銀のピアスと花のピアス
広島県福山市にある黎深高校。
放課後の教室には、いつも通りぬるい空気が漂っていた。
窓の外には西日。
チャイムの余韻が、まだ薄く残っている。
机に突っ伏して眠る者。
だらだらと雑談を続ける者。
その中で――
高校二年生、帰野玖郎は、今日も静かに教室を観察していた。
「さて……今日はどんな謎が俺を待っているのか」
片肘をつき、視線を巡らせる。
――そのとき。
「……妙だな」
ぴたり、と目が止まる。
福山しおり。
机に突っ伏している。
制服はいつも通り少し着崩れている。
無防備な横顔。
――だが。
「足りない」
玖郎は、ゆっくりと立ち上がった。
「何かが、決定的に足りない……!」
がたん、と椅子が鳴る。
一瞬だけ教室がざわつき――すぐに戻る。
「ああ、また始まった」という空気。
「玖郎……今度は何なんだよ」
「見ろ」
玖郎は、しおりを指差した。
「――ピアスが、片方しかない」
「は?」
クラスメイトが顔を見合わせる。
しおりは、慌てて片耳を押させる。
その瞬間。
「ん……なに……」
しおりが、ゆっくりと顔を上げた。
「……うん、まあ」
耳に触れる。
「……まあ、気にせんといて」
教室が、ほんの少しだけ静かになる。
「落としたんじゃないの?」
「いや……まあ、そういうんじゃないし……」
しおりは、曖昧に首を傾げた。
――その瞬間。
「……ピアス、見つけました!」
教室のドアが勢いよく開き、山口が飛び込んできた。
「これ、グラウンドで拾ったんですけど――しおりさんのですよね?」
差し出されたのは、花の形をしたピアス。
しおりの視線が、ぴたりと止まる。
何か言いたげな表情。
「えっと……それは……」
言い淀む、その前に。
「そう」
玖郎が、すかさず口を開いた。
教室の空気が、一瞬止まる。
「花のピアスは――しおりにとって特別なんだ」
「……え?」
山口が戸惑う。
「なんで玖郎さんがそんなこと知ってるんですか?」
玖郎は答えない。
ただ、ピアスをじっと見つめる。
そして――静かに言った。
「それは、“なくしていいもの”じゃない」
しおりの指先が、わずかに止まる。
「……玖郎」
「そのピアスは、落としたんじゃない」
一歩、踏み出す。
「“置いてきた”んだ」
「え?」
「理由も――全部わかってる」
教室の空気が、変わる。
さっきまでの軽さが、少しだけ消える。
しおりは目を逸らした。
「……なに言いよんな」
玖郎は、窓の外を見た。
夕焼けに染まるグラウンド。
「一年の春」
しおりの肩が、わずかに揺れる。
「お前が、そのピアスを初めて付けてきた日」
「……なんで」
「忘れるわけないだろ」
淡々と続ける。
「その日、お前は――」
──その春。
一年生になったばかりのしおりは、まだ黎進高校の制服に慣れていなかった。
ブレザーの袖は少し長く、歩くたびにスカートの裾が落ち着きなく揺れる。
校門をくぐるたび、世界が急に広がっていくような気がして――
しおりは、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。
耳には、銀のピアス。
入学祝いに買ったばかりのものだ。
「しおり。学校にピアスって、怒られないのか?」
後ろから声をかけてきたのは、幼なじみの帰野玖郎だった。
どこか楽しげな声音に、しおりはむすっと口をとがらせる。
「……成績ええけえ、ええんよ。ルール上はね」
「ふうん。成績上位は服装自由、か」
玖郎は肩をすくめる。
「お堅いようで、案外フリーダムな学校だな」
「ええ学校じゃろ」
しおりは、少しだけ誇らしげに言った。
二人は幼なじみだが、一年のクラスは別。
会話は主に登下校か、校舎裏の自販機の前で交わされることが多かった。
――ある日の放課後。
しおりは珍しく、校舎裏のベンチに一人で座っていた。
