最終話 青 (3/3)
大人しく踵を返す姉に、父は再びため息混じりに額を押さえた。
「お前なぁ……」
「だ、だって」
「お姉ちゃん、皆さんにちゃんと謝って」
私が言うと、また首が飛んできた。……もう、嫌い。
『きゃはは!』
「出てきましたね。青さんにも視えていますか?」
「い、いえ。笑う声と、黒くて小さいスポット……丸っぽい形をしたのが二つ、お姉ちゃんの周辺に見えるだけです」
「何あんた。霊感とかあんの? 気持ち悪~い」
首を飛ばされている私が言われるんだ、と思ったけれど我慢した。
でもまた姉の方から笑い声が聞こえると、何となく霊の性格と意図が読めてくる。
「今からその力にお世話になるんでしょ。お姉ちゃんってば、失礼な事ばかり言わないで。それにお父さんにも少しあるんだよ」
「そ、そうなの?」
「茜さんに憑いている霊は二体。どちらも、ちょうど真白くんくらいの年齢の、少女の姿をしています」
稜華さんが話し始めると、席を立っていた父と姉は、引き寄せられるように元の場所へと座る。姉の首も戻っていった。
やれやれ。それにしても、ずいぶん二人は稜華さんを信頼するようになったなぁ。
「私、子どもの霊に憑りつかれていたんですね。何でですか? 降霊術の遊びは小学生の頃しかした事ないですけど」
ええっ!?
「しちゃったんですね……そういうものは遊びで済みません。とても危険なんです。それに降霊術は行った本人ではなく、家族や周りに危害が及ぶ場合もよくある事なんです。呪いの事もそうですが、これからは決してしてはいけませんよ」
「も、もちろんですよぉ」
視線を泳がす姉から首が飛んできた。ニタニタと嬉しそうに笑って戻っていく。
まさか、その時も私の不幸を願っていたんじゃ……。
そう思って泣きそうになる私を喜ぶように、無邪気に笑う声がまた姉の方から聞こえた。
「青さんの負担が大きいですね……。稜清、これお願い」
「わかった。青ちゃん……」
先輩は同情した眼差しで私を見る。手には、あのベルだ。先輩は私の隣に座ると音を鳴らした。
心地いい……。
「なんかこの音、嫌なんですけど……やめてもらえません?」
「霊に効いている証拠ですよ。話を続けさせて頂きますね」
稜華さんはそう言ったけれど、実際に効いているのは姉の方に見えた。首が飛び出そうとする度、消滅していたからだ。
それに、悔しそうに怒っている霊の声も聞こえた。
「憑りついている霊ですけれど……茜さんの思念から形成されたみたいです」
「私の? そんな事ってあるんですか?」
「はい。茜さんの……青さんへ対する後ろ向きな思いに共鳴しています。ですからこの二体の霊は、茜さん自身や生霊と結託して、青さんに危害を加えているのです。いくら私が力を見せつけようと、貴方の思いに忠実に、貪欲に、青さんへと危害を加えていくのです」
きっと姉は、私が苦しみを味わっていた事がわかって嬉しかったのだろう。
稜華さんのその話を、姉は喜びを噛みしめるように聞いていた。
「何だよそれ……あんまりですよ……」
「稜清、手止まってる」
「あっ、ごめん青ちゃん! でも……でも青ちゃんが何をしたって言うんです? 青ちゃんはこんなに優しいのに……っ」
「貴方は青にほだされてるだけでしょ? 青は私の事なんて考えてはくれないの。私を傷付けてばかりなの! 本当……何も知らないくせに、外野は黙ってなさい」
「俺はっ、貴方よりは絶対、青さんを見ています!」
「茜っ。少し、少し黙っていなさい……。すみません、話の続きをお願いします。稜清くんもありがとう」
「い、いいえ」
「パパっ、何で私を除け者にするの? 青に傷付けられているのは本当よ?」
「いやはや、そうですかぁ……。茜さんは、これまでたくさん傷付いてきたのですねぇ……」
洗っても洗っても、筆に付いた墨汁がいつまでも流れ出るように治まらない姉の感情を止めたのは、住職だった。
「ただもったいないですねぇ。思い違いなんですよ、茜さんの仰っている事は。向けられた愛があるのに受け取っていない。自信が無いのですねぇ。傷付かなくて良い所で傷付いている。それは、一つの考えだけに固執してしまっているからでしょう……。茜さん、貴方はもっとご自身を許し、大切にしないといけませんよ」
