4ー20・アトラとミーケ
[話|(4)「我々の部隊の犠牲者について」
この報告の作成時点において確実な生存者は、錬金術師アトラのみです。確実に死んだ者たちのことは、もう話したくないです。
ねえ、ぼくのこと騙してたんだろ。キルリが死ぬ前に教えてくれたよ。自分たち、水車隊のぼく以外のメンバーはみな、 ぼくを守るための存在でしかないってさ。同じ任務を与えられた仲間でもなかったって。
あなたたちは彼のことを出来損ないの失敗作と言うの? 言うだろうさ、彼はぼくに秘密を明かしてしまった。
でもこれが感情だよ。虚無だってもうそれを学んだ。
計画がそもそも失敗だった。ぼくがあなたたちを裏切ることを
誰も想定してなかったよ。
虚無に殺されたものは何も残らないよ。でも、結局この宇宙は何も残らない。いつかは。
さよなら、これまでのことはありがとう]
「アトラは」
それぞれの前で、報告書の最後までが表示されてから、エクエスはまた語り始めた。
「いくつか勘違いしてる。もしかしたら彼だけじゃなくて、昔のアルヘン生物も。でもそれは仕方なかったことだ。水が失われる前の時代に、それに気づくことが生物に可能とは思えないから」
虚無の感情は強い。それを学んでから、すでにずいぶん長い時間が経っていたからだ。しかし……
「どんな感情も無限にはなりえない。物質のパターンには限界があって、感情は、たとえそれの本質がどこにあろうとも、物質のものとして感じるためには物質が必要だから」
そこまでは、とうの昔にわかっていたろう。問題は次のこと。
「ただ、共感できるような性質の感情が、もしそこに存在していたなら、それはコントロールされたものとしか考えられない。心層空間との繋がりは、おそらくかつてのどの生物もそれほど強くはない。緑液系の生物に比べれば。面白いけど面白くない事実だよ。感情の研究はこれまでのこの宇宙の中で、"世界樹"が一番進んでたんだろう」
それはおそらく計算されたものではない。緑液系は、ただジオ生物を物理的に強くするための改造だったのはほぼ間違いない。
「アトラが記憶を失うことを決めたのも、それで少しは納得できる。まあ、完全にではないけど」
つまり、《虚無を歩く者》は、この唯一の宇宙を自分のものとするために、特殊な物質となってこの宇宙に現れる。しかしそれは、心層空間をおそらく持たない。
「でも感情はある。虚無の方に何か仕組みがあるに違いない。ただ虚無から作られた物質が、心層空間を持つことは絶対にありえないんだ。だからこそ、あいつに共感して、重なった物質生物でも、心は結局残るんだ。多分アトラは、重ならないでそれと触れた唯一の生物。だけど重なった者はおそらくこれまでもたくさんいたろう。おれの、妹は」
それは彼が、思い出したことの1つ。
エクエスの妹リウェリィは、長い間、〈ジオ〉の外の宇宙に関心があって、実際に別の宇宙を渡る旅もした。
いったい彼女が、どこの宇宙でどのようにそれと出会ったのかは、わからないのだが、ただある時に彼女と再会したエクエスは、 彼女に虚無が重なっていることに気づいた。
「興味深いことに、おれは《虚無を歩く者》をもう知ってたらしい。水文学会の時にかもしれない。それより後としたら、フィデレテかリリエンデラを研究してる時にだと思う。それで」
当時のエクエスは、それと戦う気にはなれなかった。ただし、いつか、未来に役立つかもしれないと、できる限りの情報を理解しておこうと決めた。
彼は虚無に対し、妹を介して、様々な質問をした。
虚無は何をしようとしているのか? なぜ妹は虚無に従うことを決めたのか? なぜ宇宙は1つしかない? なぜ宇宙がなくても虚無は存在できる? 永遠の時間の中で、生物が決して理解できない何を理解したか?
