34 強欲紳士の真実
事情を説明すると、ローガン弁護士は快く協力を買って出てくれた。
「確かに伯爵の行動は、あなた方の推測に当て嵌まるものだと思います。申し訳ないが、わたしは人身売買に協力するつもりはないし、リュネットお嬢さんになにかあっては、先代に申し訳が立たない」
元は先々代伯爵と顧問契約を結び、先代が幼い頃から懇意にしていたので契約を継続していたのだが、ドナルドとは正式な契約は取り交わしていない。リュネット宛ての遺言書を秘匿したことから成り行きで関わることになってしまっていただけで、顧問契約についての話し合いの機会を逸したままになっていた。ここ数年は顧問料も支払われていないこともあり、きちんと清算して、そろそろ手を引こうと思っていたところなのだという。
ローガンはドナルドの会社の方の担当弁護士ともすぐに連絡を取り、経営が悪化している証拠と資料を提供してくれた。これでドナルドが金に困っているという事実は証明出来る。
「もっと早くに連絡が取れていれば……」
提供された資料と情報を見ながらチャールズは溜め息を零す。
まったくだ、とローガンも頷いた。
リュネットが連行された翌々日にはもう既にアポイントを取っていたのだが、事務員に因って阻まれていたことが発覚したのは一昨日のことだ。屑籠に入れられていたチャールズからのメッセージに気づいたローガンが問い詰めてみると、若い事務員はハウスから脅され、カートランド家の関係者からの訪問連絡は取り次がないようにさせられていたのだ。どうりでマシューが連絡を入れても返事がない筈だ。
そのことに気づいてローガンは慌てて連絡を取ってきてくれたのだが、お陰で貴重な一週間もの時間を無駄にしてしまった。この行き違いの時間がなければ、リュネットのことはもうとっくに救い出せていたかも知れないと思うと、マシューは腸が煮え返る思いだった。
話を詰めているところに執事のサンダースがやって来て来客を知らせる。
おどおどとした様子で応接間に待っていたのは、二十代半ばほどの見知らぬ女だった。
「あの、こちらの旦那様でいらっしゃいますか?」
やって来たマシューを見た女は思いつめた表情で尋ねる。
「ああ。僕がこの屋敷の主人だが……」
こちらの顔すら知らないということは、酔った勢いで手を出した女性が子供の認知を迫って来たわけではないな、と判断し、それではいったい何事だろうか、と見つめ返す。
「突然申し訳ありません。私、ジェーン・ブラウンと申しまして、ノースフィールド伯爵様のお宅でハウスメイドをしております」
女の素性にマシューは驚いた。
彼女は緊張の面持ちで手提げの中を探り、開封済みの封書をいくつか取り出すと、それをマシューに手渡した。
「これは?」
「うちの旦那様のことを探っているって男の人に声を掛けられて、書斎から持ち出しました。なにかのお役に立つんじゃないかと思いまして」
「持ち出したって……そんなことが見つかったら、きみは……」
マシューは驚きを隠せずに女を見つめ返す。彼女は笑顔で首を振った。
「大丈夫です。どっちみち、もう辞めるつもりだったんですから」
以前から給金の支払いが遅れることが多々あったが、ここ半年程は払われてもいない。メイド仲間全員でいい加減頭に来ていたところに、ドナルドが犯罪に関与している噂があって探っている、という男に声を掛けられた。
犯罪に巻き込まれるのはごめんだ。その話は待遇に不満を抱いていたメイド達にすぐに行き渡り、彼女達は掃除をする傍ら、ドナルドを失墜させる為の証拠捜しを行っていたという。
なんと度胸のある女達だ、とマシューは感嘆した。
そうして、ドナルドの書斎で見つけたのがこの封書だった。
中身を確かめると、所有している美術品の売却約束のものと、借金の返済を迫る知人からの督促状だった。この売却予定の美術品というもののひとつが、どうやらリュネットの首飾りのことのようだった。だから捜していたのだろう。
なるほど、と頷きながら、最後の一通を開く。それは融資の約束を承諾する内容だった。
(――…見つけた!)