長く仏の道に身を置いてきた者が自分を想ってくれる。住職に心を開いたのは、姉の表情から見て取れた。
「それからですねぇ、これは信じられないかもしれませんが、地獄は本当にあるんですよ。茜さんは落ちたくないでしょう? 互いの足を引っ張り合う地獄に。そのままご自身を大切に出来ないのなら、多くの業を背負い、地獄の門が開かれますよ?」
「まさか。信じません、そんなの。それに死んだ後の事なんて私、どうだっていいですから」
住職と稜華さんは微笑んだ。言外に、皆そう言うんですけどね、と言っているみたいだった。
「さて、稜華。もうこんな時間です。真白くんもお腹が減って大変ですから、特別な御祈祷に移らせてもらいましょうか」
「はい、そうですね……では皆様。始めたいと思います」
じゃらっと数珠が鳴る。住職が手のひらを合わせると、稜華さんはその肩に手を置いた。
「茜さん。今飛び出そうとしている生霊は、私の方で浄化が出来ますけれど、これからの事は茜さんご自身で対応して頂かないとなりません。既に真白くんも加えた皆様とこのお家には、茜さんが帰られる前に結界を張ってありますので、いくら後ろ向きな思いをお持ちになっても、危害を与える事は出来ません。それに生霊を飛ばしたり、また邪悪な霊を形成してしまうと、茜さんの分身なのですからご自身の命を削っている事になります。そもそもご自身が形成している霊とは言え、邪悪な存在ですから、憑いていて良い事は一つもありません」
「え! 私、そんな危ない目に遭っていたんですか?」
「そうです。人を陥れようとして幸せになれる人間は居ません。そういうのは結局、ご自身に返ってくる事を肝に銘じてください」
「は、はぁ」
「そして青さん。貴方は感受性が強く霊に対しても敏感なので、この御祈祷が済みましたら真白くんも呼んで対応いたしましょう。余計な者が視えないようになりますよ」
「あっ、ありがとうございます……!」
私が喜ぶと、やっぱり姉の方から悔しそうな声が聞こえた。
けれど姉は違った。祈るように手を揉む仕草からも表れていた。稜華さんの熱のこもった説得が功を奏したのだろう。私に興味を示さず、自分を守りたい一心で御祈祷を待っているようだった。
チリン……
先輩の鳴らす音が開始の合図になった。稜華さんが目を閉じ、住職が般若心経を読みあげていく。
「皆さんも目を閉じてください」
指示の通りすると、先ほど母がしたように霊も抵抗をし始めた。私を使って――
思わず声が出そうになった。自分の顔に向かって、宙に浮かぶ手が生えたからだ。
状況は少し違うけれど、二日前に見た、あの時と一緒だ。赤ん坊のような小さな手が、向かって右側に。左側には、毛がまばらに生えた黒く汚れた一本指が。
ガタガタと身体が震える私に気付いた先輩が、背後に回ったのが気配と温度でわかった。
「青ちゃん、音に集中して……」
私は頷いて返事をする。
相変わらず、先輩の鳴らすベルは私に安心をくれた。それに先輩が近くに来てくれたお陰で、目の前には恐ろしい光景はあるけれど、私は冷静さを徐々に取り戻す事が出来た。
また私、目を閉じているのに視えるんだ……。
そう思ったけれど、一度目の御祈祷の時よりも、明らかに視野が狭くなっていた。結界の効果なのか、今の効果なのかはわからない。でもそのお陰で、私はさらに冷静になる。
そうだ。結界をしたから、直接は危害を受けないんだ。
思い出すと、お線香のにおい、私と醜い手との間を遮るように顔の前で鳴らされるベルの音、何より私を護ろうとしてくれる先輩の存在をとても大きく感じた。
その時だった。一気に来た。奴らの終わりが。
『殺さ れるく るし ……』
まるで何者かに顔を地面へと押し付けられているかのような、潰れた声が聞こえた。
そして視えたのは、赤ん坊でも少女でも、醜い手を持つ魔物でもない。真白の身体を覆い、悪夢を見せた静電気の靄だった。
「茜さん! 貴方を巣食う邪悪な者に、二度と心を奪われないと誓ってください!」
『や め……うぎゃぁぁぁああ!!』
小刻みに震える電子的な声は、周波数を上げたように高いキーで叫んだ。キーが上がる段階で、心なしか姉の声色を感じたのは、気のせいだったのだろうか。
「目を開けてください」
それは、全てが無事に終わった合図。
