慶喜の弟4
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我に返った昭武は憔悴しきった表情で喜徳から容保、そして眉ひとつ動かさぬ慶喜へと視線を動かした。
「その後すぐに喜徳は留学をとりやめ帰国しました…私もそれ以上どうしてやることも出来なかった…思えば喜徳の心はあの戊辰の戦の時に死んでしまっていたのかもしれませんねーしかし兄上、大政奉還は時代の流れにございまする。誰が悪いわけでもございますまい。兄上は過去のご自分を卑しめられるおつもりかっ!」
「怒るな、昭武。儂はそのようなつもりで言ったのではないぞ。ただ俗世を離れて大権現様をお守りする聖職についた容保をこのような些細なことで呼び出すのは修行の邪魔になるだろうと思うての」
「些細なこと…ですと?」
ふいに昭武の目が座った。昭武は喜徳の生前から彼に関することとなるといつでもおかしなくらい剥きになって弟を庇った。まるでまったく無関心な慶喜の分まで引き受けたように。あるいはそれは最初、自分が行くはずだった会津藩へ、万博に出るために養子に行けなくなった自分の代わりに養子に行ったばかりに人生が狂ってしまった弟への、昭武なりの償いなのかもしれない。
「喜徳は死んだのですぞ、兄上っ!それのどこが些細なことなのですかっ!だいたい喜徳がこんなになるまでどうして兄上は知らせて下さらなかったのです?せめてっ…せめてこの昭武にくらい…」
「あれが知らせるなと言っていたからだ。治療に関してはすべて医者と看護の者に任せていた。喜徳とて子供ではないのだ。自らの進退は自らが決めることだろう」
「喜徳が幼い頃よりおとなしく、人一倍忍耐強い、人に神経を使う子供であったことは兄上とてご存知ないはずではありますまい…なのにどうして…あまりにも酷うございます!!」
「昭武殿」
「ー私は兄上が大好きです。合理的で冷静な物の考え方に憧れてきました。このように遠大な物の見方をできる方なればこそ"大政奉還"という偉業も成し遂げられたのだと。兄上はこの昭武の誇りです。心底兄上のお役に立ちたいとも思う…しかし喜徳のことに関しては…どうしても合点がゆきませぬ。なぜ兄上はこの昭武に対して与えて下さる愛情の半分も喜徳には与えて下さりませぬのか!」
「……」
「兄上も喜徳と同じでいらっしゃるー大政奉還なさったことを間違っていないと確信されていても、心の何処かで犠牲になった者達への罪を一身に背負おうとしておられる。だから喜徳を見ているとご自身の触れられたくない部分を突きつけられているような気がして辛かったのだーどうして手を差し伸べてやりませなんだのか、兄上…?同じような考えを持つ兄上なら、あるいは喜徳を理解してやることもでき、あれの人生も違ったものになっていたやもしれぬのに…兄上は冷たい。喜徳に対しては赤の他人より冷とうございまするっっ!」
熱くなる昭武とは反対に、慶喜の方は一向に変わった様子もない。切れ長の目をひたと弟に見据えたまま微動だにしなかった。
昭武の瞳に苛立ちが宿る。次の瞬間、止める間もなく昭武は慶喜の胸ぐらに掴みかかっていた。
「なぜ、じゃ…兄上っっ!!」
昭武の瞳にあったのは憎しみよりも縋るような、絶望に近い眼差しだった。
「昭武どのっ!!誰ぞ、あるかっ、早う」
緊迫した容保の声に呼応するかのように、数人の男達がガラッと襖を開けて部屋の中に入ってきた。
「昭武殿はお悲しみのあまり気が動転されておる。別室にお連れ申して気散じの薬など差し上げるように」
「はっ」
「さ、昭武様ー」
むりやり慶喜から引き離された昭武は、激しく抵抗しながら男達の肩越しに必死で声の限りに兄に向かって叫び続けた。
「兄上ぇぇーっ!」
だが大の男達にかかっては昭武の多少の抵抗など一溜まりもない。昭武の叫び声は襖が閉まってからもしばらく聞こえていたが、やがて男達の足音に掻き消され、ついに途絶えた。
後は耳が痛くなるほどの静寂ー。
「……上様…では容保もこれにて退がらせていただきまする……」
「うむ」
岩のように立ち尽くし、昭武の去っていった方を見つめていた慶喜は平伏している容保を振り返ろうともせず乱れたタイを直しながら頷いた。昭武の必死の懇願も、慶喜の上にはなんら影響を及ぼしてはいないようだった。
「わざわざの来訪、大儀であった」
頑なに背を向けたままのかつての主君に容保は黙って頭を下げる。そして襖の把手に手をかけたその時ー。
