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初恋と八角と

 ある日、教室の中に、八角の匂いが立ち込めていた。


「……誰か、変わった弁当持ってきとる?」


 しおりが鼻をひくつかせる。


「台湾料理ですね」


 山口が言う。


「クラスの誰かが、ル―ローハンを食べてますね」


「へえ……なんかクセある匂いじゃね」


 玖郎がぼそっと言う。


 その匂いで、思い出した。


「……僕にとって、それは初恋の匂いなんです」


「え?どんな?」


 しおりは興味津々といった顔で身を乗り出してくる。


「では、恥ずかしいですけど、お話させていただきます。」


──八角の香りは、不思議です。


 甘いのに、少しだけ苦くて、クセがある。

 でも、一度好きになると、それがないと、どこか物足りなく感じてしまう。


 そんな香りです。


 福山は、僕の故郷です。


 瀬戸内海に面したこの街は穏やかで、季節の移ろいも緩やかです。

 街の中心には福山城があり、黒い外壁が静かに空を映しています。


 鞆の浦の鯛めし、くわい、府中焼き。美味しいものも多い。


 けれど正直に言えば、僕の日常はどこか輪郭のぼやけたままでした。


 これは、僕——山口が黎深高校に入る前の話です。

 まだ、玖郎さんたちと出会う前のこと。


 でも、明珠ミンジュが福山に来てから、

 この街は、少しだけ違って見えるようになりました。


──中学二年生。


 将来の夢も、どうしてもやりたいことも見つからない。


 ただ学校に通い、放課後は街をぶらつき、スマートフォンで店を探して晩ご飯を決める。


 そんな日々を、悪くないと思いながらも、どこか他人事のように過ごしていました。


 春の夕方。


 福山城はまだ人が少なく、白い天守が淡く夕焼けを映していました。


 僕はひとり、城の石段に腰かけていました。


 特に理由はありません。

 ただ、ここに来ると落ち着くからです。


 石垣のそばで、ひとりの女の子がしゃがみ込んでいました。


 長い黒髪が背中に流れ、スマートフォンを構え、何かを熱心に撮っています。


「哇!這個顏色,好特別!」


 聞き慣れない言葉に、思わず足を止めました。


「在日本的城堡,有這麼多黑色的瓦,好漂亮!」


 振り返った彼女と、目が合う。


 大きな瞳が、少しだけ驚いたように揺れました。


 その瞬間。


 なぜか、この街の輪郭が、ほんの少しだけ、はっきりした気がしたんです。



「あ……すみません。独り言、うるさかったですか?」


 たどたどしいけれど、はっきりとした日本語だった。


「いえ」


 少しだけ間を置いて、僕は答えた。


「何を、撮っていたんですか?」


 そう聞くと、彼女は嬉しそうにスマートフォンを差し出した。


 画面いっぱいに映っているのは、福山城の黒い外壁。


「この黒、すごくきれいで」


「私の国のお城とは、ぜんぜん違います」


 その言い方が、妙に印象に残った。


 同じ景色のはずなのに、

 僕とは違うものを見ている気がした。


──これが、僕と明珠ミンジュとの出会いでした。


 その日から、というほど大げさではないのかもしれません。


 けれど——


 それまで、どこか輪郭のぼやけていたこの町が、色づいて見えるようになった気がしたんです。


「……また、会えたらいいなって、思います」


 別れ際、彼女はそう言いました。


 名前も知らないまま。


 それが、少しだけ、引っかかりました。


 数日後。


 ホームルームで、担任が言いました。


「転校生を紹介する」


 教室のドアが開く。


 入ってきた少女と、目が合った瞬間。


 僕は、息を止めました。


 福山城で出会った、あの人でした。


「はじめまして。明珠です」


 偶然にしては、出来すぎている。


 でも、そのときの僕は——


 その偶然を、少しだけ“運命”だと思ったんです。


 二人の放課後は、そこから静かに動き始めました。



 彼女の名前は、林明珠リンミンジュ


 台湾から来た留学生です。



 翌日、彼女は僕のクラスに転校してきました。


 そして——偶然にも、僕の隣の席になったんです。



「よろしくお願いします、山口くん」



 そう言って笑った明珠の笑顔は、前日よりも少し近くて、

 少しだけ、眩しく見えました。



「山口です。こちらこそ、よろしくお願いします」



 それだけのやり取りだったのに、なぜか、妙に印象に残ったんです。



 それから数週間。


 放課後、僕たちはよく一緒に福山の街を歩きました。



 明珠は、何にでも興味を示しました。


 初めて見るもの、食べるものに、素直に驚いて、喜ぶ。



 そのたびに僕は、

 この街を、少しだけ誇らしい気持ちで見るようになっていました。


 ある日の放課後。


 駅前のスーパーで、明珠が足を止めました。


 中華惣菜の棚の前でした。


 じっと見つめる横顔は、いつもより少し静かで。


「……ルーローハン、食べたくなって」


 ぽつりと、そう言いました。


「お店のも美味しいです。でも——」


 少しだけ言葉を探すようにしてから、


「お母さんが作るのが、一番で……」


 その声は、ほんの少しだけ、寂しそうでした。

 