稜華さんを始め、皆さんの尽力のお陰で、二年間に及ぶ霊障の苦しみから、私たち家族は解放された瞬間だった。
「どうもありがとうございました」
車に乗り込む住職に、姉以外の三人で深々と頭を下げた。姉は御祈祷した和室でお礼を言ったのが最後で、外まで見送りには来ていない。
でもそれでいいと思った。無理に関わらない方がいいのだ。
「お姉さん、想像以上に邪悪でしたね。他の霊が、お家に寄り付かないくらいでしたし」
「そ、そうだったんですね……姉が失礼な事ばかり言ってすみませんでした」
「いいえっ、こちらこそ上手くやれなくて、青さんにたくさん怖い思いをさせちゃいました。私こういう事をしたの、友人以外では初めてだったんです。御祈祷の効果は立証済みだから安心してほしいのですが、ご迷惑をおかけしてしまってすみません」
「そんなっ。家族全員、救って頂いたんです。何とお礼を言っていいやら」
「ふふっ、良かったっ」
御祈祷の時とは打って変わって、年相応に笑う稜華さんに、私の心は感謝で満ち溢れた。
「先輩も、本当にありがとうございました。それから、恥ずかしい所をいっぱい見せてしまってすみません」
「ううん。青ちゃんの性格がどこから来たのか、わかった気がしたよ。すごいな、あのお姉さんは……正直この後も心配なんだけど……」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。稜華さんがたくさん施しをくれましたから」
「そっか……。あー……あのさ?」
「お腹減ったよね? ごめん、付き合わせて」
何か話したい事があるようで、先輩に誘われて私は桜草公園に来ている。
「いいえ。まぁ、すっごーく安心してお腹は減りましたけど、先輩たちのお陰でこんなに伸びやかな気分で居られるんです。気にしないでください。あっ。先輩が鳴らしてくれたあのベル、音だけじゃなくて見た目も綺麗でしたね」
「あぁ、あの鐘ね。それさ、母さんの形見なんだ」
「え?」
「青ちゃんを知った日。母さんに、弟を迎えに行って来いって言われたって話、覚えてる? それ、俺たちの守護霊になった母さんからの言伝てだったんだ。ちなみにあの住職さんも、突然両親を亡くした俺たちを引き取ってくれた人でさ、本当の父親じゃないんだ」
「そう……だったんですね……私、何も知らないで」
恵まれているって思ってた。
「ううん! 俺たちもいい関係でいるって思ってるから。住職さんの……父さんのお陰で何の不自由もなく暮らせているし、学院にも通わせてもらってるし、すっげー感謝してるんだ。でもなんか少しだけ境遇が似てるよね、俺と青ちゃんって」
「先輩……わっ」
芝生の青いにおいに鼻をくすぐられながら、私は風に誘われて空を見上げる。
晴れた空には、お昼の月が浮かんでいた。
艶やかな夜の姿とは違って、さり気なく私たちを見守っているかのような顔をして浮かんでいる月を見ていたら、頭と心をぐるぐる巡っていた思いが自然と言葉になった。
「……私、自分もいけなかったなぁって思ったんです。私がちゃんと自分を押し殺していなければ、母も姉も、あんな風にはならなくて済んだんじゃないかって。それにそれは母と姉、二人にだけ言える事じゃなくて。私……誰に対してもそうだから、もっと自分に正直になろうって思ったんです。大切にしたい人の為に、自分を大切にしなきゃって」
「青ちゃん……」
「私、本当は他人から勝手に限界を作られる事が嫌いなんです。でも皆は私にそれを求めているからって、自分で負けを選んできました。けれどこれって、私の方こそが皆の限界を決めて、皆の事を馬鹿にしていたんじゃないのかって感じたんです。だから私……もうそんな思い上がりは止めます。私はこうして生かしてもらってるんだから、自分を幸せに出来るように自分の課題を歩もうって決めました」
「うん……! それ、すっげーいいと思う!」
「先輩……ふふ。ありがとうございます」
私が破顔すると、先輩は少し驚いていた。
そっか……私、ちゃんと笑えていなかったんだな。
「青ちゃん……俺を頼ってくれて嬉しかった」
「先輩……?」
目を細めて私を見つめる先輩の熱が、風に煽られた草木のにおいよりも印象的だった。
「月がとっても……青いなぁ……」
……ん? 月が青い?
