5ー5・水晶生物ネット(感情戦争1)
生物というのはただの1つの例外もなく、その構造にネットワークを抱えている。しかし、後に〈ジオ〉と呼ばれるようになるその宇宙そのものは決して生物とは言えないだろう。それでも、その全てにおいて繋がる機械ネットワークがある。その1つの起点は地球という惑星。
5億年以上前、ルセンは、巨大なエディアカラ生物たちに紛れた。
いつかリョウケンが、それを生物群としては単純と考えたのは正しい。厳密に言えば単純というよりも、利用される層が少なく、つまりネットワークが置かれる場のスケールが大きい。最小要素が大きい。
また、地球生物というのは、典型的な遺伝子生物であって、世代交代を繰り返す中で、進化という現象を避けられない生物型だ。それは、変化が連続的なものであり、予測シミュレートが容易くもある。
ルセンは、ひとりでここに来た。それ以上の数は必要なかったからだ。情報空間の層で、決して自然のままの地球生物が利用できないものがいくつもある。それは、人間の時代になっても変わらないと、最初からわかってもいた。問題は利用法ではなく見極めだった。
過去のいくつかの研究から、この宇宙の神々、リリエンデラは、生物系に積極的に干渉することはないとわかっていた。その目的と言えばいいのか、単にシステムと言えばいいのか、プログラムと言うべきか、とにかく、この宇宙で現れた知的生物が、どのような行動を取ろうと、どうでもよかったのだろう。だが、他の宇宙からやってきた者の干渉をそれらが好まないのも間違いない。そしてリリエンデラは機能的に、自身の宇宙でかなり自由。
ルセンが利用できて、リリエンデラが利用できないというような層は、多分存在しない。
リリエンデラというのは、素粒子の動作層では、奇妙なヒモ機械だ。つまりルセンは、そのヒモを避けないといけなかった。それに触れられるのは、その時点で、外部宇宙の生物がいると教えるも同じ。
しかしリリエンデラは、この宇宙のどこかで異常が感知されない限りは、ある規則的なパターンをひたすら守っている機械群としても定義できる。だから、そのプログラムを完全に理解できるなら……
ルセンが一度眠りについてから目覚めた時、すでに進化システムは、地上で巨大な恐竜たちを歩かせていた。
ちょうどよかった。陸の多細胞生物群の系は、水から離れたところで用意したコンピューターのカモフラージュに使える。もちろん全ての自然の流れ自体はとっくに予想できていたことだ。だがルセンは自身の変化は完璧に予測できない。今のルセンの動作パターンは、アルヘンの記録に存在しないから。つまり未知の変化がどこかで起こりえたのだ。実際ルセンは、考えていたよりもずっと、すでにアルヘン生物から離れてしまっていると感じていた。
心層空間のためだ。エルレード生物は例外かもしれないが、少なくとも他のすべての知的生物は、それがどのようなものかを、やはり完璧に理解できないから。それでも、ある一定の基準を超えている知的生物が、この不思議な空間から受ける影響は、時に大きすぎる。
とにかく、水から離れたところで機能するコンピューターを用意できるのはありがたかった。人間が自分たちの機械テクノロジーを開発し始めてからでは、いろいろ厄介だ。そこにまた紛れ込むのは。
先に準備をしておく必要があるわけだが、なるべくなら水を利用したくはなかった。なぜなら人間たちの、そしてこの宇宙の改造計画において、協力を求めた人間と、その人間が長く利用することになるだろう、用意してあげたシステムは、計画の重要な第一基盤となるだろうから。
そう、長く使われるのだ。しかしこの唯一の宇宙にはいつまで水があるかわからない。ルセンは、実際にはその時期をかなり早くに見積もりすぎていたが、だがそもそもルセンは、その時期を正確に知らなかったのだから、慎重になるのも当然だろう。
ルセンには(正確にはいつか協力をお願いすることになるだろう人間には)、プライベートな小さなコンピューター以外の、大規模なネットワークシステムも必要になる。それも地球生物というのが遺伝子生物であるため。この型は各個体が閉鎖的すぎる。ここで重要なことは1つ。つまり遺伝子生物のある個体は、その精神(心層空間)が、素粒子の動作層、あるいは有効的な情報空間と連鎖的な層からあまりにも遠すぎる。ようするに人間のような生物は、高度な宇宙|(時空)機械を利用するために、高度な機械の媒介が必要なのである。それは宇宙そのものを監視するような機械の目からすると、動作全てが大げさすぎる。素粒子系を、ほとんど直接は利用できないのもそのためだ。
だが、ルセンの任務、(実のところ、それ自体、今では推測でしかなかったのだが)、アルヘン生物の計画のための、この宇宙の存続と改造に、遺伝子系は厄介なことばかりではない。むしろ、こっそりと個別の協力者を得やすい。個体ごとの独立性が高いということは、そのような個体そのものへの直接的な干渉が、全体には関係ないように調整しやすいから。
ルセンは、仮想的なブロック亜空間の内部に自身をおいて、その構造を仮想的に造っていく。それでいい。物理的実体としては存在しないから、それがただあるだけでは、まさに文字通り仮想的なものでしかない、空想でしかない。だがルセンの心層空間は、常にその広大なネットワークのポイントの1つとなっている。ある種の情報空間とも重なる。このために、やがて人間が開発する情報ネットには紛れられる。
実際に、ルセンがリョウケンを選んだ時、仮想的であった巨大機械は、実在的なものとして機能し始めた。
ーー