差出人の住所は新大陸だ。文面に散見する単語から判断するに、あちらで事業に成功した資産家のようだ。どういった経緯で知り合ったのかはわからないが、この人物がリュネットの縁談相手となるようだということは読み取れた。
歓喜に拳を握り締め、封書を届けてくれた女を満面の笑みで振り返る。
「きみ……えぇと、ブラウンさん? ありがとう。助かったよ」
心から礼を言うと、気にしないで欲しい、と女は驚いた表情で首を振った。積もりに積もった不満から、辞める前にちょっとした意趣返しをしたくて仲間内で相談しているところだったので、これは丁度いい話だと便乗しただけだ、と笑う。
女性は怒らせると恐い。自分のところの女性使用人達は大事にしよう、とマシューは苦笑する。
「少ないけれど、お礼をさせて欲しい」
「えっ、そんな! 嬉しいですけれど、頂けません!」
「遠慮しないで欲しい。きみ達のお陰で、僕は大切な人を救えるかも知れないんだ」
サンダースを呼び、十人ほどの女性達が高級レストランで食事をして、少しおつりが出る程度の金額を包むように言いつける。
「協力してくれたみんなで、なにか美味しいものでも食べてくれ」
そう告げると、女は承諾したようだ。では有難く、と少し申し訳なさそうな笑顔で頷き、サンダースが用意してくれた金を持って帰って行った。
女を見送ったあと、マシューは急いで書斎に戻った。
マシュー抜きで話を進めていた弁護士達は、来客は誰だったのかと気にしながらも、集まった情報の精査に集中している。どれをどうまとめれば、リュネットの冤罪を証明し、逆にドナルドを訴えることが出来るか、と検討しているのだ。
そんな彼等の目の前に、たった今受け取って来た封書を差し出した。
「ドナルド・スターウェル宛ての手紙?」
宛名を見たチャールズが怪訝そうにする。何故こんなものが、と表情が物語っていた。
「今までの奴の行動を裏づけるすべての証拠だ」
見てくれ、とマシューは三人に勧める。
すべてを開封して確認した三人は一様に驚き、そして、自分達の推測が当たっていたことに身震いする。まさか本当に、リュネットを差し出す代わりに融資を受ける約束を取りつけているとは思わなかった。
なんてことだ、とマクガイヤは言葉を詰まらせ、ローガンも表情を険しくした。弁護士という仕事上、いろいろな人物に接見する機会はあったが、ここまで酷い人間性の人物は殊に稀だ。呆れてしまう。
「だが、これは証拠としては使えない」
チャールズが悔しげに零し、封書を元に戻した。
これはドナルドの一連の行動を裏づける重要な証拠ではあるが、勝手に持ち出したものだ。これまた盗難事件として訴えられることになる。
そのことにはマシューも薄々気づいていた。しかし改めてはっきりとその事実を告げられ、こちらも悔しげに表情を歪める。
やはりここは、行方がわからなくなっているナッシュ・ワイルドの所在を確かめ、彼に窃盗事件がでっち上げであることと、傷害の被害届を取り下げさせる方が重要だ。彼がどちらの件にも関わっている。
「僕はアートのところに行って来ます」
ワイルドの捜索はアンソニーに人手を貸してもらっている。進捗状況は逐一報告されているが、今の状況だと居ても立ってもいられない。
「その前に、きみにはやってもらうことがある」
出かけようと立ち上がったマシューをチャールズが呼び止める。
振り返ると、彼は書類綴じの中から一枚の書類を差し出した。
「レディ・リュネットの捜索願を提出しようと思う。きみは彼女の後見人として、婚約者として、ここに署名をしてくれ」
怪訝そうにするマシューに向かい、チャールズは微かに口許を歪めた。
反撃に出よう、と。
正午の鐘だ、とリュネットは思った。
今日は一度も取調室に呼び出されていない。お陰でいくらか睡眠時間が確保出来たが、何日も続いた緊張の所為で、ちょっとした物音で飛び起きるようになってしまっている。たいして身体が休まった感じはしなかった。
いつものように味つけの薄い冷めたスープとパンが昼食として供され、リュネットは黙ってそれを口に運んだ。相変わらず量は控えめだが、昔から食は細い方なのでどうでもよかった。ただ、この一食だけというのはさすがに少し腹が減る。
一昨昨日、リタが面会に来たときに差し入れてくれたパウンドケーキの最後の一切れを食べ、それでなんとか腹を満たした。
数日前に比べると本当に天国のようだ。差し入れに感謝しつつ、食事を終える。
ミーガンの縫ってくれた毛織の服も暖かくて有難い。この留置所の中で暖を取れるのは、一枚ずつ与えられる薄い毛布と、逮捕されたときに着ていたマントだけだったので、本当に嬉しかった。
