第26話:「命知らずの美食家と、完璧な食事の欠落」
「はぁっ、はぁっ……間違いない、この匂いだ……! 噂の幻覚モンスターめ、私の洗練された舌を満足させられるものなら、やってみるがいい……ッ!」
鬱蒼とした絶望の森を、一人の男がフラフラと歩いていた。
豪奢な貴族風のアバターに身を包み、頭上のマーカーには『シャルル:Lv15(職業:宮廷料理人)』とある。彼は戦闘職ではなく、味覚と料理を極める生産職のトップランカーだった。
始まりの街で「極上の飯の幻覚」の噂を聞きつけた彼は、恐怖よりも「未知の味覚データ」への探求心が勝り、単身でこの危険地帯に踏み込んできたのだ。
「ああっ、この芳醇な燻煙の香り……! 幻覚にしては出来が良すぎる……!」
茂みを掻き分けたシャルルの目に飛び込んできたのは、化け物ではなく、真新しいログハウスと巨大な石窯だった。
「なんだ、あれは……?」
彼が目を丸くしたその瞬間。
「……また羽虫が迷い込んだか」
背後から、地獄の底から響くような恐ろしい声がした。
振り返ると、漆黒の外套を着た死神と、白銀の悪魔が、獲物を狙う猛獣のような目でシャルルを見下ろしていた。
「ひぃっ!? 噂のバケモノ……ッ!」
シャルルが腰を抜かしてへたり込んだ、その時。
「もうエド、お客さんを脅かさないで! いらっしゃいませ、お腹空いてるんでしょ?」
エプロン姿の少女――レナが、呆れ顔でエドを押しのけ、シャルルの前に木のお皿を差し出した。
そこに乗っていたのは、一晩かけて完璧に旨味を凝縮させた『洞窟熊の極上スモーク』だった。
「なっ……なんだこの圧倒的なシズル感は!? これが、噂の幻覚……!」
シャルルは震える手でスモーク肉を掴み、そのまま口へと運んだ。
「――ッ!!!」
その瞬間、宮廷料理人のプライドも、幻覚への警戒心もすべて吹き飛んだ。
野性味溢れる熊の脂、岩塩の鋭い塩気、そして鼻腔を突き抜ける痺れ木の実のスパイス。それらが燻煙の香りと共に、脳髄に直接「美味い」という暴力的なメッセージを叩き込んできた。
「あぁぁ……素晴らしい……! 幻覚だろうが何だろうが構わん、これは芸術だ……ッ!!」
シャルルは涙を流しながら、あっという間に肉を平らげてしまった。
「美味しい? よかった。お代はいらないから、ゆっくりしていってね」
レナが微笑んだ。
エドもセリアも、肉を食って大人しくなった男に興味を失い、再び自分たちの食事に戻っていく。シャルルは完全にこの食堂の「極上の飯」に屈服したかに見えた。
だが。
お皿を舐めるように綺麗にしたシャルルは、不意にスッと立ち上がり、深刻な表情でレナを指差した。
「……素晴らしい腕前だ、料理人よ。だが、致命的だ! この完璧な食事には、絶対に欠かせない『最後の一手』が抜け落ちている!」
「えっ? 致命的……?」
レナが首を傾げる。
シャルルは大仰な身振りで、カウンターの上の塩壺やスパイスを指差した。
「塩気! 脂! 香辛料! 確かにどれも極上だ。しかし、この重厚な塩気の連続を洗い流し、食事というオーケストラを優雅に締めくくるための『甘味』が一切ないではないか!! 砂糖は!? 果物は!? スイーツはどこにあるのだ!!」
「あ……」
レナはハッとした。
サバイバル生活を生き抜くために、高カロリーな肉や塩分ばかりを求めていたせいで、完全に盲点だった。
味覚を失った現実世界では、甘いケーキも新鮮なフルーツも、映像でしか見たことがない「夢のまた夢」の食べ物だったのだから。
「あ、甘いもの……ケーキとか、フルーツとか……食べてみたい……!」
レナの瞳が、かつてないほどの熱を帯びて輝き始めた。
「よし! 次の目標決定! エド、セリア、ミレ! 明日は『甘いもの』を探しに行くよ!!」
「……は? 肉があるのに、なぜ草の実などを探しに行かねばならんのだ」
エドが露骨に嫌そうな顔をするが、レナの決意は固かった。
突然現れたやかましい美食家の指摘により、隠れ家食堂の次なるターゲットは「未知のスイーツ(甘味)」へと定まったのだった。




