アイリス・ヘルデ
ウィリアム・リルコットが国で一番不幸な男なら、私、アイリス・ヘルデは国で一番幸運な女と言えよう。
我がヘルデ家は二代前までは子爵位にあった。
曾お祖父さまの代でヘルデ家が所有していた商会がひと山を当て、たんまりと入ってきたお金を、お祖父さまは文化の維持や、被災した領地への復興のための寄付に宛てたのだ。
この功績により、ヘルデ子爵はから伯爵へと陞爵した。
そして数年前、度重なる不運により立ち行かなくなったリルコット家を父が援助したことにより、我がヘルデ家はアルディーヌという領地を賜り、ヘルデ伯爵からアルディーヌ伯爵家へとしたのだ。
しがない子爵から、領地を持つ伯爵へ。しかも婚約者は傾国の美男子。私が国中の令嬢から羨まれる幸福な女であることは間違いないだろう。
一部の貴族からは、爵位を金で買っただの、美しい婚約者を金で得ただの、成金令嬢だのと言われているが、気にしない。
だって、この不運すぎる美男子の隣で生きていられる頑丈な令嬢は、私だけだろうから。
「きゃーっ! 誰か、馬車が!」
橋の下へと投げ出される馬車の中。私は、ウィリアムさまと離れぬよう、細身ながらもたくましい腕をしかと掴む。
馬車は、橋の下を流れる河へと落ちた。
週末は、学園が休みになる。久しぶりにデートでもしようかと、王都郊外の植物園に向かっている途中、馬車の車輪が外れて傾いたようだった。
出発する前に、金具が錆びていないか、緩んでいないかとあんなに確認をしたのに、なぜ。
……そういえば、途中に寄ったカフェから馬車にもどったとき、右後ろの車輪まわりにカラスが集まっていたような。
「ウィリアムさま、お怪我はありませんか!」
「はい、大丈夫です」
ウィリアムさまは、素早く自分の状態を確認して頷く。さすがにこういう事態に慣れていて、顔を強ばらせてはいるものの、とても冷静だった。
私は横倒しになって浮かぶ馬車の窓から顔を出し、御者台を確認する。
「フローレン、無事!?」
「はっ、はい……っ!」
青ざめながらも頷くフローレンにひとまず安心しつつ、馬の状態も確認する。もがいてはいるが、怪我をしている様子はない。
次いで河の様子を見た。流れが強い。泳いで岸までいくのは厳しいだろう。
馬車の中へ戻ると、自分が座っていた座面を持ち上げた。がらがらと雪崩る荷物の中から、纏めた縄と矢を取りだした。狩猟を楽しむ兄さまの、置き勉ならぬ置き道具だ。
縄を矢尻にしっかりと結び、折りたたみナイフを手に、窓の外に手を置き、体を持ち上げるようにして這い出ると、馬車の横面に中腰で立った。
落ちないように御者台へ移動し、ブレーキバーの根元を思い切りへし折る。それから馬を繋ぐ手綱をナイフで切り落とし、ブレーキバーの両端に結んで即席の弓を作った。
こんなこともあろうかと、ブレーキバーと手綱を、粘性のある金属と弾力性のある綱鯨の髭に変えておいてよかった。
馬のはみに、矢尻と繋いだ縄の端を結ぶ。
「ウィリアムさま、フローレン、よく聞いてください」
馬車の窓から顔を出すウィリアムさまと、御者台にしがみつくフローレンに告げた。
「今からこの矢を河岸の岩か、木に刺します。そうしたら、この縄を伝って岸へと渡ってください」
「わかった」
「わ、わかりました……!」
ウィリアムさまが窓から出るのを手助けする。
万が一を考えて、ウィリアムさまと私の胴を矢につけたのとは別の縄で繋いだ。
河岸を振り返り、一番大きくて重そうな岩を指す。
「ウィリアムさま、この矢があの岩に届く距離に来るまで、どれほどかかるか分かりますか」
縄の長さを伝えると、ウィリアムさまは素早く水面を見たあと、腕時計を確認して答える。
「三十秒だ」
「わかりました」
私は弓を構え、ゆっくりと息を吐きながら引いた。
……7、8、9……数えながら、狙いを定め、神経を研ぎ澄ませる。……19、20……耳の奥で、やけに鼓動が響く。失敗したら、どうしよう。……25……26……27……いや、大丈夫。私ならできる。だって私、運がいいもの。きっとやれるわ! ……30………………
今よ!
狙った位置に岩がくる寸前に、矢を放つ。飛んだ矢は、大きな岩の隙間に深く突き刺さった。縄に引っ張られ、弧を書くように河を流れた馬車は、やがて止まる。
私は縄を引いて深く刺さっていることを確認し、ウィリアムさまたちを振り返った。
「ウィリアムさま、先に行って!」
「わかった」
ウィリアムさまは頷くと、縄を伝って迷うことなく河の中へ入っていく。
「フローレン、セレンのハーネスを切ったらついてきて!」
振り返ってナイフを押し付けると、フローレンは固い表情で頷いた。
春の河は、冷たい。河の強い流れに、うっかり押されてしまいそうになる。濡れてかじかんだ手が、縄からすべって離れてしまいそうになる。それでもなんとか握り締め、手繰り寄せて、前へと進む。視界の端に、切り離された馬車が流れていくのが見えた。
河岸に着くまで、随分とかかった気がする。水から上がった瞬間、どっと疲れが押し寄せた。しかし、まだ倒れるわけにはいかない。
「お坊っちゃんたち、大丈夫かい!?」
河岸にはわらわらと人が集まっていた。フローレンから返されたナイフで、ウィリアムさまの胴と繋いでいた縄を切りながら声を上げる。
「誰か、馬を引き上げるのを手伝ってください!」
すると、人々はぎょっと目を見開いた。
「おいおい、馬を引き上げろだって?」
「そんなの諦めろよ。お貴族さまなんだから、馬くらいいくらでも買えるだろ」
口々に言う彼らを無視して、私は縄を掴む。
諦めなんかしない。ウィリアムさまの不運にどんな命も巻き込まない。もし命が失われるようなことになったら、それが馬であろうが牛であろうが、悲しまれる。
ウィリアムさまが、自分の運命を悲観してしまうような、そんな目には、絶対に合わせない!
腰を低く落として縄を引こうとすると、前に立った婚約者が縄を掴んだ。均整の取れた背中が、私の視線を受けて振り返る。美しい婚約者のサファイアのごとく煌めく瞳と目が合った。
彼はふっと微笑む。それは悲観ではなく、どこか面白がっているような笑みだった。
言葉を交わさずとも、心が通じたようだった。私たちは頷き合い、河の方を見る。可哀想に、馬のセレンが精一杯もがいていた。
絶対に助けるから、もう少し頑張って!
「手伝います!」
私の後ろに立ったフローレンも、垂れた縄を掴む。
「行きますよ、せぇーのっ!」