自分はみんなに支えられている、と感謝しつつ、悴んだ指先に息を吹きかける。季節はまだ二月。雪もちらつくこの時期、冷え込みが和らぐのはまだ当分先のことだろう。
指先が温まったことを確認し、マントの隠しから便箋を取り出した。
マシューからのその手紙を眺め、彼の書いた文字を指先でなぞる。
愛している、と彼が言ってくれている。その気持ちを惜しみなく伝えてくれている――それだけでリュネットは自分の心を奮い立たせることが出来た。
以前はその言葉を迷惑に感じていたし、そう言われる度に困惑してもいた。けれど今は、その言葉が大きな支えとなってくれている。
もう一度その文字を愛しげになぞってから、マントの隠しに戻した。
本もなにもない独房は暇だった。他のところは何人かで相部屋になっているようだったが、リュネットは一人きりである。連日続いた嫌がらせをする為なのかな、となんとなく思っていた。
係りの人間がやって来て食器が回収されるのを見送っていたら、ぶるりと全身が震えた。慌ててマントを羽織って身体を包み、薄い毛布で膝から下を覆って暖を取る。今日は特に冷える気がする。雪でも降っているのだろうか。
せめて風邪をひかないようにしよう、とマントを掻き合わせる。体調を崩したらハウスの取り調べにはもう耐えられないかも知れない。
(もう少しの我慢よ、リュネット。きっとあの方が助けてくれる……)
少しでも体力を温存しておこうと目を閉じると、何処からか「リュネットや」と声が聞こえた。ハッとして目を開く。
視線を向けると、鉄格子の向こうにハウスが立っていた。
その彼の後ろにいた人物に気づき、リュネットはさっと青褪めた。
「――…サー・ドナルド・スターウェル……」
茫然とその名を口にすると、ドナルドは今まで一度も見たことのない笑みを向けた。
「そう他人行儀な呼び方をするな。ドナルド小父様と呼ぶがいい」
身震いするような猫撫で声だ。さっきリュネットの名前を呼んだのが彼だったのだとわかると、肌が粟立った。
なにを企んでいるのだろう。どうしてこんな場所に来ているのだろう。リュネットは動揺と怯えで激しく混乱したが、平静さを保とうと必死に無表情を取り繕った。
ドナルドは格子越しににっこりと微笑む。
「リュネットや。スターサファイアの首飾りをどうしたね?」
またそのことか、とリュネットは眉根を寄せる。
「あれは亡くなった母の物で、今は私の物です」
震えながら伝えると、ドナルドはまだにっこりと微笑んだまま「違うぞ」と言った。
「所有権はノースフィールド伯爵家――つまり、このわたしの許にある。お前のものなどではない」
確かにあの首飾りを用意したのは先代伯爵である父で、贈られたのは夫人である母だ。そうなると伯爵家の所有物という見方も出来る。
それでも酷い言い分だ。証拠を見せろと言えば、当時の請求書か領収証あたりを提示して来そうだ。確かにノースフィールド伯爵の購入したものだぞ、と言って。
リュネットは唇を噛み締めた。
「今は持っていません。人に預けました」
素直に答えると、ドナルドの顔から笑みが消え、いつもの威圧的な表情になる。
「ふざけるなよ、小娘」
怒気を含んだ低い声で囁き、鉄格子を乱暴に握った。
「誰に預けた! カートランドの若造か!?」
「そんなこと、あなたには関係のないことではないですか」
ドナルドの怒鳴り声を聞くと幼い日の記憶が蘇り、身が竦む。それでもなんとか気持ちを奮い起こし、毅然と言い放った。
「小賢しい小娘め! 七十ポンドだぞ!?」
ドナルドは怒りの為に頬を紅潮させながら、まわりに聞こえるのも構わずに怒鳴りつける。近隣の鉄格子の隙間から様子を窺うように鼻先や手が覗き始めたが、リュネットに対する怒りで頭に来ているのか、ドナルドはそんなことを気にする様子は見せなかった。
「抑えろ、スターウェル」
興奮するドナルドの肩に手を置き、ハウスが小さく忠告した。その声にドナルドもぐっと顎を引いて息を吐く。
いきなり金の話を持ち出されたリュネットは、怯えながらも首を傾げた。けれど、すぐに気づく。あの首飾りを七十ポンドで売るつもりなのだということを。 (注釈:現在の日本円で五百万円前後と思ってください)
今度はリュネットが怒りに頬を赤らめる。
「私の両親の形見を、売り払うおつもりなのですか?」
この問いかけをドナルドはせせら笑う。だからどうした、と。
リュネットは初めて目の前の従兄弟伯父に対して強い怒りを抱いた。緊張からくる動悸とは違う鼓動がリュネットの胸を熱くした。