両手を膝に置き、髪を耳にかける。
その表情は、どこか浮かない。
そこへ玖郎がやってきて、何も言わずに缶コーヒーをひとつ置いた。
「……失恋か?」
「は?」
間の抜けた声が出る。
「いや」
玖郎はしおりの耳元をちらりと見る。
「ピアスが銀色だったから」
「どういう推理なんよ、それ……」
しおりがあきれたように言うと、玖郎は平然と続けた。
「銀は“未練”の色だ」
「初めて聞いたわ」
「だから、何か吹っ切れんことがあるのかと」
しおりは一瞬だけ言葉を失い、
それから、小さくため息をついた。
「……あんた、ほんま適当じゃね」
そう言いながらも、缶コーヒーに手を伸ばす。
プルタブを開ける音が、小さく響いた。
しばらく、二人の間に沈黙が落ちる。
春の風が、やわらかく吹き抜けた。
そのとき――
しおりは、ふと呟く。
「……でもまあ、ちょっとだけ当たっとるかもね」
それから、しおりはぽつりと口を開いた。
「この前、みほ先輩に言われたんよ。“似合ってない”って」
「……先輩って、あの新聞部の?」
「うん」
小さくうなずく。
「……でも、あの人、私のこと見とった。前よりずっと、ちゃんと」
風が、ふわりと吹いた。
しおりのピアスが、光を受けて小さく揺れる。
「玖郎」
「ん?」
「薔薇の形のピアスって、どう思う? 派手かな」
少しだけ、探るような声だった。
玖郎は一瞬考えてから、あっさりと言う。
「……ああいうの、似合うやつって強いよな」
「え?」
「似合うって意味だよ。しおりに」
「……なに言いよんな」
しおりは、わずかに顔をそらした。
耳元のピアスが、もう一度だけ揺れる。
──次の日の朝。
春の空気は、まだ少しだけ冷たい。
校舎の隅には、季節外れの薔薇がひとつ。
風に揺れて、制服の裾をかすめていく。
福山しおりの耳には、その花とよく似たピアスが揺れていた。
花びらをかたどったモチーフ。
銀色の金具に、淡い赤のストーン。
お気に入りだった。
――けれど、その日。
「福山さん。校則、読んでいますか?」
背後から、冷たい声が落ちてくる。
しおりの肩が、わずかに跳ねた。
振り返ると、風紀委員の女子生徒が、じっとこちらを見ている。
その視線は、まっすぐ耳元へ向けられていた。
「ピアスは禁止されています。
反省文を明日までに提出。ピアスは今から外してください」
淡々とした指摘。
しおりは何も言えず、視線を落とす。
――うちのことをどう思うかは、相手次第。
胸の奥で、そんな言葉が浮かぶ。
「ある程度」の自由も、
その“程度”は、結局誰かの匙加減で決まる。
反論する理由なんて、どこにもない。
ただ――
このピアスだけは。
ほんの少しだけ、手放したくなかった。
「――待ってくれ」
そのとき。
横から、ぬっと声が差し込んだ。
振り向くまでもない。
帰野玖郎だった。
「そのピアスは、彼女にとって“ある事件”の証拠品だ」
「……は?」
しおりも、風紀委員も、一瞬固まった。
玖郎は真顔だった。
まるで、昼下がりの校庭で殺人事件でも起きたかのような顔で、しおりのピアスを見つめている。
「詳しくは話せない。だが――それは彼女が“真実”を忘れないために必要なものだ」
一歩、踏み出す。
「校則より大事なものが、人にはある」
さらに続ける。
「それに彼女は、成績優秀者だろう?」
「……か、帰野くん? 何を言ってるんですか……?」
風紀委員が戸惑いの声を上げる。
だが玖郎は、まったく気にしない。
そのまま堂々と、風紀委員へ理屈を重ねていく。
結果――
「……今回は、注意だけにします」
風紀委員は、困惑したまま引き下がった。
残されたしおりは、しばらく呆然と立ち尽くし、
やがて我に返ると、玖郎に詰め寄る。
「ちょっと、なんなん。今の」
「……つけてる理由くらい、知っている」
