5ー6・青色のロボット理論(感情戦争2)
[西暦3059年の月の第五ドームで、夏の日のことだった。祖父の死をきっかけに、古い家の掃除をしていた途中。わたしはその月らしくない木製の質素な家の中で、埃まみれで、この心に抱えた悲しみのことを考えていた。他には未来のことも考えていた、少し先の未来でなくずっと遠い未来のこと。わたしはすぐに不安も感じた。わたしたちが、人類という種が、まだ太陽系の生物でしかないことに。そして、太陽系から出ないで、太陽系の外に、遠くどこまでも伸ばせるような手足と言える探索機械たちだけを、外に送り出し続けていることに。わたしたちは、ずっとここにいるのかな?]
その研究成果を書いたどの論文よりも長く残ることになるエッセイ集の、2つめのエッセイの最初の文を書いた時、アミラ・チャニは月でなく地球にいた。真っ黒い髪に真っ黒いローブ、おとぎ話の魔女みたいな印象もある女性。
森の合間をぬうような田舎道を歩いていて、書いていた文章の続きも思い浮かばなくなったので、一旦、携帯コンピューターのバーチャルモニターを消した時、目の前に彼がいた。
「アミラ・チャニさん?」
知らない人だった。だが、多分地球のアジア系だろうと思う。
「そうですけど、何か、用ですか?」
「少し、話をしたいのですけど」
アミラ・チャニは、後の時代には、「青色のロボット理論」と呼ばれる、理論というよりむしろ思想の提唱者として知られることになる。それは、感情戦争と呼ばれた、何度かの戦いの一番初めから、戦う2つの勢力の片側が重要視し続けたものでもある。
「あなたの理論に興味があります。それと、多分」
人類世界に広がるどのネットワークとも違う。昔から地球に隠れ潜む謎の亡霊たちの秘密のネットワークテクノロジーが存在しているという噂は、ずいぶん前からあって、アミラも、不思議な伝説として何度か聞いたことがあった。しかしもちろん信じてはいなかった。実際に、その核らしい水晶を見せられるまでは。
「これは、ゴーストネットの始まりの石」
その手に握っていたが、すぐに離して、手のひらに浮いた、もっと巨大な塊から無理やり取ったみたいな、いびつな形の青白い水晶。そして、目の前の謎の彼の言葉の証明のためか、原因不明のルートからクラックされたようであった彼女の持っていたコンピュータ端末。勝手に表示されたモニター画面に表示されていたのは、彼女がまだ世間に公表していない論文の下書きデータと、彼に関するいくつかの秘密を含めた挨拶文のようなもの。
そして、その出会いから、正体を明かされるまでの、わずかの時間の間に、アミラが推測した、いくつかの彼の正体のどのパターンとも違っていた。
ルセン、彼は、太陽系の外で生まれた知的生物。
ーー
自分は地球生物であることも、ルセンが別の星系というより、別の宇宙の生物であることを、リョウケンは伝えなかった。
自分たちのことを口止めする必要もない。彼女が、真実として自分たちの情報を広めることなんてできないだろうから。
ただ、リョウケンが彼女と出会ったのは、彼女のデータを直接に得るため。今の太陽系世界の速い変化の中で、彼女は興味深いサンプルだった。
ルセンにはもう未来はわからない。これまでの1000年ほどの活動だけで、すでにこの別宇宙生物は、今のこの宇宙に影響を与えすぎてしまっている。でも精度の高い予想はまだできる。
アミラが不安に考えてることはきっと正しい。
人間は不思議な生物とルセンは言ったが、本当にそうなのか、リョウケンにはわからない。ただ、人間がこれからしばらく進むであろう道が、本当に予想通りであっても、彼も驚かないだろう。
「この宇宙の神様は」
リョウケンが、人間の世界でそのように言われる意味での有神論者だったことは一度もない。しかし彼は、この宇宙の背景に潜む特別な機械群のことを、神様と呼ぶのを好んでいた。
「それにも干渉しないと思う?」
秘密の水晶部屋では、ふたりは普通に会話ができる。
「地球生物がそれをやめるまでか、結局やめないで滅びてしまうまでの、わずかな時間では、その可能性は低い」
ルセンは姿は見せないが、声の発信源は少しずつ移動しているように、リョウケンには認識できる。
「もし人類が」
「人類じゃなくなるのは早いと思うよ。人類が始めた楽園計画の中枢スケールの狭さと、人間という知的生物の好奇心を合わせて考えると、知的生物開発の重要性は高い」
知的生物の開発というか、ある種の生物の知的生物への強制進化と言えるようなものだろう。そして楽園計画という表現は、リョウケンは多分、初めて聞いたが、確かに今の人類が始めようとしていることにぴったりの言葉。