 そのとき、初めて思ったんです。


 この人にも、“帰る場所”があるんだと。


 そして今は、そこから離れているんだと。


 その夜、僕はスマートフォンで検索していました。


「ル―ローハン レシピ」


 いくつもの材料が並ぶ中で、ひとつだけ、強く目に残ったものがありました。


 八角。


 星の形をした、茶色い香辛料。


 この匂いが、忘れられない匂いになるなんて…。

 この時の僕は微塵にも思っていませんでした。


 翌日から、僕は八角を探して街を歩き回りました。


 大きなスーパーにも、小さな商店にもなくて、

 諦めかけたころ、路地裏の古い食材店で、ようやく見つけたんです。


 袋を開けた瞬間、甘くて強い香りが立ちのぼりました。


 これが——明珠の故郷の匂いなのかもしれない。


 そう思いました。


 週末、明珠を家に招きました。


 キッチンに立ちながら、何度もレシピを見返します。


 八角の量に悩んで、火加減を気にして、

 無駄に鍋の中を覗き込んだりして。


「……できました」


 丼を差し出すと、明珠の目が、少しだけ見開かれました。


 ゆっくりと箸を持って、ひと口。


 その瞬間。


 彼女は、何も言わずに、少しだけうつむいた。


「……お母さんの味とは、少し違います」


 小さく、そう言って。


「でも……ちゃんと、八角の香りがして……」


 少しだけ、笑って。


「あったかいです」


 そのとき、初めて分かった気がしました。


 僕は、料理を作りたかったわけじゃない。


 この人に、何かを“渡したかった”んだと。


 味が同じである必要は、なかったんです。


 甘くて。


 少ししょっぱくて。


 ときどき、八角の香りがする。


 うまく言葉にはできませんが——


 それが、僕の初恋の始まりでした。



 ル―ローハンを作ったあの日から、明珠は前より少しだけ、僕に近づいた気がしていました。


 言葉の端々に混じる笑顔も、何気ない視線も、どこか柔らかい。


 ……でも、それはきっと、僕の思い込みでもあったんだと思います。


 その日の放課後。


 急な雨が降りました。


 昇降口に出た瞬間、空は灰色に沈み、校庭は一気に濡れ始めていました。


「……降ってきましたね」


 僕は鞄から折りたたみ傘を取り出しました。


 明珠は、少し困ったように空を見上げています。


 制服の袖を、わずかに気にしているのが分かりました。


「傘、持ってないんですか?」


 そう聞くと、彼女は小さく首を振りました。


「大丈夫です。少し待てば、止むかもしれません」


 そう言いながらも、足はその場から動かない。


「……よかったら、一緒に使いませんか」


 できるだけ自然に、そう言ったつもりでした。


 深い意味は、なかったはずです。


 でも——


「……ありがとうございます。でも、大丈夫です」


 明珠は、ほんの少しだけ、後ろに下がりました。


 半歩。


 それだけなのに、妙に距離を感じました。


「……そうですか」


 傘を差し出したまま、僕は少しだけ戸惑いました。


 何か、間違えただろうか。


 何か、越えてはいけない線があったのだろうか。


 答えは、分かりません。


