5ー3・ブロック亜空間(エディアカラ生物2)
最大の危機はおそらく、水殻コンピューターが壊れた時だった。
そもそも壊れるだなんて、その時まで考えてもなかった。だがそういうこともあると、最初はしっかりわかっていたはずだ。もしこのために、〈ジオ〉における計画がダメになっていたら、恐ろしいことだった。仮に地獄とか、そういうものがあるなら、自分が落ちるべきものだと考えたろう。
しかしそういうわけだから、結果的に考えると、破壊者が"彼"だったのは幸いだったかもしれない。
つまり、地球の生物に関しては、ルセンは全てのデータを持っていた。予測できない変化もなかった。しかし、仮に、この宇宙が未来でどうなるとしても、その時は決して独立してる宇宙ではなかった。
神々の存在している宇宙なんて珍しい。単純に、《虚無を歩く者》とか、アルヘン生物の計画のこととか抜きに考えても、ここを訪れる知的生物がいることは何もおかしくなかったのだ。知的生物というのは、どこの世界だって好奇心旺盛だから。少なくともそういう奴らがたくさんいる(しかし、観察だけというのは、気楽なものだ)
地球暦41億年頃。
アトラは、ルセンと面識がなかった。それに錬金術の試作機械が残っていたなんて知らなかった。
だから、リリエンデラの宇宙の調査隊に参加していた彼が、自分の知らないところでの(それもそこで生きている生物のテクノロジーでは通常、絶対にありえないような)錬金術による水のコントロールを感知し、それが虚無と関係しているかもしれないと疑うのは、当然と言えば当然だった。
その時の彼はまだ、この宇宙の生物を裏切ってはいない(彼は後に裏切り、虚無の仲間となった)。自分の存在理由が戦いに勝利するためであることを信じる生物兵器だった。
〔どうしよう? ごめんなさい。どうしよう?〕
どんな形式の音波でも、周囲への影響が大きいから、亜空間通信で送られてきたそのメッセージから、彼が相当に焦っていることは、よくわかった。
アトラ。水殻コンピューターをいきなり破壊したのは、彼であるのだが、おそらく、ルセンがアルヘン生物であることにもすぐに気づいたのだろう。
ルセンはすぐに、返事をする。
〔水の錬金術は、そっちの方が専門だろ。その超能力の力で、リカバリーしてくれないか。無理? 無理ならすぐ言ってね。すぐ別の方法を考えるからさ。ただ、できるだけ無理って言わないでね〕
つまりは、そっちの方も、相当に焦っていたわけである。
そしてアトラからの返事は、ほとんど一瞬。
〔ごめん、無理〕
その後にさらに詳細
〔だいたい、ぼくの破壊は完璧すぎるから。だってしょうがないだろ。もし虚無が関わってるとしたら、ほんの少しの停止が、全てを台無しにしてしまってたかもしれないんだから。だから、ぼくは完璧に壊したんだ。その、水コンピューター。だから、再現は無理なんだ。もうこの宇宙にそんな記録残ってないから。適当に作りなおしてもいいけど、まあ計算するまでもないよね、多分相当に低い確率だよ。別のものが出来上がっちゃったら、それはまた、そっちの方がやばい。でしょ。つまり、ごめん、自分で何とかするしかないと思う。で、なんとかできる?〕
なんとかするしかないだろう。
不幸中の幸いか、全ては水のみに干渉する特殊な力によって行われ、そして(それはどっちかと言うと、ただの不幸なのだけど)まさに完全な破壊を行ってしまったのだから(つまり複雑性は失われたも同じだから)、単純に周囲への影響パターンは把握しやすい。
問題は修復が間に合うかどうかだ。明らかに、この宇宙のものだけでは起こらないその異常が、この狭い宇宙の神々に伝わるより前に、可能か。
リリエンデラとは、〈ジオ〉の宇宙を包んだ高次元膜を移動する素粒子生物の共同体のようなものだった。すでに、その破壊の時の周囲の部分機械は、その記録に取っただろう。
それが共同体の中枢、その機械の神の本体、あるいは共有メモリーと言ってもいい、とにかく、そういうところに伝えられるのを防ぐ必要がある。
だが、高次元を移動する素粒子スケールの物質は、四次元時空の水か、水が絡んだ物質とかを基準にするなら、あまりに速すぎる。
次元数変換のテクノロジーが必要だった。だが、どんな形式のものにせよ、そんなものを使えば、それがまた新たな、それも絶対にごまかしようがないような異常となってしまうだろう。
(一か八か)
そう賭けだ。
ルセンが地球に来てから、地球を離れたのは、その時が最初。そして、小宇宙〈ジオ〉を離れたのは、それが最後。
〈ジオ〉は、巨大なカオス系に包まれた、4つの宇宙の1つで、そしてルセンは元々、そのような物質世界の虚無系を超えてきたわけではない。
その亜空間の通路の原理をルセンはよく知らない。ただ、それを用意してくれたお友達は、なるべく使わないようにと言っていた。だが、自作コンピューターの唐突な消失は、緊急事態だ。