「それほど好奇心が強くて、どうして太陽系だけで」
「各個体としての集合構造があまりに脆い。昔、ぼくの仲間たちは、いくつもの宇宙のどんな世界にだって、生物が生まれるという理論を提唱してた。そして実際に、多くの宇宙を旅して、そのことを実際に確かめた。本当に、どんな宇宙にだって生物がいたんだ。だけど、それは最初に生まれた知的生物、ぼくらはぼくらと定義してたけど、本当にそうなのかぼくには確信が持てない。けどとにかく、最初の知的生物の影響が、神々を、つまり神々というか、時空間を超える機械を介して、あらゆる宇宙に連鎖していった結果、宇宙にたくさんの生物がいる理論の中でも、そういうのが正しいこともわかってきた」
「それで、そうして生まれたたくさんの生物の中でも、ぼくらは脆い」
人間たちは、他の生物パターンを知らないから、もちろん遺伝子システムというのが、生物の普遍的な1つの特徴だとする説が一般的だった。しかし実際は違う。それはあくまでも、遺伝子生物と呼ばれるタイプに必須の要素であるというだけ。世代交代とか進化という概念すらも、宇宙のすべての生物では普遍的なものではない。
つまり人間、というか地球生物は遺伝子生物なのだが、このタイプの生物にとって消して避けられない、個々の構造の崩れの自然の速度が異常なレベルで早い。つまり地球生物は、宇宙の中でも、驚くべきほどの不安定な生物群。
「ここには別の影響があったから。背景の機械たちの調整度が高い。地球生物は結果、より機械的だ。ただ、それは生物系そのものの話で、部分部分は脆い部品のよう。それにもかかわらず、知的生物らしく、個体の重要性が強くなっている。そして知的生物のテクノロジーは弱い部分も補うもの。この太陽系は、きみたちのシェルターみたいなもので、しかもとても居心地がいい。きみたちは、部品が性にあうんだから」
「だから、彼女の理論が重要。なんとなく意味はわかった。本来は機械全体で動かなければ、他の宇宙の生物のようには動けないのが地球生物。そうでないと生物らしく動作しないのに、でも肝心のテクノロジーを開発するような知的生物の場合だと、個々の部品の意識が強すぎる。つまり感情が」
邪魔になってしまうことになるのだ。遠い未来まで生きるためには。
「1つ訂正しておくけど、生物らしくないわけじゃないよ。生物らしさが生物の定義だと言ってたのは、アルヘン生物じゃなくて、エルレード生物だ。それでエルレード生物の言うことは誰もが信じてる。一番賢い生物だから」
「人間は、すぐに滅ぶ可能性もあるだろ。脆い生物だし。もしそうなったら」
「ぼくが協力を求めたきみが人間である以上、人間という種族がどこかで途切れるということは、つまりこの宇宙でのぼくらの計画が失敗したということと同じだよ」
「この宇宙か。ここには《虚無を歩く者》というのが来たこともないんでしょ。そして、きみはこの宇宙の多くのことを、この宇宙に来てから学んだ。ここを本当に有効に使える?」
「その質問は、ぼくにするべきじゃないんだろうけどね。ぼくだって、ただのコマさ」
「それは、今でも信じられないよ。この地球での生物の進化も、ぼくときみの出会いだって、そうだと言われたら納得できる。だけど、この、亡霊のネットまで、本当に完全なぼくらのオリジナルの発明ではないの? この宇宙だけのものではないの? これも誰かの計画のうち?」
リョウケンには、今だにそのことがどうしても信じがたいのだ。
ゴーストネットは、ヒモ素粒子の機械の経路をバーチャルの開発場の一部に使ったものだ。それのための水晶生物は決して自然の進化で生まれなかったものだろう。そして水晶生物が存在しなければ、この宇宙で絶対にそんなものは機能しない。
リョウケンは心層空間のことはもう、よく学んでいた。宇宙のどんな知的生物にとっても、それは共通した心の原因。しかし、だからこそリョウケンは、それを利用するテクノロジーの発明を、この地球という惑星が誕生する以前から予測できるだなんて、どうしても信じられない。ゴーストネットは、水晶生物の心を利用するシステムなのだ。
「リリエンデラというのは、たとえこの宇宙では本当の神のようであるとしても、機械でもある。確かに、機械なんだ。そしてそのパターンはずっと前から、ぼくらの記録にはある。それをシミュレーションに含めることは不可能じゃない。十分な時空間量を使った贅沢なシミュレーションだ」
「この宇宙の知的生物である限り、いや、この宇宙で素粒子スケールで、その一定パターンの機械が影響を持ち続けている限り、どんな生物のパターンも心層空間の動作まで含めて予測が可能、てことだろ? でも、いったいどうやってなのか」
