4ー16・虚無の最初の攻撃(最も賢い生物6)
アルヘン生物は、《虚無を歩く者》を殺す計画を、"第二計画"と呼んでいた。そして、その計画のための動作は大きく3つあったが、それぞれはほとんど単独で機能するようになっていた。敵側、つまり真空側の情報ネットワークの追跡をなるべく避けるためだ。
つまり、第二計画のための3つの役割をそれぞれ与えられた者たちは、その自分たちの役割以外のことは知らなかった。
計画の全貌を知っていたのは一部で、アトラもそのひとり、つまりは計画を立てたひとり。
簡単には、計画のための役割の1つは、偽装者。つまりは「計画を敵に知られないよう、ひたすらに情報を偽装し続けるもの」
また別の1つの役割は、今の兵士。「今その時、とにかく情報や時間を稼ぐために敵と戦うもの」
そして、残り1つが、未来の兵士。「実際に、未来に戦うための者たちを用意するもの」
アトラの役割は本来は2つめだったが、紆余曲折の末に3つめの動作にも組み込まれることになる。
元々、〈アルヘン〉の錬金術師計画も、《虚無を歩く者》との戦いのための兵器計画の1つだった。
つまり錬金術師とはある種の生物兵器。今の〈ジオ〉の軍事国家《ヴァルキュス》における、リーザのような兵士にも近いと言える。
もちろん、ガラクタ船を含め、後に〈ジオ〉で"聖遺物"と呼ばれるようになった様々なものも、〈アルヘン〉と、〈アルヘン〉に協力していた宇宙群の各生物が造った兵器。その一部、残りもの。
《虚無を歩く者》は、真空世界の生物。その真空側の本体が操作する、こちらの唯一の宇宙の物質群が、生物が遭遇するソレ。ただ、唯一の宇宙の全ての物質はまだ操れなかった。
まず、心層空間と繋がっている物質構造、つまり生物個体とソレは関われない。変化速度が速すぎて、適応する時間が生じることがないからだ。この場合で言う変化は、物質の物理空間内での動作ではない。"動作予定経路"とでも表現した方がいいだろう。重要なのは、心層空間、精神でも心でも、感情でもいい、少なくとも生物の感情。とにかく、それは物質に影響を与えるし、物質はそれに影響を与えるが、物質ではない。《虚無を歩く者》のようなヨソモノからしたら、この宇宙の魂みたいなものだろう。とにかくそれは、《虚無を歩く者》にとって、予測不能な動きの原因となる。だから捉えて、操作ができない。
またソレが、物質を捉えて操作する場合、つまりある物質に適応する場合、必要な時間はその物質量と関連する。その意味は生物にはわからないだろう。この唯一の宇宙で、構造が似ている別の物質、構造がかなり違っている別の物質。《虚無を歩く者》にとっては、全ての距離が等しい不連続。ただし原因は不明でも、結果は単純。《虚無を歩く者》がある物質に適応する時間は、その量が多いほどに短くてすむ。たくさんあればすぐに多くを学べる。
〈アルヘン〉の錬金術師とは、ありふれた物質を操作するもの。そしてその操作時には、対象物質は間接的に術者の精神|(心層空間)と繋がっている。だからこそ、それは《虚無を歩く者》を、一時的にでも止める者たちになりうる。
錬金術の原理について、ユレイダは聞く前から知っていた。エルレード生物の知識の中に、同じものがあったから。
物質は、基底物質というプログラム上における素粒子の相互作用と考えられる。そういう意味で、心|(精神)が非物質的とされるのは、それが素粒子系を基盤としていない可能性が高いからだ。だからこそ、ただの物質と生物を区別する基準にもなる。
心というものについて、確かなことの1つは、その動きによる影響で、物質|(素粒子の作用、あるいは集合体)に影響を与えることができること。それは物質系のみでは完全にはどうしても予測できない影響。物質の動作から、心層空間の動きのパターンを見つけることができた生物も、エルレード生物のみ。
また、ある心が全ての物質を操れないことも明らかだ。通常、ある心が原子スケール以上の集合体に与えられる影響は実質ゼロとさえ言える。例外的に、強い操作が可能なのが、それを要素として含めた個々の生命体構造の場合。ようするに、ある生物の心が直接的にコントロールできるのは、「自分の体」と呼ばれる構造のみ。それはつまり、《虚無を歩く者》にとって不可侵の領域でもある。