それだけ言って、玖郎は背を向ける。
呼び止める間もなく、校舎の影へと消えていった。
残されたのは、風に揺れる花のピアス。
しおりはそれを、そっと手で押さえる。
「なんなん……ほんま、しょうもないやつじゃあ……」
そう呟きながら――
ほんの少しだけ、頬がゆるんだ。
自分でも、気づかないまま。
──その日の昼休み。
校舎の屋上。
しおりはひとりで弁当を食べていた。
風紀委員に注意されたこと。
玖郎に、よく分からない形で助けられたこと。
同じ幼なじみでも、クラスは別。
派手な格好のせいか、周囲との距離はどこか遠い。
――このクラスで、うまくやっていけるんだろうか。
そんな思いが、ふとよぎる。
屋上に風が吹き込む。
髪がふわりと揺れた、そのとき。
「あ、花だ」
後ろから、声がした。
「……は?」
しおりが眉をひそめて、振り向いた。
「いや、耳……その、ピアス。花の形してるんだなって」
玖郎は、少しだけ言い淀む。
その顔があまりに素直で、
しおりは一瞬、言葉に詰まった。
――たぶん、自分でも驚くくらい。
それから、ふっと笑う。
「……気づいたん、あんただけじゃわ。今日、初めて着けてきたんじゃけど」
「そうなんだ」
玖郎は、あっさりとうなずく。
「まあ、わかる人にはわかるんかもね」
しおりは、少しだけ顎を上げた。
「これ、うちが自分で選んだやつなんよ」
その言い方には、ほんの少しだけ誇らしさが混じっている。
「しおりらしくていい」
しおりは、一瞬だけ目を見開く。
それから、わずかに頬を赤くした。
「……なんなん。カッコつけてるつもり?」
短く言って、そっぽを向く。
けれど――
耳元の花は、光の中で静かに揺れていた。
玖郎は何も言わず、缶コーヒーをもう一本差し出す。
しおりはそれを受け取りながら、ふと口を開いた。
「……なあ」
「ん?」
「なんで“強い”って言うたん?」
「強い?」
「昨日の。『似合うやつは強い』って」
少しだけ視線を落とす。
「どういう意味なん」
玖郎は、ほんの少しだけ考えるふりをしてから、答えた。
「……似合うってのは、他人が決めるもんじゃないからな」
しおりが、わずかに顔を上げる。
「似合ってるかどうかなんて、結局は“自分がどう思うか”だろ」
風が、ふわりと吹く。
「周りに何言われても、それでも着けるって決めたなら――」
一瞬だけ、しおりの耳元を見る。
「それはもう、強いってことだ」
しおりは、何も言わない。
ただ、缶コーヒーを握る手に、少しだけ力が入った。
「……ふーん」
そっけなく返す。
「他人の目、気にせんってことだろ」
玖郎は、ゆっくりと言った。
「誰かにどう言われても、自分が似合うって思えるなら――それは強さだ」
しおりは、少しだけ間を置いてから尋ねる。
「……そういう玖郎も、強いん?」
玖郎は、視線を空に向けたまま答えた。
「俺は臆病だよ」
玖郎は視線をしおりに向ける。
「だから、しおりが眩しく見える」
しおりは、少しだけ驚いたように彼の横顔を見る。
けれど玖郎は、いつも通り遠くを見たままだった。
「ふーん……ほうなんじゃ」
小さく息をつく。
「……玖郎が、そんなこと言うんじゃなあ」
「……たまにはな」
短い返事。
沈黙が落ちる。
風がまた、しおりの髪を揺らした。
その中で、しおりはぽつりと呟く。
「じゃけえ、私も――強くなりたいんよ」
そっと、ピアスに触れる。
昨日よりも、ほんの少しだけ誇らしげに。
玖郎はそれを見て、ようやく視線を向けた。
「……それ、似合ってるぞ」
まっすぐに言う。
しおりは一瞬だけ固まり、
それから、顔をそらした。
「……うるさいんじゃ……」
けれどその声は、どこかやわらかかった。
――昼休み終了のチャイムが、鳴り始める。
――自由って、なんなんじゃろうね。
中学二年の終わり頃、しおりはそんなことを考えていた。