 雨音だけが、間を埋めていきます。


 結局、僕は先に歩き出しました。


 振り返ることは、しませんでした。


 明珠は少し遅れて、別の方向へ向かっていきました。


 同じ帰り道のはずなのに、


 傘の下には、ひとり分の空間しかありませんでした。


 その夜、布団の中で、何度もその場面を思い返しました。


 ル―ローハンのときの涙と、今日の距離感が、どうしても結びつかない。


 あのとき、たしかに近づいたはずなのに。


 何かを、勘違いしていたのかもしれない。


──数日後。


 図書室で、偶然、一冊の本が目に入りました。


 留学生向けの文化ガイドです。


 何気なくページをめくると、こんな一文がありました。


 ――異性と身体的距離を急に縮めることに、抵抗を感じる文化もある。


 胸の奥が、少しだけ痛みました。


(……ああ)


 あれは、拒絶じゃなかったのかもしれない。


 ただ僕が、何も知らないまま、踏み込みすぎただけで。


 そう思えば、少しだけ、納得できる気もしました。


 でも——


 それだけで、本当に全部説明がつくのかどうかは、分かりませんでした。


──次の日の放課後。


 勇気を出して、声をかけました。


「この前のことなんだけど……」


 少しだけ言葉を選んでから、


「もし、嫌だったなら、ごめん」


 明珠は目を見開いて、すぐに首を振りました。


「違います。嫌じゃないです」


 少しだけ視線を落として、


「ただ……日本では、傘を一緒に使うのは、特別な意味があるって聞いて」


 言葉を探すように、少し間を置いてから。


「私は、まだ……どう答えたらいいか、分からなかったんです」


 その言い方が、妙に引っかかりました。


 分からなかった、ということは。


 考えては、くれていたのだと思います。


「……そっか」


 僕は、小さくうなずきました。


「僕も、あまり考えてなかったです。ごめん」


「いいえ」


 明珠は、少しだけ笑いました。


 その笑顔は、前と同じようでいて。


 どこか、ほんの少しだけ距離を含んでいるようにも見えました。




 

 雨は、また降るかもしれない。


 そのとき、同じ傘に入れるかどうかは、まだ分からない。


 でも。


 分からないのでもいいと、初めて思えた。


 明珠の歩く速さも、

 僕の距離の取り方も、

 まだ、少しずつしか重ならない。


 それでも。

 もっと、明珠のことを知りたいって思った。


 あの日、八角の香りがした部屋で、

 同じ時間を過ごしたことだけは、確かだった。


 初恋は、まっすぐじゃない。


 だからこそ。


 急がずに、

 ほどけないように。


 このまま、少しずつ、近づいていけたらいい。



 夏が近づくにつれて、福山の空は高くなった。


 雲は白く、陽射しは強くなり、放課後の校舎には、どこか終わりを含んだ匂いが混じり始める。


 その日、教室で担任が事務的に告げた。


「林さんの交換留学期間は、予定通り今学期までだ」


 ざわり、と小さな音がした。


 誰かが椅子を引いたのか、窓が揺れたのか、分からない。


 僕は、ノートの端を見つめたまま動けなかった。


(今学期まで)