やってきた時と同じ。亜空間通路はスレッド宇宙に繋がっている。それは、昔、エルレード生物が開発した、特殊な機械宇宙で、元々は《虚無を歩く者》を物理的表面に招くためのもの、だったらしい。
しかし、(構造的、技術的問題のため、ルセンにはどうしてもよくわからないのだが)定常的に物理法則が存在しないその宇宙は、多元宇宙共有テクノロジーの基盤としても、非常に使いやすい(これが、虚無との戦いまで、ただの一度も必要とされたことがなかったのは、興味深い事実かもしれない。実際には、これはエルレード生物だけが起こせる奇跡の1つで、必要としていなかったのは彼らだけ、というだけの話かもしれないが)。
ルセンが現れたのは、箱の中。スレッド宇宙の一部分に置かれた、ちょうどルセンがぎりぎり入るくらいの大きさしかない箱。しかし、ルセンの認識的には決して窮屈ではない。
心層空間に近いテクノロジーがここにもある。物理量がぎりぎりでも、精神にはずいぶん余裕がある。視覚的なイメージで言うなら、いくつものブロックがある3次元空間の、1つのブロックだけに自分が入っていて、他のすべては自由に使える開発の場、というような。
とにかく、水殻のコンピューターの、超能力による崩壊という異常のために、計画に生じた穴のリカバーを急いで行う必要がある。
確かにこの宇宙が使われるようになる可能性は、別に高くない。だが、どれか1つは必ず拾われるの違いないのだ。ルセンは、まだ〈アルヘン〉にいた頃から、水のありふれた今の宇宙では(厳密には、それだけで宇宙のほとんど全ての生物を犠牲にするだろう、大きな変化を、この宇宙そのものに与えない限り)、《虚無を歩く者》を殺すことが不可能だと考える派閥に属していたのだ。最終計画は必ずサブのどれかになるだろう。
まず必要なことは、ルセン自身が持っていた例の宇宙、〈ジオ〉に関する全てのデータを抽出し、他のシステムに容易に共有し、利用可能な状態にするための機械。ブロック3つだけでできた。さらに、周囲のブロック全てにネットワークを用意し、擬似的な水殻コンピューターを作る。
もしもその様子を映像に記録したなら、ドーナツが入った箱のすぐ隣に、さらに3倍くらいの大きさの箱が出現。続いて、その3倍の大きさの箱の隣に、網のようなものが出現し、2つの箱を包むように見えたろう。
そして、擬似的な地球を作る必要はなかった。内部における知的テクノロジー不在、素粒子機械群のサイクル、錬金術に関するデータ。究極的に情報圧縮が可能な条件が揃っていたから。
本当はわずかな時間と言えるだろう。だが、長く引き伸ばしたシミュレーション時間の中で、何度も何度も、水殻コンピューターが破壊される寸前の状態と同じになるまで、擬似的な消滅と再生成を繰り返す。
結果的には、うまくいった。
リリエンデラの素粒子ヒモのネットワークの一部が、その異常を感知していたとしても、その中枢に届ける頃には、その情報はすでに失われたろう。なぜなら、新しい水殻コンピューターと共に、修正された自然動作の中の機械的動作は、以前に発生した異常と相殺し、結局、全ては自然状態に戻ったはずだから。
つまり最初から異常などなかったのと同じだ。
だが、予想していなかった1つの代償もあった。
それは興味深いことに、眠気。
そういうものが感覚として現れていることが、少し面白く思えた。必要なのは、特定の物理機能の一時停止であるのだが、それが、「しばらくの眠りにつきたい」という欲求としても感じられたわけである。ルセンは、自身がサイボーグであるということを初めて強く意識した。眠気のためにだ。
だが、迷うことも恐れることもない。それが最善の道であるなら、何も問題ない。
ーー
地球暦43億年頃。
どこなんだろう。ここは?
目覚めた時、ルセンが最初に考えたこと。
そして、アトラが残していたメッセージに気づく頃には、眠るまでのことも、全て思い出していた。
アトラの言葉はシンプルだった。
〔多分、ここに戻ってくることは二度とないと思う。さよなら〕
おそらくアトラがやってくれたのだろう。惑星の大地の中に氷付けの物理領域に、ルセンはいた。冷凍保存されてるみたいだ。実際は微生物とか熱とかではなく、機械神の素粒子ヒモに対する防壁。スフィア粒子を使って、実質的な宇宙外空間みたいにしている。
肝心の大地の上の世界はどうなってるのだろう?
その氷の中は、安全と言えるが、コンピューターを機能させるのは難しい。
そうして、ある荒野で、突然に吹き出した水に、飛ばされるように地上に出てきたルセン。
陸上もすでに生物世界になっている。人間はまだ現れていない。そこには恐竜がいた。ルセンは、水たまりをコンピューターに改造し、必要な計算をいくつかする。
アトラが残してくれた、氷防壁のテクニックは、応用がきいた。以前よりも、神の目を避けるのは楽だ。
どうやらまだ時間はあるようだ。
それなら……