広島の片隅にある中学校。
制服のスカートは膝下、靴下は白指定、髪の色も染めてはいけない。
生徒会に入っていたしおりにとっては、なおさら窮屈だった。
校則の話なんて、今さら退屈だ。
それでも、誰かが破れば、先生もクラスもやたらと騒ぐ。
しおりは、そういう面倒ごとが嫌で、ずっと「いい子」でい続けた。
――「いい子」でいることは、楽だった。
でも、それは誰かが決めた「いい子」だ。
自分で選んだわけじゃない。
――自分らしく、なんて。
――なにを、どうすりゃええんよ。
そんな言葉は、どこか他人事みたいに聞こえていた。
それでも、心の奥ではずっと――
早く大人になりたくて、誰かの真似ばかりしている自分に、少しずつ息苦しさを感じていた。
そんなある日。
放課後の図書館で、しおりは小さな銀のピアスを拾った。
それは、地元の高校の先輩――ミホ先輩のものだった。
茶髪に、ゆるく巻いた髪。
ネイルは淡いピンクで、さりげなく光っている。
制服の着崩し方も絶妙で、
誰が見ても「ギャル」だ。
――なのに。
成績は、いつも学年トップ。
先生ですら、強くは言えない。
まるで、自分のルールで立っているみたいな人だった。
正直、しおりは――こっそり憧れていた。
ピアスが許されるのは、ごく一部。
黎深高校は成績優秀な生徒だけ服装が自由、という校則のある学校だった。
その中で、ミホ先輩は堂々とそれを身につけている。
まるで、最初から“そうあるべき自分”を選んでいるみたいに。
「これ、落としましたよね?」
しおりが差し出すと、ミホ先輩はふっと笑った。
「おー、ありがとう。……片方しか残ってなかったけぇ、もう諦めとったんよ」
「これ、高そう……」
思わずこぼれる。
ミホ先輩は首を横に振った。
「ううん。ピアスって、最初は自分のために買うもんじゃけ」
一歩、近づいてくる。
「――あんた、耳、開ける勇気ある?」
しおりは、少しだけ目を伏せた。
「……わからないです」
その答えを聞いて、ミホ先輩はくすっと笑う。
「なら、これあげる」
差し出されたのは、さっきのピアス。
「片っぽだけじゃけど」
しおりは、戸惑ったままそれを見つめる。
「うちも最初はな、ピアスって――」
少しだけ遠くを見るようにして、続けた。
「“自分にウソつかんための証”みたいに思っとったけぇ」
しおりは、そっとそのピアスを受け取った。
小さくて、軽い。
けれど――妙に、重く感じた。
それから何度も、鏡の前に立った。
耳にあててみる。
角度を変えてみる。
似合うかどうか、確かめるみたいに。
でも――
結局、穴を開ける勇気は出なかった。
それでも。
そのピアスは、ずっとそこにあった。
――変わってもいい、と。
背中を、押してくれるみたいに。
「自分を選んでええんよ」
そんな声が、どこかから聞こえた気がした。
そして――高校に入った。
黎進高校の校則。
「成績上位者は、服装がある程度自由になる」
あの銀のピアスが頭に浮かぶ。
――やっと、このピアスをつけてもええ場所に来たんじゃ。
しおりは、本気で勉強した。
成績トップになることは、ただの目標じゃない。
“自由を得るための挑戦”だった。
自由は、与えられるものじゃない。
勝ち取るものだ。
堂々と胸を張って、自分の服を着るために。
やがて、成績は上位に食い込む。
それに合わせるように、しおりの制服も少しずつ変わっていった。
スカートを一折りして、ベルトで軽く留める。
耳には、クリップ式のピアスを片方だけ。
鏡に映る自分は、まだどこかぎこちない。
それでも――
ほんの少しだけ、あの人に近づけた気がした。
――ミホ先輩。
けれど。
“あのピアス”だけは、まだつけられずにいた。
引き出しの奥に、そっとしまったまま。
「なあ、しおり」
帰野玖郎が声をかける。