 言葉は理解できるのに、実感だけが、追いついてこない。


──放課後。

 いつもの帰り道。


「山口くん」


 明珠が、ほんの少しだけ歩く速度を落とした。


「はい」


「台湾の、家族と……昨日、ビデオ通話しました」


 その声は、穏やかだった。


 穏やかで、だからこそ、少し遠く感じた。


「久しぶりに、お母さんの声を聞いて、少し安心しました」


 それだけ言って、彼女は前を向いた。


――帰る、という言葉は出なかった。


 でも、その話題自体が、もう十分だった。


「……そうなんだ」


 それ以上、僕は何も言えなかった。


 言えば、何かが変わってしまう気がした。



 まだ始まったばかりなのに。

 まだ終わっていないはずなのに、どこかで、もう終わりが始まっているような気がして。



 週末、明珠を家に招いた。


 理由は、はっきりしていた。


 もう一度、あのル―ローハンを作ろうと思った。


 前より、少し丁寧に。

 前より、少し慣れた手つきで。


 八角の香りが、鍋から立ちのぼる。


 甘くて、しょっぱくて、少しだけ切ない匂い。


「この匂い……」


 明珠は、目を細めた。


「台湾の夜市みたいです」


 出来上がった丼を前に、二人で手を合わせる。


 一口食べて、彼女は笑った。


「前より……上手になってます」


「それは、二回目だからです」


 そう言って笑ったけれど、

 胸の奥は、静かに揺れていた。


 “もう一度”は、

 何度もできるわけじゃないと、分かっていたから。


 食べ終わったあと、明珠がぽつりと言った。


「山口くん」


「うん」


「私、帰る日……まだ、言いたくないです」


 その言葉は、弱くて、強かった。


「言ったら、ここが“思い出”になってしまう気がして」


 僕は、少しだけ間を置いてから、うなずいた。


「……じゃあ、言わなくていいです」


 そう答えながら、

 本当は、知りたいと思っている自分にも気づいていた。


 しばらく、沈黙が流れる。


「でも」


 彼女は続けた。


「帰るまでの時間、大切にしたいです」



 その目は、まっすぐだった。


 まっすぐで、少しだけ、揺れていた。



「明珠が寂しいなら、僕が、明珠の故郷を福山に持ってくる……なんてことはできないけど…明珠のことをもっと知りたいって思う」


 少しだけ言葉を探してから、続ける。


「そして、このル―ローハンで、少しでも元気になってくれたら、嬉しい」


 明珠は、ゆっくりとうなずいた。


 その夜。


 見送ったあと、玄関に、八角の香りだけが残っていた。


 消えないままの匂いが、

 ここにあった時間を、静かに引き止めているようだった。


 別れの日は、思っていたよりも静かにやってきた。


 福山駅のホーム。

 平日の昼下がりで、人もまばらだった。


 スーツケースの横に立つ明珠は、

 いつもより少しだけ大人びて見えた。


「……晴れてよかったですね」


 そう言って、空を見上げる。

 声は、震えていなかった。


「そうだね」


 僕は、手のひらを握りしめていた。


 何を言えばいいのか、もう分からなかった。


 沈黙の中で、

 ふと、彼女が小さく笑った。


「傘、いりませんね」


 その言葉で、思い出した。


 あの日。

 同じ傘に入れなかった、帰り道のことを。


「……うん」


 短く、うなずく。


 言えなかった言葉が、いくつも浮かんでは消えていく。



「山口くん」


 名前を呼ばれて、顔を上げる。


「ありがとうございました」


 それだけだった。


 でも、その一言の中に、

 全部が入っている気がした。


「……こっちこそ」



「日本では……」


 明珠は、小さな声で言った。


「同じ傘に入るの、特別な意味があるんだとおもってました」


 少しだけ、間が空く。


「……はい」


 僕は、うなずいた。


 彼女は、ほんの少しだけ笑った。


「じゃあ」


 言葉は、そこで止まる。


 でも、その代わりのように、

 もう一歩だけ、近づいた。


 距離が、触れそうなほどに縮まる。


 あの日、届かなかった距離。


 今は、誰もそれを止めなかった。


 発車ベルが、鳴る。


「育ってきた文化や価値観が違うって、悲しいことだと思ってた。でも山口くんは、それを“知りたい”っておもってくれて。……うれしくて、胸がきゅーってしたの」

 

 明珠は僕との距離をすこし詰めた。


「明珠が福山に来てから、なんだかこの街が、もっと特別に見えるようになったんだ。初めて会ってから、福山城の黒だって、今まで当たり前だった景色が、明珠と一緒だと、特別な色に見えるんだ」