「いえ、白いです」
「え」
「空が青いなぁ、ならわかりますが、月はどう見ても白いです。そして夜は金色っぽいです」
「ちょ、ちょちょちょっと待って? 青ちゃんって本が好きなんだよね?」
「好きですけど、今の話と関係ありますか?」
「う。がちか……じゃ、じゃあ明後日! 月曜のお昼は、図書館の掲示板の前で待ち合わせねっ。青ちゃん、約束だよ!?」
「わ、わかりました……?」
小首を傾げる私に、先輩は何か言いたげに、言葉にならない声を漏らした。何かしたげに、挙動不審な動きをした。
変な先輩。何だろう……月が青い?
科学の話だろうか。ん? 化学かな?
「じゃ、じゃあ俺、そろそろ帰るよ。送ってあげられなくてごめんね」
「せっかく中間地点のここまで来たのに、家に戻ったら変ですよ」
「た、確かに。え、あ、そっ、それじゃあ青ちゃん。約束だからね? 図書館の掲示板の前だよ?」
「はい。忘れてませんから、安心してください」
「うん……そっか。だよね? ははっ。じゃあ行くよ……また……」
「はい、また」
「連絡するから! 青ちゃんもしてよ?」
「はい。します」
「うん……! あ、来週の土日、予定空けといてね」
「え?」
そんなこんなで私は、歯切れの悪い先輩と別れた。
帰宅すると早速、家族会議が開かれた。
「変なの」
真白はそう言って笑った。
最初に父が、仕事にかまけて家庭をなおざりにしていたと、思い詰めたような表情で頭を下げたからだ。休日は遊びに連れて行ってくれる時もあるし、風邪の時も迎えに来てくれたのにって。私も真白の意見に共感したから、声を出して同意した。
「茜ねーちゃんは?」
真白が訊くと、父は黙ったままの姉に、叩いてしまった事を謝った。
姉はすぐに涙ぐんで、自分の事が嫌いだから叩いたのかを父に訊いていた。
正直私は、自分の言動や状況を考慮するという概念がないのかと冷めた気持ちになったけれど、どうしてこんなに父への愛情を求めているのかが気になっていたので、頭に疑問符を乗せている真白に、その時の事をやんわりと説明をしながら二人を見守った。
当たり前だけれど、父は姉も大切な娘だと言い切った。姉は嬉しそうに頷いていたが、父があの時は目も当てられなかったと言うと、すぐにまた表情を曇らせた。姉には反省という二文字がないのだろうか。
それに、姉はなぜこんなにも否定されたと受け取るのだろう。
私は姉を責めない事を前提条件に、これまで家事を一人で担ってきた事を打ち明けた。父は姉を咎めようとしたけれど、今日はもう言い合いを見たくないと言ったら引いてくれた。
喋り出したついでみたいに、姉に訊いてみた。父と私の許せない事を。
「パパは青の事を可愛いって言うから」
私の事は褒めてくれないのに、だって。
私には、そこまで自分ばかり褒めてもらっている記憶がない。だからいつの話をしているのかと訊いてみると、私が赤ん坊の頃。物心がつく前の話だった。
開いた口が塞がらない。
父に、姉が赤ん坊の頃は可愛いと言っていなかったのかと訊ねると、当たり前だ。何度も言っていたと答えた。
姉の表情が、ぱっと明るくなる。姉が長年苦しんできた誤解は、どうやらこれで解かれたみたいだった。
「お腹空いた」
真白の一言で、私たちは車に乗り込んだ。今日の元々の予定である、映画と買い物に出かける為だ。
父は車を運転しながら、祖母と暮らす事を提案してくれた。
