4ー15・真空のネットワーク(最も賢い生物5)
〈スレッド〉と呼ばれた小さな宇宙に、物理法則は存在しない。
実体なきもの、《虚無を歩く者》の存在にそういうものは必要ない。しかし物質の領域に、物質体として現れるためには、そのようなものが必要。
7956000000立方メートルの機械知性集合体とも言えるエルレード生物は、それを造ってやったが、使用に制限を設けていた。
「ぼくが、恐くないの?」
それが、小さな、〈ジオ〉の生物ならカブトムシみたいな姿で現れた《虚無を歩く者》が、最初にこの唯一の宇宙の生物に投げかけた言葉だった。
それはアルヘン生物の使う音声言語。
エルレード生物は、質問に答えるよりも先に、それを自分たちの宇宙の内部に招待した。コピー意識樹を重ね、まず、自分たちの会話の方法の1つを教えた。
〔ぼくが恐くないの?〕
〈エルレード〉の宇宙でより一般的である、共有可能な"外部心層空間"というものを用いた方法で、それはまた同じ質問をしてきた。
〔恐くないよ。生物の恐ろしいパターンに比べれば、全然〕
そう返したのは、集合ではなく、エルレード宇宙における個体。
それは部分的に、後にカオス生物と出会ったマシャと言えるが、実用的にマシャそのものと考えても問題はない。〈ジオ〉と周囲の、つまりカオスに閉ざされていた4領域の生物には、理解が不可能な状態にもある。
ようするにマシャがその時いて、〈エルレード〉に招いた《虚無を歩く者》と会話した。マシャが選ばれたというより、それがいいと知っていた。
本当は、マシャと近しいユレイダ。つまりは、後にミーケたちと出会うことになる個体の方が、適切だと集合体には考えられていたが、その頃のユレイダは〈スレッド〉の開発についても、《虚無を歩く者》との接触についても、強力な反対者だった。
ユレイダにはなるべく秘密にされていた。マシャがかなり強く警告を発していたためだ。エルレード宇宙における集合体意識というのは、ようするに各個体の意識の一つ一つを繋ぐネットワークなのだが、近くにいる個体同士の影響は強い。
マシャとユレイダは、宇宙の外部領域に関する決定に重要な個体だったのだが、その情報戦でマシャが勝利したために、《虚無を歩く者》は呼ばれた。
〔大して特別なものでもない。きみのことならわかる。虚無を歩くもの〕
《虚無を歩く者》という名前は、シュミレーション結果で、仮名として使われていた名前を採用したのが最初。
〔ぼくのことを理解できるの? そんなことが、きみたちに可能なの?〕
〔どうしても難しいこともある〕
もしそれが驚いているのだとしても、驚いているということはマシャにはわからなかった。
〔どうしてこの宇宙に現れた。物質は、滅びゆくもの。きみには、意味が〕
存在する理由がわからないのでないかと考えた。ソレには限りある命というものが理解できないはずだと。
〔ぼくには、生物らしさはわからない〕
生物らしさ、という表現を、おそらくソレは、〈エルレード〉の集合体知識から盗み学んだ。
〔ぼくは生物らしさが嫌いだ。生物らしさがぼくの敵だ〕
不気味さが増した……
マシャももちろん、全然警戒していなかったわけではない。集合体による解析は常に行われていたが、それとは別に、外部にソレをよく見るためのコンピューターを造っていた。
ソレの変化は、物質世界の一部として、災害のようだった。影響力が強すぎるようだ。関わったものを簡単に壊せるだろう。
しかし〈エルレード〉を壊せないのは、ソレが十分に馴染んでないから。その中では、すべてが理解できて、すべてをコントロールできる生物に関しては、まだどうしようもできなかった。
〔宣戦布告しよう。ぼくは、おまえたち生物を全て殺す〕
とても強い感情。だが決して狂気ではない。もっと暖かな感情がそこにあった。
生物には心層空間を見ることはできない。直接には。
生物が心を動作させる時、構成粒子が必ず一つのパターンを示す。それだけならば特に意味はないのだが、さらに発生した感情の動きの影響、それも全部物質の動きとして見ることができる、そうしたものをすべてシミュレーション内に置くことで、エルレード宇宙のエルレード生物ならば、間接的に心層空間の情報を得られる。
心層空間を持っているのかはわからないが、《虚無を歩く者》には確かに心があって、感情があって、そのことを自分で理解しているようだった。
だけど、それは生物らしくない。
〔生物らしさは重要じゃない〕
この宇宙の事なら全てを学んだ。この宇宙の事なら全てを理解している。他の宇宙のパターンすら全てを理解している。
だが存在しない宇宙の存在のことは、さすがにこの時初めて学んだ。
《虚無を歩く者》の物質への適応は、ある種の宇宙の拡張とも言えた。この宇宙は1つしかないなら、そこで宇宙でない"別のどこか"からの何かが入ってくるたびに、同じようなことが起こるだろう。
