ありがとう、ユメ
オムライスを食べ終え、お腹いっぱいになったユメがすやすやと眠る横で、リュウは妹の頭を撫で、微笑んだ。
食器を片付けようとしたリュウを制して、イチカとシンジは調理場に向かった。それは決して多くはない、羽瀬田兄妹の面会の時間を大切にしてあげようという、2人の心遣いであった。
後片付けを終え、病室に戻ると、リュウもユメのベッドに上半身を預け、静かに寝息を立てていた。
(本当に天使みたいね)
2人の寝顔を見つめながら、イチカは小さなため息を漏らした。
ユメの病状をリュウに話すべきだろうか。リュウに、普段何をしているか問いただすべきだろうか。
体が微かに震え、静かに眠る2人を見つめていると、シンジがイチカの肩を叩いた。彼は微笑み、リュウを抱きかかえると、隣の空きベッドに優しく寝かせ、そして布団をかけてやる。
「最後の瞬間まで、見守ってあげたらいいんじゃないかな」
シンジの言葉にイチカは胸が熱くなるのを感じた。そして頷くと、眠るリュウの横に立ち、その短い黒髪を撫で、微笑んだ。
早朝
リュウは自分が病院のベッドで眠っている事に気付き、枕元に添えられた手紙をぼんやりと眺めた。
”ゆっくり休みなさい イチカ”
可愛らしい猫の模様のメッセージカード。
(そうか、昨日ここで寝ちゃったのか)
起き上がり、布団を綺麗に畳んでいると、病室の入り口に気配を感じた。
「リュウ、今日は少し早めに出る事になった」
病室の前に立った黒服の男は冷たい視線をリュウに送った。
その言葉にため息をつくと、リュウはユメの頭をそっと撫でた。
「お兄ちゃん…」
リュウの手が驚き、一瞬揺れた。そっと触れたつもりが、起こしてしまったようだった。
目を覚まし、目の前に兄の顔が映り笑顔になるユメ。しかし、その表情はすぐに曇った。リュウの横に、見た事のない男が立っていたのだ。
「その人、誰?」
声が小さくなるユメ。リュウは自身の体が反射的に震えるのを必死に抑えつつ、妹の頭を撫でた。
「心配ないよ」
黒服の男は、まるで無機質な機械のように感じられ、その視線にユメは一瞬体を震わせた。そしてリュウの精いっぱいの微笑は固く凍り付いているように、ユメには映った。
「お兄ちゃん、顔色が悪いよ。まだ、傷傷む?」
「大丈夫だよ。出かける前にユメの好きな絵本を読もうか」
絞り出すような声に、兄が何かを恐れている事を察したユメは、少し目を閉じた後、笑顔を浮かべた。それを見てほっとしたリュウはベッドに腰かけ、ユメが大好きな妖精の物語の絵本を手に取り読み始める。
その様子を黒服の男は、ただ静かに見つめていた。
(ユメはお兄ちゃんが心配…)
ユメは、そう言いたかったが言う事が出来なかった。
自分が病院で世話になっている事。兄が仕事をしている事はそれに関係している事を、ユメは薄々気が付いていた。だから、言えなかったのだ。看護婦のイチカにそれを打ち明けた時、彼女はこう言った。
「ユメちゃんの為にリュウ君が頑張っているなら、応援してあげる事よ。そして、帰ってきたときに笑顔でおかえりなさいって言ってあげるの」
ユメはイチカのその言葉を聞いた時に思った。
お兄ちゃんは自分の為に頑張っている。でも、自分は体が弱くて、ここで待っている事しかできない。
だから、自分はいつも言ってあげるんだ
「ユメ、ここにいるね。お兄ちゃんが来るの、いつも待ってる」
自分のいるところが、兄の…リュウの帰ってくる場所だと。そう伝えると、リュウの強張った表情が少し緩み、そして微笑を浮かべた。
ユメも笑顔を向ける。大好きな兄が自分の為にしている事がいつか終わる事。そして無事に帰ってきてくれる事を、強く願った。
病院を後にしながら、男は囁く。
「リュウ、君は強い。何も心配する事はないよ」
自身の心の中で響く声が、再び響く。
いつもは心が圧迫されるような苦しさを感じていたけど、その辛さはいつもより少ない。リュウはそう思った。
ありがとう、ユメ
素直に心の中で妹に語り掛ける。
黒いリムジンが2人の前に停まった。そして中から響く、男の声。告げられた言葉に自分の役割を理解すると、リュウは車に乗り込んだ。
軽く目を閉じたリュウは、深呼吸をした。
そしてゆっくりと瞳を開く。
彼の瞳は暗く深い闇を宿し、その表情は、まるで機械のように無機質なものに豹変した。
それを合図に、リュウの思考は一切の刺激を遮断していく。
それは、任務に向けて作られた、彼のもう一つの顔であった。