私も真白も賛成したが、姉は反対した。また決まり文句の、私が嫌いなのと言って私たちを困らせてくる。そうしてめそめそする姉に、車内の空気が奇妙になったけれど、父が駅前のマンションを借りるからと言うと、事態が一変した。
何だかんだで、姉は一人暮らしに憧れていたらしく、今日はそのショッピングをしようかしらと意気揚々とした。
父は額を押さえていたが、何かあったら頼っていい。でも立派なお前なら自分でやりくり出来るな、信用しているぞと父が言うと、姉はとても嬉しそうにして二つ返事をした。
とにかくこれで、祖母が来てくれる事、姉は家を出る事が決まった。
月曜日になり、お昼休みを迎えると、奈菜に泣き付かれた。
四時限目が始まる前。先輩の元から教室に帰ってきた奈菜の様子がおかしかったから、何となく察しはついていたけれど。
「そんなわけだからさっ、青。今日からまた、お弁当一緒に食べようね♡」
「あ……ごめん、奈菜。もう約束してて……」
「は? え? 青だよね、この子……いやいや何言ってんの。親友が彼氏にフラれてぼっちなの。可哀想と思わんの?」
喧騒に包まれていた教室がしんと静まり返った。
「何、この空気……」
皆の視線の矢印に、奈菜が眉根を寄せた時。教室の外で奈菜を呼ぶ声が聞こえた。
何だ。ただの痴話喧嘩だったのか。
「やっぱ無し! 青、約束あったんでしょ? いいよいいよ行ってっ。じゃあ私、彼氏に呼ばれてるから行くね?」
皆の矢印なんか、なんのその。奈菜はいそいそと教室を抜け出し、彼氏のもとへと飛び込んだ。
「……何あいつ。あっ、ねぇ青! 今日も図書館に行くんでしょ!?」
「うん」
私が頷いて答えると、紗枝ちゃんたちが嬉しそうに笑い合って、それからいってらっしゃーい、と両手を振って見送ってくれる。
紗枝ちゃんたちのお陰で、教室の空気も柔らかくなった。けれど、奈菜は――
『青ちゃん? 他人の問題まで』
“背負わなくてもいいよ”。
うん。それは私の問題じゃない。それに奈菜は積極的だし、これまで授業の班活動も大丈夫だった。きっと心配ない。
「ありがとう。いってきます」
紗枝ちゃんたちに手を振り返した後、私は先輩との約束の場所、図書館の掲示板の前まで来た。
先輩はまだだ。高等部は、中等部よりここまでの距離が少し遠いから。
「あ……記事が新しくなってる」
掲示板には、夏目漱石について特集が組まれていた。これは初等部の図書係が書いたものだ。
鉛筆で下書きをした跡が見える。色鉛筆を使って鮮やかだし、吾輩は猫であるの猫や漱石の似顔絵も描いていて、見てもらう人の事を想像してくれたのか、一生懸命工夫がされていた。
私はそんな掲示板の記事を見るのが好きだったのに、最近は余裕がなかったのかもしれない。
「あ……月が綺麗ですね」
これ、すごくお洒落だよね。英語のI love you.を月が綺麗ですねって訳したって話。
きっと私には無縁だ。だから言われる自分を想像すら出来ない。
でも、憧れは――
「えっ……これ……」
丁寧に書き直された記事には、月が綺麗ですねの他に、貴方を愛していますの訳があると記されていた。
思わず瞳が揺れる。鼓動が主張する。
そして、その台詞に視線を滑らせていた時。熱を感じた。
「青ちゃん」
いつもより緊張して呼ぶその声に、私の鼓動は速くなる。
ー月がとっても青いなぁー
「こんな私が恋に落ちるまでの物語」了
最後までお読み頂けてとても嬉しいです。どうもありがとうございました。