「その服装、校則的にアウトじゃないのか?」
しおりは、軽く笑った。
「うち、トップにおるけぇ」
「ほう……そういう仕組みか」
玖郎は腕を組む。
「しかし、なぜそこまでして変える?」
しおりは少しだけ考えてから、答える。
「面倒じゃけど……気分がええんよ」
そして、玖郎の方を向いて言った。
「これは、うちのための服じゃけ」
視線を少しだけ落とす。
「……誰かに憧れて始めたけど、今はちゃんと“うち”として着とる」
ふと、耳に触れる。
そこにあるのは、別のピアス。
本当に身につけたいものは、まだそこにはない。
――あの銀のピアス。
今も、引き出しの奥にある。
まだ開けてない。
まだ、踏み出せていない。
けれど――
(いつか)
(ほんまに“うち”になれたら)
そのときこそ。
胸を張って、それをつけよう。
自由とは、誰かに教えられるものじゃない。
でも――その最初の一歩をくれた人は、いた。
だからしおりは、今日も自分で服を選ぶ。
――これが“自分らしい”かどうかなんて、まだようわからん。
それでも。
自分で選んだんなら、堂々とすればええ。
ただのギャルじゃない。
“しおりという名前の制服”を、彼女は着ている。
――うちは、うちが好きな格好しとるだけじゃ。
玖郎は、目を細めた。
「なるほど。自由とは、自己満足の追求でもあるというわけか」
「なんかようわからんけど、たぶん合っとる」
しおりは肩をすくめる。
「うちは、“自分を楽しみたい”だけじゃけぇ」
そのやり取りを横で聞いていた山口が、ぽつりと呟く。
「しおりさん、かっこいいっすね……」
「なんで小声なんよ。はっきり言わんかい」
「いや、なんか……照れるんすよ」
しおりは、くすっと笑った。
廊下を歩くその姿は、制服というルールの中に、自由を描いている。
それは、ルールを破ったわけじゃない。
ルールを知った上で、自分の“色”を重ねているだけ。
しおりは、憧れを捨てたわけじゃない。
今も、それは心のどこかにしまってある。
「わたしは わたしを 選ぶ」
――それが、彼女が自由を手にした理由。
今日もしおりは、ホックを通さず、スカートの上からベルトを締める。
自由とは、選ぶこと。
そして、それを楽しむこと。
──ある日。
新聞部の後輩、一年の女の子――佐伯が、しおりの耳をじっと見つめて言った。
「福山先輩って……ピアス、似合いますね。それって、どこで買ったんですか?」
しおりは、一瞬だけ言葉に詰まる。
今日つけているのは、ミホ先輩にもらったものじゃない。
薔薇の形。
でも――
「似合いますね」
その一言が、なんだかむずがゆくて、くすぐったかった。
「これは……ふつうに買うたやつ」
少しだけ間を置いてから、続ける。
「でも、一番のお気に入り」
佐伯が「へえ」と目を輝かせる。
しおりは、ふっと笑った。
「ピアスはな、気分で変えるんよ」
そう言いながら、耳元に触れる。
ほんの一瞬だけ。
引き出しの奥にある、あの銀のピアスを思い出す。
――まだ、つけてない。
でも。
いつか。
「でもな、最初にピアスに憧れたんは、先輩のおかげなんよ」
しおりは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「ギャルで、めっちゃ賢くて。校則なんか気にせんのに、誰にも文句言わせん人でな」
少しだけ、遠くを見る。
「その人が落としたピアス、拾ったことがあって――
“自分にウソつかんための証”じゃって、くれたんよ」
指先が、そっと耳に触れる。
「うちの憧れで、理想の人じゃった」
しおりは一呼吸置いてから続けた。
「それで、真似しようと思ったんよ。でも……」
小さく笑う。
「一回も、そのピアスは使えんくて」
「……かっこいい人ですね」
佐伯が、ぽつりと呟く。
しおりは、その言葉に少しだけ胸があたたかくなるのを感じた。
