次の「ひょうてき」
生暖かい感触が、相手の皮膚を通じてリュウの手に伝わった。
ざわつく心を押さえつけるように心を虚無に持っていく。これは彼の「戦闘方法」のひとつだ。
この日の標的は、リュウを只の子供と侮り警戒心を緩めた。
それが男の最後――優し気な顔立ちのその男がしゃがみ込んだ瞬間。リュウは隠し持っていたナイフで相手の首元にナイフを突き立てる。
刃が皮膚を切り裂き、赤い液体が飛び散る。相手の皮膚に触れた指から感じる生暖かい感触――それらを目の当たりにしながらも、リュウは心を閉ざしていた。
――嫌だ。
――嫌だ。
……
目を閉じて軽く深呼吸をすると頭に響く叫びは消え去り、感覚はすべて遮断された。まるで人形のように、彼の心は無機質な「最適化された世界」――静寂に包まれる。
だが、その静寂を破る声が再び脳内に響く。
――嫌だ。
「おかしい。いつもなら消えるのに」
再び目を閉じ、息を吸い、吐く。何度か繰り返しても声が消えない。どういう事かと立ち尽くすリュウに女の子が声をかけた。
「帰るわよ、リュウ」
無慈悲に横たわる男の体を見つめながら少しだけ首を傾げ、リュウは仲間と共に迎えの車に乗り込んだ。
任務がない日は訓練だった。
まず命じられるのはランニング。ペースを守らなければ打たれるから、子供達は必死に訓練に励んだ。一番遅い者には食事を与えられないという厳しい規律の中、全員が必死で走った。
疲弊した体に追い打ちをかけるような筋力トレーニング。大人達の冷たい視線が見守る中、動きを止める事無くトレーニングに励む子供達。もし動きを止めようものなら、別室での「お仕置き」が待っている。だから皆必死だった。
昼食後は組手の時間だ。その日のリュウの相手は同期の少女、カレン。彼女の相手に選ばれたリュウに、皆の同情の視線が寄せられる。
――組手に負ければ夕食は与えられない。子供達の中で1番の実力を持つカレンの相手に選ばれるという事は、それが確定したも同然だからだ。
案の定敗北したリュウは、夕焼けに染まる空を眺めながら息を切らしていた。お腹が鳴るが、今夜の食事は抜きだ。しかし――
「芹沢様がお呼びだ」
見張りの男に連れられて向かったのは、影縫いの統括芹沢ユウジの応接間だ。「絶対統制者」と呼ばれる彼は冷酷無慈悲。これまでに何人もの人間の地位や尊厳を奪い叩き落としてきた男だ。
そんな無言の威圧感を放つ彼の姿を目にすれば、軽く体が震える。リュウもまともに目を合わせたことはなかった。しかし、その日の彼の表情はいつになく穏やかだった。
「リュウ、君はよく働いてくれていますね。特別に休暇を与えましょう」
それは「一か月ぶりの「自由」の時間。目の前には自分が口にしたことのない豪華な夕食が並び、空腹を刺激した。
「芹沢様がお前の為に特別に用意した食事だ。謹んで頂きなさい」
なぜ急に? 今までの待遇からは想像もできない程の高待遇を不審に思うリュウ。そして、芹沢の次の言葉が悪い予想を的中させた。
「ところで、次の標的ですが……」
意味深な笑みを浮かべながら、見張りをしていた男に目配せをする芹沢ユウジ。一枚の紙が渡され、そこに書かれた名前を見た瞬間リュウは言葉を失い体を震わせた。
「え……」
――どうして?
喉元まで出かかった言葉を飲み込みながら、リュウはただ紙を眺めていた。
「やれますね? リュウ」
何故彼を選んだ? どうして自分が殺さなければいけないんだ? 芹沢ユウジの顔を見ると、いつもの薄ら笑いを浮かべている。
名前を口にすることすらできない。ただ、その文字が脳裏に焼き付いて離れない。その紙にはこう書かれていた。
春田大学附属病院 跡取り第一候補 春田シンジ
一言も喋らず、リュウは芹沢に出された食事を口にした。
まるで味がわからなかったが、芹沢の機嫌を損ねないように必死に胃の中に押し込んでいく。
部屋に戻った彼は酷く疲れ、眠りについた
夢であってほしいと思った。
しかし、朝起きてベッドの横に置かれていた紙を見て、夢ではなかったと実感する。
そしてふと、先日の「しごと」の後の事を思い出した。いつも通り任務を終えたのに、頭の中の声が消えなかった時の事を。
「そうか、あの人が……シンジさんに似てたからなんだ」
殺せるのか? ……僕が、シンジさんを。ユメが大好きなお兄さんを。
――嫌だ。
――嫌だ。
「嫌だ……嫌だ……嫌だ……」
何度呟いても、指令は変わることはない。
逃げることはできない。逃げれば、大切なユメが殺されてしまうからだ。
――「しごと」の日まで、あと6日