「その問いの答を見つけることができないのは、この宇宙が1つしかなくて、そして他の宇宙のことをシミュレーションできないからだと、賢い生物が言ってたことがあるね」
「それならエルレード生物は」
だが自分たちに与えられていると思われる使命とは関係のない、ただの互いの好奇心のためのその会話は、そこで終わる。
「結局、あなたたちは、なに生物なの?」
そういうリスクがないと確信していたわけではない。しかし可能性としては低いと思っていた。だから、与えてしまったわずかなヒントから、アミラが自分たちのその秘密の地下部屋を見つけたことに、リョウケンは驚きを隠せなかった。
「ルセン、どうしよう?」
「きみが決めた方がいいと思う。どうせいつか仲間を見つけないといけなかった。彼女は、冒険派の人間だろうから、仲間の選択としてはいい」
「ルセン? あなたは違うのね、あなたは人間?」
やはり勘はいい。だからこそ自分たちを見つけ出すこともできたのだろうが。
「ぼくはリョウケン、人間といえば、人間だけどね」
おそらくサイボーグと言った方が正しい。その構造は、本来の地球生物の人間とはもうかけ離れている。ずっと未来で、緑液系の人間が、赤い血液の人間と違うのと同じようなレベルでの違い。たった1000年足らずの間に。
「ねえ、ルセン」
あまり期待はしていなかったけど、2人だけで会話をすることを、アルヘン生物は許してくれた。
それは失敗だったろうか。それとも、それもはるか昔の誰かの計画の一部だったのか。
本当にそうなのか。
とにかく、アルヘン計画に最初に加担した初期の地球生物たちの、秘密の別計画が始まったのはこの時……
ーー
第一次ジオ暦|(西暦)4500年。
1500年前にそれに関する理論を提唱して、間もなく消息不明となった月の学者アミラが予言していた通り。冒険の時代は、もう来ないまま終わりそうだった。そんなふうに多くの者が考えるようになっていた。
太陽系の中にいて、太陽系外のエネルギーを機械に収集させ、効率よく利用する恒久的なシステムが実用化されてから1500年くらいがたった。人々は太陽系というちっぽけな楽園に満足し続けた。そして銀河系、銀河団、銀河フィラメントという資源は、ほとんど無限のように思えた。
知的生物は、宇宙のどこでも好奇心旺盛だ。地球生物もそうだ。すでに人間だけではなくなっていた。知的機械の他、サル、クジラ、イヌ、カラスに知的種がすでにいた。そこには確かに楽園があった。造られた小さな楽園だ。この広大すぎる本当の唯一の宇宙の中の、本当にわずかな部分。
リリエンデラ、この宇宙の神の機械はまだ地球生物に対して無関心だった。
この宇宙に他にも生物がいたろうか。実はそれはルセンたちにもわからない。彼らが今この宇宙で、地球外の情報収集に使える唯一のシステムであるゴーストネットは、太陽系の中でしか機能していなかったから。そしてそれは、人類世界の情報空間をカモフラージュとして使っているのだ(結果として、人類世界が太陽系の外に広がらない限り、同じく外に広がれない)。
神がまだ地球生物のことを放置しているなら、わざわざ自分たちからそれに何か影響を与える必要はないだろう。
実のところ、ルセンたちが最も恐れていた事態は、予想よりもずっと早く戦いの時が来ることだ(そもそもそんな時が来るかどうかもわかっていなかったのだが)。リリエンデラという機械群は、確かに一定のパターンを守っているが、決してこの宇宙のすべての時間において、その動作が計測されてきたわけではないのだ。つまり、一定のパターンがあることは間違いないのだが、それを例えば波形として見た時に、各波長の長さが、それまで考えられていたよりずっと長い可能性もある。ようするに、突然に、その機械がこの宇宙を滅ぼそうとする可能性も、とても低いが常にあった。そうなってしまった時に、もうアルヘン生物からすっかり離れてしまっているルセンにはどうしようもない。もちろん、ルセンの協力者となった地球生物のリョウケンたちにも。
ただ、太陽系世界は、知的世界として平坦ではなかった。アミラが撒いた種も育ち、太陽系世界の全てに広がっていた。
彼女の思想は、全て地球生物の未来のため。その未来のために、今、太陽系世界に生きている者たち全ての犠牲。そして、その自己犠牲精神を安定させるため、ほとんど全ての者たちから感情を奪うこと。
後から考えたら、それの起源はあちこちに想定できるだろう。だけど、その考えられる起源の中で一番古いのは、アミラだったのかもしれない。実際、ずっと後、あの「〈ジオ〉の恐ろしき生物たち」と呼ばれた、科学結社『ミュズル』は、長く彼女を神格化し続けた。