両腕をついて腕の中に頭を突っ伏した。

 マナーにうるさいアスランでさえ、今のマリにそのことを指摘する気もないようで、ただ黙って彼女の答えを待つ。


「……絶対大丈夫?」

 少しあげられた顔が、アスランをまっすぐ見た。

「必ず。君を元の世界に帰すまでが約束だ」

 アスランの答えに、マリははぁと深くため息をついてアスランからそっぽを向くように再び腕の中に頭を沈めた。

「これで口説いてるつもり無いんだもんなぁ」

「帰す人間口説いてどうするんだ」

 聞こえよがしのマリの呟きに、アスランもわざとらしい溜め息をついて返す。


 少しして、顔をあげたマリが今度はクラウスを見た。

 言葉はなくとも、マリが何を求めているのかはクラウスにもすぐにわかった。

「誠心誠意、努めます」

 クラウスに出来るのは、誓うように胸に手を当てて気持ちを言葉にするだけだ。


 暫く目を閉じて考え込む素振りを見せたマリは、やがてゆらりと椅子から立ち上がった。

「……わかりました。そこまで言うならお出かけしましょう。そもそも最初に言い出したの私だし! でもこわいので、絶対に守ってください!」

 戸惑う二人をそのままに、勢いよく二人に頭を下げた。


「いや、それは当たり前だ。だからそう、ペコペコ頭を下げなくていい」

「これは日本人のクセっていうか、取り敢えず頭下げとけば……みたいな」

 マリが小声で独り言ちるが、少し離れた場所に立っていたクラウスには何を言っているのかは聞き取れなった。

 傍の椅子に座っているアスランは聞き取れたのか、やれやれと呆れた風に嘆息した。

「一度王宮に戻って当てと話をつけてくる」

「わかりました」

「あ、うん。いってらっしゃい」

 一分一秒が惜しいという様子で、アスランは挨拶をすると早々に食堂から出て行った。


 ヘルムートの話の為に来ていたのかとクラウスがぼんやりと考えていると、クラウスにも聞こえるような大きな溜息が食堂に響いた。

「朝ごはん、冷めちゃいましたね」

 苦笑いするマリが、スープを指さした。クラウスも自分に用意されていた朝食を見れば、スープからの湯気はない。いつもは焼きたての白パンももう冷めているだろう。

 クラウスとしては白パンというだけで僥倖だし、冷めたと言っても肉まで入った野菜スープはご馳走ではある。


 とは言っても、冷めたスープにしょんぼりしているマリは見るに忍びなかった。

「スープは温め直しましょうか」

「え、あ。ありがとうございます」

 ポケットから目当ての魔法陣を取り出すと、クラウスはマリの傍まで寄って行きスープを温めた。


「……クラウスさんが持ってる魔法陣、アスランのと雰囲気違いますね」

 その様子を静かに見ていたマリが、ぽつりとつぶやいた。

「それぞれ手書きで作りますから、癖があります」

「癖っていうか……癖なのかな」

 他人の魔法陣を見る機会は多くはないが、それでも時々目にするものと自身のそれが少し違うことはクラウスもわかっていた。

 一般的な魔法陣は曲線的に、一筆書きのように線が引かれて円形に収まる。一方クラウスの魔法陣は直線的で線は交差し、最終的な形はまちまちだった。


「大抵は師の魔法使いから書き方や使い方を教わります。私は精霊から教わったので、そのあたりの違いかと」

「精霊に? どうして?」

「……私の師はあまり魔法が得意ではないので。見ていられないと、師の精霊から教わりました」


 オルヴァンの使う魔法陣は、基本的なものしかない。

 そもそも魔法使いとしては最下級の力しかなく、大きな魔法はフィスティテスが行使する。結果、オルヴァンは教わった魔法陣をそのまま使うだけで事足りていた。


 しかしその魔法陣は、魔力が桁違いな上にまだ扱いに慣れていない当時のクラウスには扱いづらいものだった。

 それを見兼ねたフィスティテスは、思い立ったその日から一ヶ月修行の旅と称しオルヴァンの元を飛び出していった。

 帰ってきたフィスティテスは、どこから仕入れたのか確かに魔法陣の法則を会得していて、いじけたオルヴァンを尻目にクラウスに魔法陣を教えた。

 この一件について、クラウスはまだ幼い頃ながらも鮮烈で、昨日のことのように思い出せる。


「精霊がいる魔法使いって、枢機卿……ですよね?」

「オルヴァン・ベニクス枢機卿です」

 思い出そうとしているのか、口に手をあてたマリの視線が空をさ迷った。と、その人物に思い至れたのか、ぱっとクラウスを見た。

「ああ! あの優しそうな。鳥の精霊を連れてる」

「はい。実際優しい人ですよ」


「クラウスさんも優しい人ですよね」

 マリのオルヴァンへの評価を首肯したクラウスの耳に、そんな言葉が投げかけられた。

「……私が、ですか?」

 他人からは初めて受けた評価に静かに驚き、クラウスは思わずマリの顔を見つめた。マリの表情は冗談を言うようなものではなく、ごく普段通りの穏やかなものだった。


「そりゃ一週間も同じ家に住んでいれば、悪い人じゃないってわかりますよ。まあ、そういうふうに思ったのはエミールのおかげですけど」

 突然現れたアスランの名に、クラウスは首を傾げた。

「エミールといるときは、友達っていう感じで結構気安い感じっていうか。エミールはツンデレなのに、クラウスさんちゃんと付き合ってあげてるっていうか」

 そんな風にアスランとのやり取りは人からは見えていたのか、とクラウスは新しい発見をしたと同時に一つ疑問が浮かんだ。


「……つんでれ、とは?」

 聞き慣れない単語について尋ねると、マリは慌てて首をぶんぶんと横に振った。

「ツンデレは置いといてください!」

 マリの反応や言葉の使い方から、あまりいい意味ではないのだろうと当たりはつく。

 困らせるつもりのないクラウスは、話を変えることにした。


「わかりました。では、この朝食が終わったら街の回る場所を考えましょう」

「場所ですか?」

「理由はどうあれ、マリ様が楽しめる方がいいですから」

 心の底から思って言ったことだというのに、マリはクラウスには読み取れない、にやけるのを我慢するような、どことなく苦々しさのある難しい表情をした。


「……そういうところですよ」

「はあ」

 聖女の使う言葉はよくわからないと思いながら、クラウスは適当に相づちをうった。

日付が開いてしまってすみません。ペースを戻していけるようにがんばりたいと思います。

今年もよろしくお願いします。

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