留学
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明治9年、昭武は政府よりアメリカ万国博覧会の御用掛を命ぜられ、かの地に渡ったがその年の暮、万博が盛況のうちに幕を閉じると日本から喜徳を呼び寄せてその足でフランスはパリへと渡って2度目の留学生活に入ったのだった。
幕末の際に幕府の崩壊によって中途で終わってしまった留学の続きを始めるべく昭武は前々から機会を伺っていたが、今回機を得た彼は日本国内では新政府や会津松平家、現在藩主を勤めている守山藩の家臣達、果ては実家の水戸家と何かと気兼ねの多い喜徳にも自由な日々を満喫させてやりたいと呼び寄せたのだった。
パリに着いた昭武と喜徳はヴィエーユ・エストラパド街に家を借りて兄弟水入らずの生活を始めた。10年ぶりのパリを嬉しげに弟に案内する昭武の無邪気さと日本では味わうことのできなかった開放感に、沈みがちだった喜徳の表情にも次第に明るさが戻ってきていたある早春の日ー。
「余九麿、日本で戦が起きたらしいぞ!西郷隆盛率いる不平士族が薩摩で反乱を起こしたらしい」
「西郷隆盛が…反乱…?」
大きな暖炉の前で薪をくべていた喜徳は、公使館から帰ってきた途端、外套を脱ぎもせずに部屋に入ってきた昭武に鸚鵡返しに尋ねた。
「ああ…以前から征韓論などで外遊派とは意見が割れていたからな。それにしても10年とたたぬうちに仲間割れか。呆気ないものだの。10年前は薩摩の侍ども、このパリでやりたい放題の狼藉を働いておったのに…人間、利害が一致しておるうちはよいが、これでは慶喜兄上はいったい何のために大政奉還をなされたのやら…そういえば会津藩士達も続々と鎮圧軍に参加しておるとか…維新の時の恨みを晴らせる絶好の機会だからの」
「……」
黙り込んでしまった喜徳に気づいて昭武は慌てて椅子から身を起こした。
「あ、いや…悪かった、余九麿…」
鼻の頭を掻きながら床に視線を落とした昭武に喜徳はふわりと微笑んで立ち上がった。
「ー外套を脱いで下さい、余八麿殿。風邪を引かれますよ。カフェ・オ・レでも淹れてきましょう」
「ああ」
それ以上何も言えず、言葉を飲み込んだ昭武はだが、一瞬のうちに弟の笑みが作り物めいたそれへと変貌を遂げてしまったことに気づいて密かにため息をつきながら喜徳の後ろ姿を見送ったのだった。
その晩のことだった。
昭武と喜徳は毎晩6時にダイニングで夕食を取るのが習慣であった。この日もカフェ・オ・レを飲んで少し喋った後、彼らはそれぞれ自室に籠もり各々のスケジュールをこなしていた。
昭武は日本へ手紙を書き、学校へ提出するレポートの下書きを半分ほど仕上げたところで6時近くになったことに気づいて部屋を出た。向かいが喜徳の部屋である。
「余九麿?そろそろ夕食の時間だ。下に降りようか?モリエール夫人が待ってる…ぞ…どうした、余九麿っ!」
ノックしながらドアを半分開けたところで昭武の顔から笑みが消えた。喜徳がベットの上で倒れていたのである。
「余九麿、しっかりしろっ!」
喜徳はぐったりとして反応がなかった。抱き起こすと額が異常に熱い。
「マダームモリエール!!マダーム!すぐに医者を呼んでくれっ!弟が倒れた!」
昭武のフランス語が館中に響き渡った。
「ー弟君の高熱は精神的なものですな」
「精神的…?とはいったいどのような?」
昭武は眉をひそめて医者に問い返した。
「つまり…弟君の神経は並の人間よりも少々繊細に出来ていらっしゃる。彼は過去に何か大きな衝撃を受けたことがありませんかな?それがトラウマとなって体にまで拒絶反応が出てきてしまうのですね。残念ながらこういう方には外国暮らしはあまりお薦めできません。言葉や習慣の違いーわずかなことが精神を疲労させ体に負担をかけます。お国に帰ってどこか刺激の少ない静かなところでじっくりと静養なさることが1番です」
「……」
医者が去った後、昭武は喜徳の枕元にうずくまってじっとその寝顔を見つめていた。
『こんなになるまでいったい何を悩んでおるのじゃ、余九麿?この兄にも話せぬようなことなのか…』
それからどのくらい時が経ったのかー。少し居眠りをしていたらしい昭武は、低いうめき声で目を覚ました。
『余九麿っ?』
思った通り喜徳がうなされていた。額に手を当てると熱い。下がっていたはずの熱が再び上がってきている。鎮静剤が切れてきたらしい。
どんな夢を見ているのか、喜徳は苦しげに頭を左右に振っていた。
「余九麿…余九麿っ!苦しいのか?」
昭武はうなされている喜徳の頬を叩いて正気づかせた。ぼんやりとした表情で喜徳は目を開く。しかしその意識はまだ夢と現実の狭間を漂い続けていた。
「気づいたか、余九麿っ!」
「…ゆる…許して下されー兄の罪ーを…この喜徳、1日とてそなた達のことを忘れたことは…」
「余九麿っ!気を確かに持てっ!兄じゃっ、わかるか?昭武じゃっ!」
「…余…八麿…どの…?」
肩を激しく揺さぶられた喜徳の目の焦点が定まった。と、同時に喜徳はベットの上に跳ね起きる。目を見開きながら肩で激しく息をつくその様子は明らかに尋常ではなかった。
「ー如何いたした、余九麿?」
昭武は平静さを装ってベットの端に腰をおろした。
「申し訳ありませぬ、余八麿殿…こんな愚弟にここまでお目をかけていただいているというのにこの喜徳は何一つとして満足にお答えできませぬ…」
「そのようなことー何を気にすることがあるのじゃ?我らは兄弟だぞ。兄が弟を慈しむのに何の見返りを要求しなくてはならぬのか?余九麿は疲れておるのだ…長い間、他人の中で大変な苦労を重ねてきたのだからの。これからは、焦らずにゆっくりと疲れを取るがいい」
「…やはりー来るべきではありませんでした…異国におれば戊辰の戦で死んでいった者達に対する責任の重圧から少しでも逃れられるのではないかとーそんな卑怯な想いが私の心の中にあったのです。私が異国でのうのうと暮らしてる間に、会津の者達は再び戦おうとしているのにー私はまだ彼らに何ひとつ償っていない……」
大粒の涙を流して頭を抱え込む喜徳を見て昭武は、弟の心の傷がいかに深いものだったのかを初めて悟ったのだった。
「許せっ、余九麿ーそなたにそのような辛い思いをさせたは皆、この昭武が原因じゃ。そなたを会津に行かせるのではなかった…頼むから1人で悩むな。大政奉還も会津戦争も仕方のないことだったのだー」
「……」
喜徳を脅かす悩みからまるで彼を守ろうとするかのように、昭武は力強くうずくまる弟を抱きしめた。




