……とても、おめでたくない事態だわ。
「14週間ですね」
自宅のアパート近くの産婦人科。その病室の一角で、山本イチカは重いため息と共に項垂れた。
にこにこと胎内写真を差し出す看護婦。
そして、「おめでたい」と柔らかな笑顔を浮かべる田舎の病院の医者。
「……とても、おめでたくない事態だわ」
それは、2日前の事。
春田大学附属病院の、その日の朝は忙しなかった。病院食を提供するスタッフが、流行病で相次いで休むという異例の事態が発生していたのだ。そんな緊急事態、新米看護婦だったイチカが臨時のスタッフに派遣されることは、自然な流れだった。
「山本さん、これ運んでくれる?」
手渡されたのは、羽瀬田ユメの昼食。イチカは頷き、それを手に取り歩き始めたが、数歩歩いたところで足を止めた。
「…?」
「山本さん!!??」
突然の吐き気に襲われ、廊下には食器が転がる音が響き渡った。ひどい眩暈に襲われたイチカはその場で蹲った。
(…まさか、妊娠とはね)
胎内写真で確認した、自身の中に芽生えた新たな命。正直、まだ実感はわかなかった。
父親は、はっきりしていた。飲み会の帰りに、たまたま気分が盛り上がって…イチカは、彼と一夜限りの関係を持った。
その、彼とは…
「おつかれさま。いつものブラックコーヒーをどうぞ」
タイミングがいいのか悪いのか。いつも通りブラックコーヒーを差し出す春田シンジの顔を見て、イチカは一瞬だけ彼を恨めしく思った。そして、自身のお腹に手を当て、少しだけため息をつくと首を振った。
「ごめん、今日はいいわ」
「おや、めずらしいね」
イチカの断りを大して気にする様子もなく、手にしたブラックコーヒーの栓をあけると、シンジはそれを一気に飲み干した。
「あ!そうそう」
シンジは思い出したかのように、反対の手で持った、たくさんのシロツメクサをイチカの前に差し出した。
「なによ、これ」
「ブーケ、だってさ。ユメちゃんからイチカに」
「どうして?」
「さあ、どうしてだろうね?僕は頼まれただけだから」
「……」
「イチカさん、おめでたなんでしょ?」
204号室の病室に、イチカが大きく咳き込む声が響き、入院患者の視線は一斉に彼女に注がれた。
ユメの瞳はきらきらと輝き、イチカは周囲から注がれる視線に冷汗を流しつつ、無垢な少女の笑顔を壊さないよう、「せいいっぱい」の笑顔を浮かべた。
「そうね、おめでたい…わねえ。私の誕生日、いつ知ったのかしら?」
こめかみを若干ひきつらせながら、ひくりとした笑顔で問いただすと、いけない事を言ってしまったと把握したユメは少しだけ冷汗を流し、ゆっくりと頷いた。
病院の中庭は、ユメのお気に入りの場所だった。
緑豊かな木々に囲まれ、地面にはシロツメクサが一面に咲いており、その中で患者たちが各々の時間をゆったりと過ごしている。
その一角に腰を下ろしたイチカが真っすぐ視線を向けると、映るのは病院の中庭でシロツメクサの冠を作りながら、嬉しそうに鼻歌を歌うユメの姿。
(どうして妊娠の事を知っていたのかしら?)
ユメは、時折人を驚かせるほどの洞察力を見せる。
誰にも言っていないのに、どうして知っているのだろう? もしかして、もう病院中の噂になっているのだろうか?そう考えた瞬間、急に背筋が凍り付く感覚を覚えた。
やがて、イチカのもとに駆け寄ってきたユメの手にはシロツメクサの冠が握られている。
「上手にできたわね」
「お嫁さんのかんむりみたいでしょ」
お嫁さん。その言葉にイチカは軽く苦笑いを浮かべた。
「そ、そうね」
「……」
イチカの手には、先程シンジから届けられたシロツメクサのブーケが握られている。それを握る手に少し力を込めるのに気づいたのか、ユメは不思議そうにイチカを見上げた。
「赤ちゃん、嬉しくないの?」
少し寂しそうな声が、イチカの心に響いた。心の底から、新しい命を祝福してくれるユメ。ふう、と息を吐くとイチカは少しだけ微笑んだ。
「ユメちゃん、どうしてそれを知ってるの?」
「精霊さんが、教えてくれたの」
(精霊?)