「じゃあ……」


 一瞬、言葉を探してから。


「キスも……特別ですよね」


 胸が、強く打った。


 答える代わりに、

 僕は、そっと彼女の肩に手を置いた。


 逃げない。

 下がらない。


 ゆっくりと、距離を詰める。


 彼女の温もりが優しく伝わる。

 唇が触れたのは、一瞬だった。

 温かくて、柔らかくて、少しだけ震えていた。


 深くも、激しくもない。

 でも、確かに――初恋だった。


 離れたあと、

 明珠は目を潤ませながら、笑った。


「……甘くて」


「しょっぱくて」

 

 二人で、同時に言って、少し照れた。


「時々、八角の味がする」


 列車が、ホームに入ってくる。


「また、作りますね。ル―ローハン。台湾に帰ったら、山口くんのルーローハンが、一番恋しくなるかも」


「次は……台湾で。」

 僕はそういうのが精いっぱいだった。

 だけど、その約束だけで、十分だった。


──初恋の味は、甘いだけじゃなかった。


 甘くて、しょっぱくて。

 時々、八角みたいに、少しだけ癖がある。


 明珠と出会って、初めて知った味。


 列車が動き出す。


 窓越しに、彼女が泣きながら手を振る。


 そして──


「因為你,我才會想留佇這个所在」


 彼女は、そう言った。


 意味は分からない。


 でも、

 言葉より先に、気持ちが届いた。


 僕は、最後まで、そこに立っていた。


 八角の香りは、

 きっと、すぐには消えない。


 それは、別れの匂いじゃない。


 どこかで、また続いていくための、匂いだ。


 あの日のキスは、


 甘くて、しょっぱくて。


 ほんの少しだけ、八角の味がした。



──明珠に会いに行く日は、雨の日がいい。

 僕は、ちゃんと傘を持っていく。


 もし、あの日みたいに、空が急に泣き出したら。


 そのときは――


 今度は、きっと。


 同じ傘に、入れる。


 あのときは分からなかった距離も、

 少しだけ、近づいている気がするから。


 同じ傘に入れるかどうか。

 その答えを、確かめる日を――


──今、少しだけ、楽しみにしています。

 

 

 三人の間に、しばらく静かな空気が流れた。


「……いい話でしょ?」

 最初に口を開いたのは、山口だった。


「いや自分でいうなや」

 しおりが即座にツッコむ。


「でもまぁ普通に良かったわ。八角とか、ちょっとズルい」

 腕を組んで、少しだけ照れくさそうに言う。


「……で?」

 玖郎がカップを置く。


「今どうなってるんだ?」


「え?」

 山口が一瞬、言葉に詰まる。


「台湾、行ったのか?」


 静かに、核心だけを突く。


「……いや、まだ」


「なんやそれ!」

 しおりがテーブルを叩いた。


「行かんのん!?あれだけ言うて!?」


「いや、その……タイミングが……」


「タイミングちゃうわ!行けや!」


「いやでも簡単に行ける距離じゃ――」


「じゃあ会いに来てもらえばええじゃろ!」


「それも含めて――そのうち……」


 言いながら、山口は苦笑する。


 玖郎は、ふっと小さく笑った。


「……まあ、いいんじゃないか」


「え?」


「“同じ傘に入れるかどうか楽しみ”って言えてる時点で、

 まだ終わってないだろ」


「……」


「続きがある話は、無理に締めない方がいい」


 しおりが、少しだけ表情を緩めた。


「……じゃあ、続きは取材じゃね」


「は?」


「台湾、行く理由できたじゃん。帰宅部探偵的にも」


「いやそれ絶対お前が行きたいだけだろ」


「バレた?」


 三人の間に、くすっと笑いが落ちる。


 外を見ると、空は少しだけ曇っていた。


「……雨、降るかもね」

 しおりがぽつりと言う。


 山口は、少しだけ視線を上げた。


「……降ったら、いいな」


 八角の香りを、ほのかに残したまま、昼休みは、静かに終わろうとしていた。


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