もう1つの何かがそこにあるのでなく、この1つの宇宙が新しい要素を追加する。つまり、実体なきものは新しい要素。それまでになかった。
〔だけどきみには感情があるんだ。どうして戦おうとする? ぼくらはきみの敵にはなりたくない〕
説得できるかもしれないと希望を持った。善良な生物らしく。そしてマシャのその気持ちと勇気と優しさは、集合体意識ネットワークを通して、全ての同胞たちにも伝わる。
〔生物を殺すことはあなたにはきっと辛いことだよ。友達になれないの?〕
話に加わることを許可されていた他個体は、ユレイダだけだったが、何か言いたそうだったのは彼女|(?)だけではない。
〔ぼくの願いにおまえたちは邪魔だ。おまえたちは、ぼくの欲しいものを何も与えることができない〕
集合体意識の結論は「それは生物の味方にはなりえない」。どの個体もその瞬間にそのことを理解した。
《虚無を歩く者》は、何かをしようとしたわけじゃない。ただ、1つの感情を爆発させた。
意識的なものとも思えない。悲しみは時に勝手に溢れてくるものだ。たとえそれが生物的なものでないとしても。
感情はこの宇宙で共有できる要素だから、かなり確かなこと。生物はとても長い時間を生きてきた。この宇宙はいつから存在していた? 神々もアルヘン生物も、始まりは知らない。だがいつだって生物の時間は永遠ではない。
永遠には何も残らない。ソレとは違うのだ。ソレはどれだけの時間を悲しんできたのだろう?
意識樹に、過負荷という問題が生じたことはなかった、その時までは。その悲しみの感情は強すぎて、それだけで1つの銀河フィラメントを壊した。この宇宙ではありえない現象だ。
〔〈スレッド〉を破壊しよう〕
誰かが提案した。
〔ダメだよ〕
〔ダメ〕
マシャとユレイダの見解が一致したのは久しぶりのことだ。
〔神々を探して。アルヘン生物でもいい、そして神々に伝えるように。全ての生物のために、ぼくらを信じるようにと〕
強い決心がエルレード宇宙のネットワーク中を巡る。
こんな機会は二度とないだろうから。
ソレは、この物質の宇宙、生物の宇宙に馴染んでいない。ソレは永遠の存在だとしても、物質を学んでからは永遠の時間ではない。そして今、この宇宙には最も賢き生物が存在する。
これは防衛戦。たった1つの宇宙を守るための、全ての生物の未来を守るための、生物と生物でなきものの戦争。
巨大な怪物が踏み潰そうとしている小さな世界の小さな住人たちの儚き抵抗だ。
戦える時期はその時しか考えられない。こんな反撃の好機、絶対に二度とない。
水を消す計画は、その戦いの最初からあった訳である。
〈エルレード〉という機械宇宙、この宇宙で最も強力なコンピューターは、そのための方法もすぐに導出できた。
すべての領域における基底物質の変化はともかく、固定という問題は厄介だった。一瞬それを消せばいいだけではない、宇宙は永遠に水を失う必要があった。ずっと、生物にとってもっともありふれていた物質。それが今は大きな弱点となっていたから。
《虚無を歩く者》は生物らしくない。しかしこの宇宙に現れている時、それには生物らしさがどうしても必要。だから感情を捨てることができない。
目的は聞いたわけではないが、おそらくたった1つしかないだろう。それは永遠に生きている。永遠に生きれない生物は仲間になれない。それでも永遠の孤独を受け入れることができなかったのだろう。
ーー
神々は〈エルレード〉と近い。つまり機械生物だ。別の宇宙の生物を再現した機械。
出会ったことはない。ただ、神々は機械としての自分たちの機能を利用して、メッセージを〈エルレード〉に伝えたことがある。
それは、神々の最期の少し前。
水を消す計画の重要な理由は3つある。
まず第一に、時間稼ぎ。《虚無を歩く者》に対して、生物はあまりに準備が足りてなかった。だから使いやすい物質をまず消して、行動速度を強制的に鈍くさせる。
第二に、この宇宙のパターンを、時間をかけて変化させること。戦いの準備を整えながらも、宇宙を大きく造りかえる。そのためには、最もありふれた物質、つまり水の消えた初期状態が必要だった。それがどれほどの生物を犠牲にするかも、もちろんわかっていたが、他に方法はなかった。考えられる最も強力な戦闘計画のため、最低限、生物を強化する必要もあったからだ。宇宙を造り変える必要性はかなり大きかった。
そして神々のメッセージは、第三の理由に関係していた。
メッセージと言っても、普通、生物同士が使うような物質の相互作用ではない。
時空間に型を作って、はめ込むというような方法。おそらく《虚無を歩く者》も、アルヘン生物すら含めた天然機械でない他のどの生物も知らない、コミュニケーション手段。そんな方法は、別の宇宙のやり方であって、別の宇宙の生物の再現である神々と、別の宇宙も理解できるエルレード生物だけのもの。