――ああ。
――うち、あの先輩みたいに、なれとるんじゃろうか。
自由で。
自分で。
堂々としている人。
もし、誰かにとって――
ほんの少しでも、憧れになれているなら。
それは、きっと。
悪くない。
「そっか……うちも、耳、開けてみようかな」
佐伯の声は、少しだけ震えていた。
しおりは、やわらかく笑う。
「無理にせんでええよ」
首を軽く振る。
「でもな」
少しだけ、真面目な声になる。
「もし開けたくなったら――そのときは、“自分のために”開けんさい」
まっすぐに、佐伯を見る。
「誰かの真似やなくて、自分の証として、じゃな」
その日、帰り道。
しおりは、ふとポケットに手を入れた。
銀のピアスは、そこにはない。
――けれど。
ちゃんと、心の中にある。
ふと、ガラスに映る自分の姿を見る。
制服の上からベルトで留めたスカート。
少しゆるめのカーディガン。
片耳に揺れる、花の形のピアス。
それはもう、「誰かのスタイル」じゃない。
しおりだけの――しおりの制服。
“自分らしくあること”は、思っていたより難しい。
でも。
その道の先には、きっと誰かが続く。
――うちは、最初は誰かに憧れて真似た。
でも今は、自分の“好き”を選べるようになった。
福山しおりは、自由であり続ける。
それが、誰かの背中を押すのなら。
それは――きっと、いいことだ。
──一年生のとき。
入学して、まだ間もない頃。
その日は、授業が午前で終わった。
そして――
うちは、そのピアスに出会った。
街に出る理由なんて、特になかった。
それでも、なんとなくバスに乗った。
気分を変えたいとき、しおりはよく“外”に出る。
空気を変えるために。
ふらっと入った雑貨屋。
アクセサリー売り場の一角で、
小さなピアスたちが整列して、きらきら光っていた。
「見てるだけなら、タダじゃし」
自分に言い訳するみたいに呟きながら、
ひとつひとつ手に取っていく。
ゴツいチェーンピアス。
揺れるフェザー。
星のモチーフ。
――どれも、かわいい。
でも、どこか違う。
しっくりこない。
ふと、視線が止まった。
小さな薔薇の形のピアス。
中心が、ほんのり淡い赤色をしている。
主張は少し強いのに、どこかやわらかい。
耳に着けたら、きっと静かに光る。
「……これ、ええな」
思わず、口からこぼれた。
自分でも少し驚く。
いままで、選んだことのないデザインだったから。
――ほんまに、これがええん?
――あの銀のピアスと、全然ちがうのに。
一瞬、迷う。
でも。
そのとき、気づいた。
――うちは今、“自分の目”でこれを選んどる。
誰かの真似でも、憧れでもない。
ただ、今の自分が「いい」と思ったから。
その理由だけで、十分だった。
ミホ先輩のピアスは、あのときの言葉と一緒に、大事にしまってある。
でも――それと「同じ」である必要はない。
うちが、“いま”着けたいと思ったもんを、選べばええ。
レジでピアスを買い、袋を受け取る。
その瞬間、胸の奥が、ほんの少しだけあたたかくなった。
帰り道。
家に戻って、鏡の前に立つ。
袋から取り出して、そっと耳にあてる。
片方だけ、花のピアス。
「……ぶち、かわええじゃろ」
小さく呟いて、ふっと笑う。
そのまま、もう一度自分を見た。
ほんの少しだけ、背筋が伸びている。
自分で選んだ、自分だけの花。
それは小さくても、確かな――
“自由”の証だった。
──あの日の放課後。
校舎の裏手。
ベンチがひとつだけ置かれた、静かな場所。
しおりは、いつものようにそこに座っていた。
制服のポケットに手を突っ込み、
風に揺れる髪を押さえながら、ぼんやりと空を見上げている。
そこへ――
少しだけ不器用な足音が近づいてきた。
「……いた」
帰野玖郎だった。
ノートを一冊、小脇に抱えたまま、ぎこちなく歩いてくる。