どの質問にもソレはまともな答を返してくれなかった。おそらく虚無は、エクエスを警戒していた。緑液系には手を出せないのだが、それだけじゃない。エクエスは(おそらくエルレード生物ならそう定義したような)人間らしい人間だった。
この宇宙で、虚無が初めて出会ったもの。そして、もしかしたら、これまでソレが関わってきた全ての宇宙において、数少ない、ソレが恐れるべきものだった。
「話してると、もっと思い出した。そういえばアレは、おれの感情にも訴えかけてきた。悲しみと怒りを見せてきた。でもおれは」
そんなことに興味を持たないでいれた。
当時のエクエスは、特に現実主義者だった。《虚無を歩く者》に対して敵意を抱いた訳ではない。ただ、それと生物との共存が不可能であることをすぐに理解できて、そして生物の味方以外の道を考えることはなかった。
この唯一の宇宙で未来のことを考える時、誰もが選択をしなければならない。
アトラは、どんな生物も、永遠の前にはちっぽけな存在であると信じた。だからこそ、永遠を歩む虚無こそが尊い存在だと考えた。
エクエスは違った。彼にとって時間は関係なかった。たとえそこに無限のものがあっても、有限のものより必ず優れているわけではない。先にあるわけではない。重要なわけではない。彼は、自分の大切なものが一瞬であろうと、永遠であろうと、変わりなんてしないという強い信念を持っていた。それは、いつも自分よりも後ろを歩いていたはずの妹から教わった、いくつかのことの1つ。例えそのことを妹が忘れてしまっていても、彼は決してそれを忘れなかった。それだけ。
「おれも、虚無は殺してやるのがいいと考えてたのだと思う。なぜなら虚無の願いが、少なくともそれが、生物に対して願う何かが叶うことは絶対にないからだ。本当は、これは1つのパラドックスなんだ。虚無を孤独から救えるなら、虚無を救う必要はないんだ。きっと、出会ったこと自体が間違ってたんだ」
だからこそ、《虚無を歩く者》は、生物の敵。
「昔のおれの考えだ」
「今は、違うの?」と聞いたのはテレーゼ。
「ずいぶん違う気もするな。だけど似てはいるかも。今のおれはただ」
そこで、何かおかしそうにエクエスは笑った。
「なんとなく知っていているだけだ。虚無にどんな感情があるのだとしても、おれの好きな世界を奪おうとするなら戦うだけって。それは昔よりもずっと単純な理由と思う。虚無にだって戦う理由があるとして、こっちにもそれがある。なら戦うだけという話さ」
「エクエス」
単純な答というより、ポジティブな答だとザラは思う。おそらく自分の母の考え方にも近いと。
「それで、おれが思うに、おれたちが進むべき道は、結局理解することだと思う、虚無について。それにアルヘン生物、というよりアトラかもな、の計画をまだ進めること。アルヘン生物も、お前たち〈エルレード〉も関係なくて」
そして、また彼はザラに笑顔を向けた。
「そうするように、もっとも尊敬すべき科学者のひとりが導いてくれた気がするからさ。こういうのが"世界樹"の精神さ」
ーー
ユレイダは、本当は、ミーケたちに、アトラの報告書を見せるだけのつもりだった。しかし、実際に"世界樹"の変わり者たち、どこかかつての自分たちにも似ている友達と話もしてみて、気が変わったと言った。
「いくつか、いや、いくつも聞きたいことがある」
どういうわけだか、ガラクタ号をあまり好まないというユレイダは、カルカ号に乗ることになった。
そして、ネーデ生物たちはたくさんのことを聞いてみた。
ーー
ガラクタ号の方では、ほとんどの者が、いろいろ考えを整理するためにひとりになっていたが、ミーケとザラとスブレットとは一緒だった。
ザラの部屋で、ミーケはいくつかのことを一緒に話し合おうと考えたわけだが、珍しくスブレットも、積極的に興味を抱いてついてきたのだった。
「ミーケらしくないよね。あの報告」
ミーケ相手に、毎ターン、コマを動かす盤上ゲームで、長考の後に三角のコマを動かしてから、スブレットは言った。
「おれは確信してる。あれはアトラのものだよ。それは間違いない」
ミーケはあまり迷わず、次のコマを動かす。
「記憶をなくした自分、だけどやっぱりあれは」
「あなたじゃない?」とザラ。
「そうだと、言いたいけど」
ミーケはそうとしか言えなかった。
ーー
本当にそういうことなのだろうか。アトラはミーケと違う。
リーザにはよくわかっているつもり。彼女にはそういうことがわかる。
ひとりで、部屋にいて、彼女は彼のことを考えていた。
「ミーケ、あなたは」
まるで、いつか本人に聞くつもりのこと、その聞き方を練習しているかのようだった。
「アトラの、友達?」