「その”精霊さん”は、どこにいるの?」
「うーんと」
ユメはあたりを見回した。
「今日はいないみたい」
空を眺めながら瞳を輝かせたり、何かを掴もうと走って行ったり。ユメは時々不思議な事をつぶやく子でもあった。妖精や精霊という存在が、本当にあるのだろうか?彼女の瞳は、嘘を言っているようには見えない。
「病院の人は、赤ちゃんの事を知ってるのかしら?」
問いかけにユメが首を振るのを見て、イチカは少しほっとした。
「赤ちゃんが出来て、嬉しいわよ。でもね…」
そう、言いながら自身の背後に立つ春田大学病院を見た。
ここはこの国でも有数の有名大学であり、世界中の科学が集まる場所。そして、春田シンジは、ここの跡取り第一候補。
対するイチカは田舎で育った、あまりにも普通過ぎる田舎娘。大して勉強ができるわけでもないし、特別な教養を受けたわけでもない。
「誰にも言わないって約束してくれる?」
「シンジさんにも?」
「少しだけ、難しいのよ」
そう言って、微笑むと、優しくユメの頭を撫でた。
思い返すのは大学時代。
イチカとシンジが意気投合したのは、共通の趣味・ホラー映画の話題で盛り上がったのがきっかけだ。それから、シンジは頻繁にイチカに話しかけ、映画の話で盛り上がり、共通の趣味である映画を一緒に見に行くこともあった。
しかし、それは友人としての付き合いであり、男女としてではない。と、イチカは認識していた。
そして、大学時代と変わらず、就職してからも、シンジのさりげない気遣いは心地よく、時に安らぎを感じる事もあった。
―― 子供が出来たなんて知れたら、今の彼との関係が壊れるかもしれない。
考え込んでいると、頭にふわりと何かが被せられる感触がした。
優しい草の香りがイチカの鼻をつき、自身の頭にシロツメクサの冠が被せられている事に気付いた。
「ここにいるんだね、赤ちゃん」
ゆめはお腹に触れ、耳を当てて穏やかな微笑を浮かべた。その表情につられて、イチカの心も少しだけ和んでいく。
「男の子かな? 女の子かな?」
瞳を閉じながら、赤ちゃんの鼓動に耳を傾けるユメ。
「まだ何も聞こえないわよ」
「聞こえるもん」
お腹に耳を当てたまま、じっとしているユメを見て苦笑するイチカ。そして、空を見上げながら、小さくため息をついた。
「シングルマザーっていうのも、悪くないかもしれないわね」
「しんぐる?」
つぶやきに、ユメは不思議そうに首をかしげた。
「女の人が、1人で赤ちゃんを育てる事よ」
ユメの大きな瞳は、何かを言いたげに揺らいだが、それを飲み込むように少しだけ俯いて、そしていつもの笑顔を浮かべた。
「じゃあ、ユメがこの子のお姉ちゃんになってあげるね」
「ふふ、ありがとう」
少女の無垢な心はイチカの胸に響き、自身のお腹に手を当て、そして彼女は穏やかに瞳を閉じた。
*
子供達の息遣いが響く、簡素な草原。
訓練が終わり、へたり込む子供達。その中の1人である羽瀬田リュウが、自身の汗を拭っていると、黒服の男が彼に話しかけた。
「芹沢様がお呼びだ。次の”標的”が決まったそうだ」
仕事の要件を伝える為だけに、”芹沢ユウジ”に呼び出される事は、珍しかった。疑問は感じたが、口答えは許されない。リュウは息を整えると、頷いて、男の後をついていった。
――「しごと」の日まで、あと一週間。