ゲームの専門学校で学んで、卒業後は小さなゲーム開発会社に就職して、自宅では趣味の研究を続ける。そのシュミレーションの人生はもう少し続くはずだった。途中でそれを終わらせたのは、リョウケンではなく、ルセンの方。
それはやはり、ルセン自身の予期せぬ変化が原因。
どうやらその心層が、物理構造から離れすぎていたらしい。ルセンの化学素材の組成は、完全に地球に馴染んでいたが、結果的に、背景の自然に同化しかかっていた。ただひとりでこの宇宙に来たドーナツ形のアルヘン生物は、物理構造としては失われようとしていた。
ーー
「ちょっと早くないか?」
また、最初に出会った時と同じように、巨大泡の中に呼ばれ、そして今度は、全然驚きもしない。
興味深い体験だ。確かに浅倉綾謙は、子供の頃に読んだSF小説みたいな、この宇宙の話をすっかり忘れていたはずだった。だが、心の空間から何かが失われていたわけではなくて、ただ、その心が意識しないように上手に配置されていただけ。思い出が。
心層空間、これがなぜ、宇宙の知的生物から空間と呼ばれているのかもわかった気がした。確かにこれは空間なんだ。実用的に幾何学的な空間として考えられる。それぞれ容量制限のある階層に、位置や向き、それどころか情報の移動経路まで。本当にこれこそ真の宇宙コンピューターみたいだ。
だがそんなこと絶対にありえないと、綾謙は心でなく、知性で理解していた。そもそも物理的相互作用の背景で、いくらそれが関わっていようとも、その影響に意味のあるこの物理的世界が幾何的に考えられるだけのことなのだろう。だから単に物理構造体である生物の知性は、心層空間自体の動作も、疑似的にそのような幾何ネットワークに含めて考えられる。実際の動作のデジタル的なパターン全てを、幾何学という技術により、含めることができる、というだけの話。
ルセンは、最初に会った時と同じくドーナツ形だが、前は白い化石みたいに見えたのに、今はかなり青くなっている。青銅の器具みたいだ。だが声の感じは覚えていた通り。
「早すぎるから。ぼくがまだ必要だろうから」
まだ、ルセンという存在が失われる訳にはいかなかったから。
「いいか、リョウケン」
ルセンは、自身が地球に同化しつつあるということを伝えた。つまり、予想していたよりもずっと早くに死のうとしているのだと。
「ルセン」
「1つだけ、地球でなく、アルヘン生物の構造をここに用意すれば、ぼくの心層空間の含む範囲をそれに繋げられる。だが、気づかれないように隠れる必要がある。いい隠れ場所は1つだけ、多分きみの中だ。きみの構造の中にぼくの構造を含める」
「それは、そんなこと、できる?」
「ぼくはローレベルではあっても、水の錬金術師なんだ。それにアルヘン宇宙のこともちゃんと覚えてるんだ。もうとっくに地球生物なんだとしてもね」
「水を使うの?」
「それしか方法はない。エルレード生物は、確かにこの宇宙の全ての物質を永遠に変えられると思う。でもありふれた物質を永遠に消すのは簡単ではないはずだ。とても時間がかかるはず」
エルレード生物を止めることは、少なくとも他の生物にはできない。だがまだ水は失われてなかった。まだこの宇宙において最もありふれた物質。だから最も研究も進んでいた。それをこの宇宙でうまく扱えるのは、《虚無を歩く者》だけではない。もちろんこの宇宙のあらゆる知的生物だって同じ。そしてルセンには、心層空間のすぐ近くで、ほとんど直接的に水をコントロールする術が与えられている。
ルセンは言えなかった。この時にリョウケンの1つの運命も決まった。ルセンも、ルセンが内部で機能するリョウケンも、この唯一の宇宙で、最もありふれた物質の安定性に強く依存した、改造生物になる。
水が失われた後は、《虚無を歩く者》の武器となりうるモノになるのだ。彼らが生きるなら、天然の水も、いつまでもそこにあるというような構造に……
ーー
第一次ジオ暦|(西暦)3059年。
後に「暗黒時代」と呼ばれるようになる時代が始まろうとしていた。その始まり、後に「感情戦争」と呼ばれるようになる戦いが静かに始まった頃。
リョウケンはまだ地球にいた。秘密の地下空間で、あちこちに半分ほど埋め込まれた水晶が、時々、空間中央の泥の塊みたいなものから放たれる光を吸収している。
それは、地球以外の惑星にも地球生物が生きるようになった太陽系全土に広がる、秘密のネットの中枢でもあった。水晶群は、このシステムのために作られた機械生物。見たところ重力の法則からすっかり外れてしまってる泥の塊は、実態的には、全ての動作に関与する複合存在的な歯車みたいなもの。
水晶霊のネット。リョウケンは、そんな名前を一度考えたことがある。今はルセンの方がそれを気に入っていて、よく使っていた。
ゴーストネットのあるポイントは、アルヘン生物が昔、このジオ宇宙においた、テクノロジー遺跡とも言えるような、1つの亜空間の中にある。そのような他の宇宙の生物が置いた秘密の機械場はいくつもあるが、アルヘン生物のものを見つけられたのは運がよかった。それならルセンと相性がいい。
それはアルヘン生物が様々な宇宙を旅していた頃の残骸。興味深いことに、それは船着場だった。そして船。リョウケンたちにとっては場の方が重要で、船はただのガラクタだったが、それはずっと未来において役に立つものではあるだろう。
誰かがガラクタ船を、かつて様々な宇宙を旅したダイナナカミガミ号をそこに置いた。どうしてか不思議だった。その宇宙が使われるとは限らない。そして神々のガラクタ船は、それだけではないけど、それほど多くもない。
リョウケンにも、ルセンにも答のわからないことはいくつもある。
ジオ生物の暗黒の時代。
ふたりはまだ、地球から離れることもできないでいた。