メモ1 祝福の朝に、ただ一人だけ
レオンは、自分の祝福証書から名前が一文字消えていることに、受け取る前から気づいていた。
まだ手元にも来ていない紙だ。
けれど、祭壇の脇で乾かされている証書の端を見た瞬間に分かった。
違う。
自分の名前じゃない。
日付も一日ずれている。
しかも、それだけじゃなかった。
祭壇の上の林檎は昨夜見た時より一つ少ない。なのに、そばの供え物の記録は書き直されていない。白布の前に並ぶ椅子は二十四脚あるのに、祝福を受ける子どもは二十三人。神官見習いの袖には乾いた蜜がついている。
そんなことを、祝福の日の朝から見ている場合じゃない。
自分でも、そう思う。
今日は十五になった子どもたちが、神からスキルを授かる日だった。村は夜明け前から浮き立っていて、神殿前の広場には白い布と花枝が飾られ、普段は山鳩くらいしかいない屋根の上まで人の声がのぼっている。
《火魔法》なら工房でも兵でも食べていける。
《治癒魔法》なら神殿が放っておかない。
《身体強化》や《剣技強化》でも、働き口には困らない。
だからみんな、今日は自分の人生が変わる日だと思っていた。
レオンも、そうだった。
せめて、胸を張って差し出せるものがほしい。
誰かに「お前がいて助かった」と言われるようなものが。
「レオン、顔が硬いぞ」
振り返ると、同い年のトオルが笑っていた。落ち着きなく足を動かしているくせに、口元だけは妙に自信満々だ。
「緊張してるのか?」 「少し」 「俺は《剣技強化》か《身体強化》がいいな。父さん、今日は酒をあける気満々だし」
悪気のない明るさだった。祝福の日には、そういう顔をするのが正しいのだろう。
「レオンは?」 「……役に立つものなら、なんでも」 「なんでも、ねえ」
夢のない答えだと思ったのか、トオルは少しだけ首を傾げた。
神殿の鐘が鳴る。
ざわめきが静まり、白衣の神官フェルドが前へ出た。灰色の髪をきっちり撫でつけた、穏やかで冷たい男だ。村人に好かれる顔をしているのに、レオンは昔から、この人の目が少し苦手だった。
「祝福の儀を始めます」
名前を呼ばれた子から、祭壇の前へ進む。
最初の少年は《火魔法》。
次の娘は《治癒魔法》。
広場は歓声に包まれた。
《風魔法》《身体強化》《剣技強化》――華があって、強くて、誰の目にも分かりやすく将来に繋がるスキルが続くたび、広場の熱は増していく。
「レオン・グランツ」
呼ばれて、前へ出る。
祭壇の石床は朝の冷たさをまだ残していた。差し出された板に手を置くと、薄い光がふわりと浮かび、表面に文字が焼きついていく。
フェルド神官がそれを見て、ほんのわずかに眉を動かした。
その一瞬で、嫌な予感がした。
「……《記録》」
広場が静まり返る。
歓声ではない。
反応に困った沈黙だった。
「きろく?」 「帳面役とか、そういうのか?」 「戦いには使えなさそうだな」
ひそひそ声が近い。聞こえないふりをするには、少し近すぎた。
フェルド神官はすぐに穏やかな顔へ戻り、よく通る声で言った。
「補助や事務に向いたスキルです。正確さを必要とする仕事では、役に立つこともあるでしょう」
慰めの形をした判定だった。
補助。
事務。
戦えない。
当たりではない。
言葉にされなくても、それは十分に伝わった。
式はそのまま続き、全員の祝福が終わるころには、広場の関心はすっかり別の子どもたちへ移っていた。
レオンは祝福証書を渡される。
厚手の紙に、神殿名、日付、名前、授かったスキルが記されている。これから先、仕事の登録や紹介でも使う、大事な紙だ。
「あの」
補佐の青年が眉をひそめる。
「何ですか」 「その証書、名前が違います」 「は?」
「日付も一日ずれています。このまま登録所へ持っていったら、村の記録と合いません」
場がぴたりと止まった。
青年は証書を引き寄せる。レオンは続けた。
