031 クドラクとクルースニクと許嫁と
「やっぱり、やっぱり!」
その頃、梨紅は授業中の学校の中を疾走していた。とにかくここから離れないといけないと思い、梨紅は普段の彼女の身体能力とは思えないほどの速さで疾駆。時速にして二、三〇キロぐらいはあった。女子高生のそれにしては速すぎた。オリンピックの陸上選手並みの馬力がある。
授業中の校内は静かだ。
いつもは人が行き交う廊下も雑談で賑わう教室からもあまり音がしない。
(これは……)
静かすぎる校内に疑問が過ったが、すぐに分かった。
結界が張ってあるということに。
張ったのはおそらくあの銀髪の吸血鬼だ。自分にはそういう力がないのだから、そういう芸当は出来ない。だからこそ、今。自分は走っているのだ。
見られたくないから。特に、久遠くんにだけは……。
だが、結界が張っているのならここで戦っても問題はない。
なら。
梨紅は一度制止して、待つ。
と、そのすぐさま。
廊下の角から一人の少女が現れた。彼女は青を基調にしたブラウスと白のミニスカート。そして白のブーツを履いているという恰好だった。髪も綺麗にブラッシングされていて、腰まで伸びた銀色の髪が揺れるたびに日光に反射してキラキラと光を放っていた。
それを見て梨紅は初め、ひどく驚いた。
なんで?
と、思った。
彼女の印象がまるで違っていたのだ。
初め、彼女は――言葉は悪いが汚かった。薄汚れているとまでは言わないが、まるで捨て犬のようなぼろっちぃ感じがあった。だけど今は違う。なんというか……小奇麗。
梨紅がその少女に感じるものは、普通の女の子ということだけだ。
少し唇の裏を噛む。
(どうして……)
梨紅の前にその少女は立った。
「やっぱり……あの気配はあなたのものだったんだね。クルースニク」
「今は……栗栖ですが」
梨紅は出来うる限り声を押し殺して答えた。
「くるす?」
「ま、肩書きみたいなものですからね。そのクルースニクは」
少しだけ考えてから、いえ、と言ってから言い直す。
「どちらも私です。ええ。間違いなく」
梨紅はどこか楽し気に、
「あなたと違って、私は人間ですから。そうでしょう? クドラク」
クドラクが梨紅の言葉に構える。
「おっと」
梨紅は手を前に翳してそれを制す。
「まず、はじめに聞きたいことが」
ぴんと人差し指を立てる。
「ん。この結界のこと? だったら問題ない。わたしがこの学校っていう建物全体に結界を張ったから、誰も教室から出てくることはない」
「違います」
「え」
梨紅はきっぱりと否定した。
ついでに、
「そんなことどうでもいいんです!」
と、言った。
クドラクが呆気に取られる。
「あなたと、吸血鬼のあなたと久遠くんの関係です。話はそれからです」
「カナタ?」
ひくっと梨紅のこめかみが動いた。
しかし、クドラクはそんなことに気付かずに続ける。
「どんなって……。わたしがカナタの血を吸って、カナタは吸血鬼になった。それだけ」
「そうじゃないでしょう……。そんなことを聞いてるんじゃないんでしょう。分からないんですか!」
吠えると少し牙と爪が伸びる。梨紅は慌てて伸びた手を後ろにやり、口元を片方の手で押さえた。
「じゃあなに」
少女が少し怪訝そうに尋ねると梨紅はいきり立って、床を軽く足で叩く。
「どうして久遠くんがあなたのことを親しそうにクドなどと呼んでいるのかという理由を聞いてるんですよっ!」
ぐるる。
梨紅の唇から牙がにょっきりと剥き出しになった。今度は牙を隠さずに話を続ける。
「知り合って間もないはずです。あの夜、あなたと久遠くんが出逢ったことに間違いないはずです。私は全部知ってるんです。久遠くんのことならなんでも。なんでもです!」
「全部?」
「ええ」
大きく頷く梨紅に対して、クドは不思議そうに、
「なんで?」
「はい?」
「なんでカナタのことを全部知っているだなんて言うんだ? よく分からないけど、カナタはお前の、クルースニクにとっての何なんだ?」
「はあ」
梨紅は若干呆れるような小さなため息を吐いて肩をすくめた。
「あなたには関係ないでしょう?」
キッと目を細める。彼女のことを知っている人間であれば、少し怯えてしまいそうなほどの殺意を込めて。
「そう。関係ないはずです。だから言わない。小狡いと思うのならご自由に。けれど、私の口からあなたにだけは言いたくない。この気持ちだけは二人だけの物にしておきたい。私と久遠くんだけの。二人だけの共有物にしたいんです。他の誰でもなく、私と久遠くんのものに、ね」
「……」
クドラクは初めて梨紅に畏怖のようのものを感じ取った。
普通じゃない。
まるで憑りつかれているかのような敵意。
だけどこの恐怖感が、なぜか。
そう、なぜだか。
心地いい。
クドラクの手から爪が伸び、唇から牙が零れる。
「わたしたちにとって、この敵意こそが普通なんだ。何を今さらだと思う。だけど……だけど」
そして、
「そうじゃない、よね」
クドラクが頭を振って、その敵意を消し去ろうとする。
伸びた爪と牙がすんと引っ込む。
「……話を戻そう」
梨紅が少し驚く。
「なぜ」
そして聞く。
「なぜ、引っ込めたんです。本性を」
「戻すと言った」
と、クドラクはわざとらしく梨紅の言葉を無視してから、
「わたしがなぜカナタにクドと呼ばれているかを聞きたいんだったな。……よく分からない」
「え」
「よく、分からないんだ。でもカナタが言った。クドと呼んでいいか、と。だからわたしはいいと言った。それだけ。……それだけだ」
言葉に梨紅の顔から表情が消える。
「そう」
静かに。
「彼の方から」
水面のような静けさを保ったまま。
「あなたを」
梨紅を見ると、
「そう呼びたいと」
薄く笑っていた。
「うふふ……」
笑いながら、
「どうして」
手を水平に薙ぐ。
瞬間的にクドラクは跳ぶ。
避けた。
クドラクはほとんど無意識的に、ほとんど無意識に放った梨紅の攻撃を避ける。
最早隠す必要はないと言わんばかりに梨紅は爪を突き出す。
「転送」
梨紅が唱えると梨紅の手元に刀が現れる。
それを手に取ると、
「さあ。戦いましょう。クドラク。私たちらしく」
鞘から刀を抜き出し、
「宿敵らしく!」
鞘を投げ捨てた。