しかし、素粒子のさらに下層構成要素とも定義できる基底物質段階から、意図的に特殊な構築をすることで、ある生物という集合体を構成する素粒子の中に、実質的な極小機械|(素粒子サイズのマシン)を含ませることができる。その極小機械をまた大量に使って構築した小ネットワークシステムによって、その生物の近距離の特定物質|(素粒子重合のパターン)を、その生物の体の一部みたいにできる。というより、心のコントロールが及ぶ範囲に含ませることが可能。
そうして、特定物質を意識的に(つまり心で直接的に)操れる能力を、ある生物に与えられる。
錬金術師とはつまり、そのような素粒子機械による、物質の操作能力を与えられた機械生物。
この宇宙で最もありふれてる物質は明らかだった。
水だ。酸素分子と水素分子の合成物。それはおそらく、生命のための始まりの場でもある。
生物が作った機械生物を除けば、知られているこの宇宙のすべての生物の始祖は、水の関わる化学反応から生じている。
実はそれがなぜなのかは誰も知らない。構造的に考えたら、分子スケールの物質の中で、水が最も単純なパターンであることはほぼ間違いない。だが生物の自然発生が、単純構造の中でしか起きないと考えるべき理由などない。
アルヘン生物を含め、〈エルレード〉の意識樹の中に答があると考えていた他の宇宙生物は多いが、別に最も賢きエルレード生物群も、真に万能な賢者たちではない。この唯一の宇宙の生物にとって、あの単純な液体にどんな意味があるのかは、それらも知らない。
ただ、もちろん有力な仮説はいくつかあるし、エルレード生物には確信していることもあった。例えばそれは、必要なものが「神秘的な自然の水」というようなものではないということ。機械の、あるいは機械環境での再現水の中でも、生命の発生確率は同じなのである。だからこそ水を失うことは、生物の絶滅を意味しない。
だが、水を失うその(古い宇宙の)最期の時まで、確かにこのたった1つの宇宙で、それは最もありふれた物質。《虚無を歩く者》もそれをいつからか理解していた。
ある時〈メール〉という宇宙|(領域)に、最初は"真空惑星"と呼ばれる水の惑星が生まれ、やがてそれは"真空星系"となり、"真空銀河"となり、"真空フィラメント"になった。それらに共通していたのは、全ての素材が水であることと、あらゆる見方における物理法則を完全に無視している存在であること。それは《虚無を歩く者》のおそらく最初の攻撃であり、兵器実験だった。
何もできない、誰も何の影響も与えられない。それは簡単に言葉で説明して、簡単に理解できるようなものだ。だけどそれまで存在していたどんな物質よりも恐ろしいものだった。虚無の性質を有する物質だ。そう、それは確かに物質であるのに、関わることはできない、閉鎖系でもないのに。見ることも、触れることも、聞くこともできるのに、影響を与えられない。ただそれは「飲み込むこと」だけをする。あらゆる生物に死をもたらすために。
水の錬金術師は最終的に1つしか造られなかった。
理由の1つは、実際的にそれが武器としてあまり有効ではないということ。確かに古い宇宙で水は最もありふれた物質で、《虚無を歩く者》もそれをよく利用していた。
しかし水はありふれすぎている。空間スケールとして、それを利用する敵を捉えるのに、あまりに大きくなりすぎる。それに水の直接的操作は諸刃の剣だ。敵への攻撃が、敵以上に味方を殺しかねない。
実用的とは、とても言えない。
だが、それでも、水の錬金術師は、必ずひとりは必要と考えられていた。ただひとり以上はいらないと結論された。そうして造られたたったひとりがアトラ。後のミーケ。
