第四章:雨上がりの光と、新しい根(ラシーヌ)
昨夜の激しい雨が嘘のように、翌朝の街は眩しいほどの晴天に恵まれていた。
花屋の奥に併設された咲の小さな居住スペース。洗い立てのリネンの香りがするベッドの中で、周はゆっくりと重い瞼を開けた。
「……ん……」
差し込む朝の光に目を細め、身をよじる。全身を包み込むような心地よい気怠さと、肌に残る仄かに甘い熱の余韻。昨夜、あの温室で咲の腕の中に完全に墜ちてしまった記憶が鮮明に蘇り、周はシーツに顔を埋めて小さく呻いた。
「おはようございます、周さん。よく眠れましたか?」
ふいに頭上から降ってきた穏やかな声。
ハッと顔を上げると、エプロン姿の咲が、湯気の立つマグカップをふたつお盆に乗せて立っていた。普段の「物静かな花屋の青年」の顔でありながら、周を見つめるその瞳の奥には、確かな独占欲と、秘密を共有した者だけが持つ特有の甘い熱が揺れている。
「さ、咲くん……おはよう。その、昨日は……」
「無理に起き上がらなくていいですよ。少し、疲れが残っているでしょうから」
言い淀む周を遮るように、咲はベッドサイドに腰を下ろし、周の頬にかかった前髪を優しく指先で梳いた。そのひどく自然で過保護な触れ方に、周の胸がトクンと大きく跳ねる。
「……君は、ずるいな」
「俺がですか?」
「ああ。こんな風に甘やかされたら……いつもの自分に戻れなくなりそうだ」
自嘲するように笑いながらも、周はその心地よい掌の熱から逃げようとはしなかった。
仕事中は部下たちを完璧に統率し、決して弱みを見せない「エリート役員」である自分が、ひとまわりも年下の青年の前でだけは、こうして無防備な姿を晒している。その圧倒的なギャップと敗北感すらも、今の周にとっては恐ろしいほど甘美なものに感じられた。
「戻らなくていいんです。……あなたはもう、俺のものですから」
咲はマグカップをサイドテーブルに置くと、シーツ越しの周の身体ごと、強く、けれど壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。
「会社では、どうか今まで通り、誰もが憧れる完璧な『上北役員』でいてください。でも……金曜日の夜だけは、俺の温室で、その重い鎧を全部脱がせてあげます」
耳元で囁かれる詩的で重い言葉に、周は小さく息を吐き出し、咲の背中にゆっくりと腕を回した。
――数時間後。
パリッとした新しいワイシャツに腕を通し、完璧なスーツ姿でオフィス街を歩く周の顔には、いつもの「冷徹なエリート」の仮面がしっかりと被せられていた。
すれ違う部下たちが畏敬の念を込めて挨拶をしていく。
しかし、その隙のないスーツの下には、咲から密かに付けられた小さな赤い痕が隠されている。
『いってらっしゃい、周さん。……夜、待っていますね』
別れ際に落とされた優しいキスと、逃げ場のない愛の言葉を思い出し、周は誰にも見えないように、ほんの少しだけ口元を綻ばせた。
完璧なエリートの心はもう、あの雨の夜、路地裏の小さな花屋に深く、甘く、囚われたままだった。