「右下です。僕の名前の最後の一文字が抜けています。日付も昨日のままです。これだと、あとで見比べた時に別人扱いになるかもしれません」 「……っ」
青年の顔色が変わる。
レオンは祭壇の方を見た。
「それと、祭壇の林檎が一つ減っています」 「何を言って――」 「でも、供え物の記録は昨日のままです」
神官見習いの少年がびくりと肩を揺らした。
「今朝、右手で触りましたよね。袖に蜜がついてます」 「ち、違……倒れそうになって、支えただけで……!」 「林檎の並びも変わっています。昨夜と違います」
ざわめきが広がった。
「え、今ので分かったのか?」 「見ただけだろ?」 「《記録》って、そんなことまで……?」
補佐の青年は慌てて祭壇の横へ走り、供え物と記録を見比べた。
「神官様……本当に、一つ違います。証書も……名前が欠けています」
今度のざわめきは、はっきり驚きだった。
フェルド神官は証書を受け取り、見習いへ目だけで指示を飛ばした。
「書き直しなさい。供え物の記録も直しておくように」
淡々とした声だった。
けれど、そのあとでレオンへ向けた視線だけが少し変わった。
軽く見るでもなく、褒めるでもない。
値踏みするような目だった。
「正確さは結構です」
フェルド神官は言う。
「ただし、細かいことばかり拾っていては、大きなものを見失います。使い方を誤らぬことです」
その言葉で、広場の空気はまた少しずつ戻っていった。
「すごい」より先に、
「細かい」が残る空気。
見抜けても、褒められない。
正しても、すごいとは言われない。
ただ、便利そうだと言われるだけだ。
レオンは書き直された証書を受け取り、頭を下げた。
「ありがとうございます」
礼の形だけは崩さなかった。
神殿を出るころには、広場はもう別の熱に包まれていた。
その輪の外を歩きながら、レオンは証書の角を指でなぞった。
正確さを必要とする仕事に向いている。
間違ってはいない。
でも、その言葉のどこにも強さはなかった。
誰かを守れる感じも、未来を変えられる感じも。
石垣の角を曲がったところで、ふと足が止まる。
風が吹き、白い花びらが肩に落ちた。
『人の名前を、ちゃんと呼びなさい』
母の声が、胸の奥から不意に浮かぶ。
『間違えたままにしちゃ駄目よ。忘れられたら、さびしいでしょう』
小さいころ、近所の老人の名を言い間違えた時、母は笑わずにそう言った。名前は、その人が生きてきた証だから、と。
その時はよく分からなかった。
でも今は、少しだけ分かる。
間違いを間違いのままにしておけば、いつか本当に、そうだったことにされてしまう。
レオンは振り返った。
なぜだか、もう一度だけ神殿を見たくなった。
白布の揺れる回廊の奥、半開きの戸の向こうに記録棚が見える。祝福の記録、出生の記録、村の大事な書きつけ。神殿が、人の人生をしまっておく場所だ。
その棚の中で、一冊だけ、妙に目を引く帳簿があった。
古い。
それだけじゃない。
そこにあるのに、薄い。
本ではなく、消えかけた跡みたいだった。
目を離したら、そのまま存在ごと抜け落ちてしまいそうな、嫌な薄さだった。
ぞくり、と背筋が粟立つ。
帳簿は少しだけ開いていた。
擦り切れた頁の端に、見えた文字はほんの数文字だけ。
――グランツ
――護送記録
息が止まった。
次の瞬間、ばたん、と戸が閉まる。
白い袖だけが、内側へ引っ込むのが見えた。神殿の者だろうか。分からない。ただ、今見た文字だけが、焼けるように目の裏に残った。
グランツ。
護送記録。
父と母がいなくなったあの日、村に残った話は、盗賊に襲われただの、事故だっただの、曖昧なものばかりだったはずだ。
なのに、なぜ神殿の古い帳簿に、自分の家の名がある。
「……なんで」
問いは風に溶けた。
神殿の戸は、もう静かに閉じられていた。