「今朝の。ありがと」
しおりは、少しだけ素直にそう言った。
けれどすぐに、眉をひそめて横目で睨む。
「てか、“証拠品”ってなんよ。びっくりするし、風紀の子、ガチでひいてたじゃろ」
玖郎は、少しだけ首をかしげた。
「……だって、あれは本当に証拠だろ」
視線を、しおりの耳元に向ける。
「あのピアス。しおりが大事にしてるって、ちゃんと伝わってる」
一拍置いてから玖郎はつづけた。
「だから、気になっただけだ。なんでなんだ?」
しおりの表情が、ぴたりと止まる。
「……ないしょ、じゃ」
それだけ言って、視線をそらす。
しばらくのあいだ、ふたりの間に風だけが流れた。
遠くの電柱を、しおりはぼんやりと見つめている。
やがて――
「玖郎」
「ん?」
「アンタ、アホやけど……」
少しだけ間を置いて、
「たまには、ええやつじゃな」
「“たまには”って……」
玖郎が苦笑する。
しおりは、立ち上がった。
「迷探偵。ほな、うち帰るけ」
くるっと振り返って、
「……一緒に帰ろ」
夕日に照らされて、茶色い髪がやわらかく揺れる。
耳元には、小さな薔薇のピアス。
玖郎は、その背中を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「じゃあ俺も……たまには、ええやつやってみるか」
春の風が吹いた。
それは――
まだ「帰宅部探偵」が生まれる前。
ふたりが、ただの幼なじみだった頃の、
静かで、少しだけ特別な一日。
──そして。
時間は、現在へ戻る。
「……ということがあってな」
玖郎は、何事もなかったかのように話を締めた。
「そのピアスは、しおりにとって特別なんだ」
「……なるほど」
山口が頷く。
玖郎は真顔だった。
「それは“証拠品”だ」
「やめぇや!またそれ!」
しおりが即座に突っ込む。
「今朝もそれ言うて風紀の子ひかせたじゃろ!」
「だが事実だ」
玖郎は一歩踏み出す。
──その日。
グラウンドの端。
しおりは一人で立っていた。
耳には、あの薔薇のピアス。
だけど――
「……なんなん、これ」
ぽつりとこぼす。
昼休み。
「それ、ちょっと無理してない?」
クラスメイトの何気ない一言。
「なんか、“作ってる感じ”するよね」
笑い声。
軽い言葉。
でも――
胸に、引っかかった。
「……うち、ほんまにこれ好きなん?」
ピアスに触れる。
迷いが、指先に伝わる。
次の瞬間。
――外した。
一瞬だけ、ためらって。
それでも。
――投げた。
小さな薔薇が、夕焼けの中を弧を描いて、グラウンドに落ちる。
砂に埋もれる。
「……もうええわ」
しおりは背を向けた。
しおりは、山口の手の中のピアスを見る。
小さな薔薇。
グラウンドに投げ捨てたもの。
少しだけ汚れている。
でも――
ちゃんと、そこにある。
「……あんがと」
小さく言って、受け取る。
少しだけ、指で拭う。
そして――
ためらいは、なかった。
その場で、耳につける。
カチ、と小さな音。
しおりは、まっすぐ前を向いた。
「……うち、やっぱこれ好きじゃわ」
誰にでもなく、言う。
玖郎が頷いた。
「なるほど」
「なにが?」
「事件の核心が見えた」
「だからなんなん」
玖郎は静かに言った。
「一度捨てたものを、もう一度選び直した」
一拍。
「それが今回の“真相”だ」
「……」
しおりは一瞬だけ黙って、
それから顔をそらした。
「……うるさいんじゃ」
でも、耳元の花は、さっきより少しだけ誇らしげに揺れていた。
山口がぽつりと言う。
「なんか……いい話っすね」
「うるさい!」
教室に、いつもの空気が戻る。
玖郎は満足げに頷いた。
「今日の事件も、無事解決だな」
「いや最初から事件じゃないけぇ!」
──この日も、どうでもいい推理と、少しだけ大事な話だけが残ったのでした。