他の錬金術師と違って、水の錬金術師、アトラの役割は、実は戦いでも、足止めでもない。むしろ他の錬金術師たちの足止めの役割は、彼のための、彼を守るための足止め。そういう意味でも、ひとりだけがよかった。たったひとりというのは守りやすい。それに、与えられた計画は、彼の裏切りを誘発する可能性もわずかだがあった。いくつの理由からアトラは、彼を造った者たちからさえ、完全には信用されていなかった。あまりに特別な彼の役割のために、彼に与えられていたいくつかの特殊性のため。おそらくいくらかの感情だろう。
アトラの任務とは何だったか。
《虚無を歩く者》と出会うことだ、虚無の性質を与えられた物質に関して、その素材は全て水だったから可能性は高いはずだった。その虚無の水世界を介して、水の錬金術師アトラなら、《虚無を歩く者》に、他の誰より近づけるかもしれない。そして実際に、その考え方は正しかった。
〈メール〉に送られた錬金術師の部隊、『水車隊』、アトラたちに与えられていた任務は2つ。
《虚無を歩く者》の調査と、《虚無を歩く者》を可能であるなら止めること。
ーー
「〈メール〉宇宙で、実際にどんなことが起きたのか、ぼくは知らないけど」
ユレイダはアトラにも直接会ったことはない。だが、彼の率いた『水車隊』の任務の結果は知っている。〈アルヘン〉に帰還したのは彼ひとりだけ。仲間たちはみな彼を守るために死んだのだという。
その後のアトラの行方については、ユレイダは知らなかった。ただ、いくつか、新しい宇宙で、必ずまた現れる敵との戦いを準備する宇宙としていくつかあった候補から、〈ジオ〉を選んだのは彼だったらしい。〈ジオ〉の知的生物、人間に彼が似ていたからとか、そういう理由ではないだろう。ただ、〈ジオ〉を使うなら、実質的にジオ系とも言える彼、水の錬金術師を使わない手はない。つまりアトラ、(彼のこれまで取り戻してきた記憶から考えると、もうミーケだったかもしれない)とにかく彼は、自分を使うことに決めたのだろう。
「まず間違いなく、ミーケ、きみは自分で自分の記憶を消して、今のきみたちの案内役にした。それ以外の役割があるかは、ぼくにもわからないけど」
「ユレイダ、あなたが話してたことが、いつぐらいの昔にあったことかはわかる? 〈ジオ〉の時間で」と、〈エルレード〉、〈アルヘン〉、《虚無を歩く者》についての話をはじめてから、彼女|(?)に最初に質問したのはエクエスだった。
「エクエス、〈ジオ〉の賢き子」
その表現には、エクエス自身も含め、みないくらか違和感を感じる。
「申し訳ないけど、いつ起きたことかはわからないの。ぼくが長い間、時間を見失っていたからね。ただ順番は話した通りのはず。〈エルレード〉が《虚無を歩く者》を見つけて、この宇宙に呼び、それは生物の敵と理解し、水を消す計画を立てた。神々が《虚無を歩く者》に消され、ユレイダ、ぼくは〈アルヘン〉と合流した。その時には、もうアルヘン生物の第二計画、《虚無を歩く者》を新しい宇宙で殺す計画は始まっていた。ぼくは出会えなかったけど、アトラの部隊、水車隊が〈メール〉に入ったのはその前だけど、帰還はその後。そしてさらにずいぶん後、ぼくはアルヘン生物と、虚無についてずっと研究してて、それで、〈ジオ〉の時間でクリエイター単位分は使ったと思う。とにかく後、ぼくがアトラに関して次に聞いた話は、彼が〈ジオ〉という宇宙に向かったこと。それと」
アトラは、〈メール〉から帰還してから、〈ジオ〉へと旅立つまでの間に、報告書を1つ残している。理由は謎だが、それは記号文としてはかなり支離滅裂で、ほぼ暗号解読のような過程も必要とした。
もちろんユレイダが、ずっと後のミーケたちに見せてくれたそれは、まともな文体に修正されたものを、さらに〈ジオ〉の言葉に訳してくれたもの。
[こちら、錬金術師ウンディーネ、アトラより。アルヘン非生物研究所へ。報告すべきと考える4つの話があります。重要性が高いと考える順に書いています。
……]
それは、アトラ。〈アルヘン〉の水の錬金術師だった頃のミーケの、本人による少しだけの記録。
この唯一の宇宙で、おそらく最も古き知的生物の誰よりも、最も賢かった知的生物の誰よりも、虚無の世界に近づいた、たったひとりの機械生物の記録の少し……