容保の耳に、低く慶喜の声が響いた。
「ー容保…そなたとはいろいろあったが、喜徳のことに関しては有難いばかりだ…礼を言う。会津を裏切ったこの慶喜の弟じゃ、さぞ家臣達の猛反対にあったであろうに、よく見離さずにあれに親の愛情を注いでくれたー」
「上…さま…?」
襖にかけていた容保の手がハタと止まった。信じられないような顔つきで振り返る容保が見たのは、だが一瞬前とさほど変わらぬ頑なな慶喜の背中であった。
『空耳であろうか?』
訝しげに眉をひそめた容保は、しかしそれが空耳などではなかったことにすぐ気づいた。
孤高の権化のように立ち尽くす慶喜の肩は必死で何かを耐えるように震えていたのである。それはよくよく目を凝らして見なければ見逃してしまうほどの幽かな揺れではあったが・・・。それは幕末の混乱の最中にさえ見たことがなかった、"人間慶喜"の心を容保は初めて見た思いだった。ふと慶喜を見つめる容保の視線が和んだ。
「昭武殿はきっと兄上のお心をわかっておられまするーきっと…」
「……」
それがどうしたと言いたげな慶喜の視線を幾分ひるんだ様子で受け止めながらも、容保はためらいがちに初めて自らの心の内を語り始めた。
「上様ー永のご兄弟のお別れの場にこの容保がお目汚しをいたしたこと、上様には大変ご不快に思し召されておいででございましょうがー私は喜徳殿のご最後に立ち合わせていただき、上様と昭武殿に心底かたじけのう思うておりまするー喜徳殿は誠に良き御子にて…あのような心根の清い弟君を養子にお遣わし下さりました上様には私の方こそどのように感謝いたしてもしきれませぬ。会津籠城の折、実子雪臣を失いましたる容保めに喜徳殿の存在は如何ばかり慰められましたることか…憚りながらこの容保、義父としてあの健気な心に応えてやることが出来ませなんだが」
いつのまにか容保は喜徳の遺骸の傍らへ座り込んでいた。枯れ木のように細い手で白い布からはみ出していた喜徳の髪を何度も何度も愛しげに撫でてやりながら容保の言葉は続く。
「…思えば養子に入られてからというもの、戊辰の役、斗南藩移住と悪いこと続きでありました。水戸家から来たということで色々言う者があったことは事実でござりましたし…辛い思いをしたことは1度や2度では済みますまい。最も、この容保には不平不満ひとつ洩らさず、却って家臣達を励ましておりましたのが一層不憫でーそれでもようやく少し藩全体の暮らし向きが持ち直してきたところでしたのに、家中の諸事により水戸家へお帰りいただいたことは今でも申し訳なく思うておりまする。会津が好きだ、会津に骨を埋めると言っていたものをー」
浮かんできた涙をそっと拭う容保。喜徳の枕元の線香が音もなく崩れた。
「ーあれは会津の義父上を大層好いておったからの…」
"家中の諸事"ー慶喜は薄幸だった弟に降りかかった、更なる不幸を思い起こしていた。養家会津松平家からの離縁ーそれは喜徳にとって最後の支えだった義父容保をも失うことだった。もちろん離縁は容保の意図するところではない。そこには、明治になってから生まれた容保の実子、容大に松平家当主の座を継がせんとする家臣達の強い意向が働いていた。とはいえ仮にも喜徳は元将軍家慶喜の実弟、陪臣である藩士達が喜徳に指図することなど出来ようはずもなかった。
だがこのまま黙っていれば家臣と喜徳の板挟みになって義父容保が辛い思いをするのは必定ー喜徳は自分を慈しんでくれた容保を苦しませたくないばかりに泣く泣く自分から実家である水戸家へ帰りたいと進言したのだった。
「私も喜徳殿のことが大好きでした…別れの日、すまぬと詫びることしかできなかった私にそのような時でさえ喜徳殿は気遣うように笑みを絶やされなかった。本当に見ていてこちらの胸が痛くなるようでした。自分の感情を押し殺して…」
容保はそっと喜徳から離れて立ち上がる。襖に手をかけ振り向きざま容保は、慶喜の背に向かってポツリと思い出したように呟いた。
「そういえばーそのように何一つとて不満を洩らしたことのない喜徳殿が、たった1度だけ泣いて憤懣のやるせなさを訴えられたことがござりましたな…喜徳殿が感情を露わにされたのはこの容保、後にも先にもあの時ただ1度きりにてござりました…」
「……」
やはり慶喜の反応はない。だがこころなしさっきよりも肩の揺れが大きくなったようだ。容保は黙って頭を下げると音もなく襖を閉めたのだった。