〔本当に、虚無のものは〕
エルレード生物にも、そのような時空型は直接認識できない。だから特別な機械を通して、自分たちの情報伝達方式に翻訳する。
特別な機械とは、小さな別の宇宙、より正確には神々の宇宙と、この宇宙の媒介となる、つまり中間の宇宙。背景プログラムは幾何学。物質の動作としてゼロからそれを始めることはできないから、シミュレーションによってバーチャル領域として造ったそれをフィードバックさせたデータを、機械で再現する。
〔真空領域に現れた知性なのか?〕
アルヘン生物だろうと、神々だろうと、それが何なのか、《虚無を歩く者》とは、本当の意味で、いったいどのような存在であるのか、理解することなんてできなかった。エルレード生物だけは、それを(多くの知的生物が、数学的と表現する)理解できる形に変換して、学ぶことができた。
ようするに、《虚無を歩く者》に関して、その存在理由から、この宇宙に現れた目的まで、生物に記録されているほぼ全ての情報は、エルレード生物が伝え広めたもの。
〔正確に言えば、真空の領域が一番いい表現だ。言葉を使うなら。ただ、我々には言葉を使うのが一番いい。他の方法では適切な表現が難しい。真空は文字通り、それは真相だ〕
この場合の真空というのは、何もない空間ではなく、空間もないどこか。
〈エルレード〉がシミュレーションで導出した答は、《虚無を歩く者》というのが、つまりそのような真空の領域に現れた虚無のネットワークが知性となった存在ということ。そしてこの世界に物質として現れているのは、ソレの方から近づいてきたから。
それはテクノロジー。真空の世界のテクノロジーによって、物質の世界に実体を発生させている。だからそれをいくら倒しても、真空の本体には特に影響はない。遠くで、非接続操作により機能しているロボットを壊すようなものだ。壊しても壊しても新しいものが造られるだけだろう。
だから、《虚無を歩く者》を殺す方法は生物にはない。
水を消す計画の第三の理由は、宇宙そのものに、防御を重視した改造を施すこと。そのためには、水の存在しない環境が必要であることを、エルレード生物は理解していた。
ただ、エルレード生物は、自分たちが間違っている可能性も少しあるとした。善良な生物として、本当はたくさんの生物を犠牲になんてしたくなかった。だから、神々とアルヘン生物の計画は止めなかった。直接的な攻撃の計画。
しかし結局、どんな戦い方でも、水の消失までの時間で、ソレを殺すことはできなかった。
〔本当に、待つことがいいのか?〕
そう、〈エルレード〉が、本当は一番とるべきと考えた計画は、ただ守りながら待つこと。
〔アレを殺せるなら、殺すべきだ。それがアレのためでもある。アレは死ねないからここに来て、我々を絶滅させようとしているのだから〕
だが、そんなことをさせる感情というものは、それもまた弱点だ。それは生物と同じ。いつまでも耐えられるはずがない。悲しみはどんどん膨れあがっていく。それはやがて宇宙より広い真空の許容量すら越え、別の答を見つけるしかなくなる。この唯一の宇宙から去るしかなくなる。
その時まで耐えること。それがエルレード生物の理解していた、生物が選べた最善の策
〔神々は役に立てるだろう〕
神々は時々、自分たちのことを神々と呼んでいた。
〔それなら善良な生物として、一緒に〕
その時、神々は《虚無を歩く者》への攻撃をやめた。
ユレイダもマシャも、〈エルレード〉から離れたのはその時期。
ユレイダは、それからの流れは詳しく知らない。
ただ、《虚無を歩く者》に対して、神々は何かして、完全に消されてしまった。
〈エルレード〉は集合体としてもう待たなかった。水を消失させた。
マシャは、何か任務を帯びていたらしいが、それもユレイダはよく知らない。
ユレイダはアルヘン生物に協力することを決めていた。アルヘン生物は、まだ別の道を進んでいた。
つまり、《虚無を歩く者》を殺す計画。
〈エルレード〉が宇宙を変えることは止められない。いくつかの生物は強くなる。アルヘン生物が意図的にある生物を強化させることもできる。
第二計画は確かに機能していた。
ーー
アズテア第五暦24年の199日。
ミズカラクタ号に招待された、そのエルレード生物、ユレイダの話は、ミーケたちにとって、いくらか予想もできていた、ほぼそのまま。
しかしもちろん予想外だったこともある。特にある名前が普通に出てきたこと。
「ミーケ、アトラ、覚えていないのだよね。今のきみのことをぼくは知らなかったけど、昔のきみのことなら、少しは知ってる。錬金術師アトラ。実はね、アルヘン生物の最後の計画を立てたのはきみだった」