「あなたには、人の心がないのですか? 何故、私の大切なものばかり奪おうとなさるのです!?」
震える声で言い返すリュネットの様子に、ふん、とドナルドは鼻を鳴らす。
「フェリクスが――お前の父が、わたしから奪ったからだよ。爵位も、財産も、なにもかも、すべて」
亡くなってからもうすぐ八年が経とうかという十五歳年下の従兄弟のことを思い浮かべ、ドナルドは嘲笑を浮かべた。
「だが、フェリクスにはお前しか生まれなかった。それ故に、すべては本来の持ち主であるわたしの手に戻って来た。因果よな」
父に息子が生まれなかった故に、家督は結局一番近い血縁のドナルドが引き継ぐことになった。まったく以て皮肉なことだ。
それでも、フェリクスが生まれてから亡くなるまでの三十余年を、ドナルドは悔しい気持ちを抱えて生きて来たのだ。自分が受け取る筈だったすべてを引き継ぎ、人々に愛されて育つ従兄弟の姿を見つめながら。
「お前を見ていると、憎らしいあの女を思い出す」
ドナルドはリュネットの顔を見ながら吐き捨てた。
四十年前、艶やかな笑みを携えて現れた、美しいジュヌヴィエーヴ――ラファエロの描いた聖母のような清廉さで、天の御使いのように可憐な彼女は、ドナルドにとっては悪魔以外の何者でもなかった。
七年ぶりに再会してとても驚いた。リュネットはあの頃のジュヌヴィエーヴによく似ているのだ。それ故に腹立たしさが増す。
リュネットはドナルドの気持ちをはっきりと聞かされ、茫然とした。
世間のいろいろな事情がわかるような年齢になってきてから、なんとなく、そんなことだろうとは思っていた。けれど、はっきりとそれを見せつけられると、なんとも言えない気持ちになる。
(可哀想な人……)
リュネットは目の前の中年男が憐れでならなかった。
彼の存在意義のすべては、己が支配階級に所属していることなのだ。
爵位を持ち、領地や小作人を治め、資産を持つことが至上なのだ。
(そんなものでしか、自分の価値が計れない人なのね)
爵位を持たない人間はこの大英帝国の中にいくらでもいる。貴族でない人間も大勢いる。
その誰もが、己に用意された或いは己で選び取った道を生き、苦労を味わいながらも暮らしている。そんな人生は決して無価値ではなく、尊いものだ。
けれどドナルドは、他人の持つものを奪ってでも、家督を己のものとしなければ気が済まなかったのだ。
奪ったものにどんな意味があるというのだろうか。奪われ続けてきたリュネットには、ドナルドの気持ちがまったく理解出来ない。
「ハウス警部、書類が整いましたよ」
牢屋の中で悲しげに俯くリュネットに向け、ドナルドが彼女の祖母と父への恨み辛みを語って聞かせていると、若い刑事がハウスを呼びに来た。そうか、と頷き、饒舌に恨み言を捲し立てているドナルドを止める。
「手続きが終わったそうだ」
ハウスの言葉にドナルドは口を閉じ、昂った心を落ち着けるように大きく深呼吸した。
そうして、再び笑みを浮かべてリュネットを見る。
「ホルス男爵夫人が、お前に対して出していた訴えを取り下げてくれたそうだよ」
その言葉にリュネットは静かに瞠目する。
「夫人は、盗まれたものがすべて無傷で欠けることなく返還されたので、温情をかけてくださったようだな。感謝するように」
言葉もなく驚いているリュネットに、ハウスも笑みを向けた。
完全に犯人だと決めつけて散々取り調べをして来たというのに、それでいいのか、とリュネットはハウスを見上げた。彼はにこにこ笑いながら、鍵を取り出した。
「手続きは先程終えた。釈放だ、エレノア・ホワイト」
ガチャリ、と重く鉄が擦れる音が響いて錠が外され、閉ざされていた鉄格子が開かれた。
リュネットはまだ信じられなかった。眉根を寄せ、開いた格子扉とその向こうのハウスを何度も見比べてしまう。
「どうした、釈放だぞ? 早く出ろ」
ほら、とハウスは優しく声をかけ、外へ出るように促す。
本当にわけがわからなかったが、ここから出られるのなら出るべきだ。リュネットは躊躇いがちに外へ出た。
「それでは、行こうか」
恐々と通路に立ったリュネットの肩を掴み、ドナルドが言う。
なにを言っているのだ、と振り向くと、ハウスが先程報告に来た刑事から受け取っていた書類を目の前に翻した。
「ノースフィールド伯爵が身元引受人になってくださるそうだ。感謝しろよ、エレノア」
その言葉を聞き終わると同時に、ドナルドがリュネットの腕を引っ張って歩き始める。強引なその手を振り解こうとするが、一週間以上に渡る拘留に体力気力を削がれ、ただでさえ非力なリュネットにはなんの力もなかった。
「いや、離して! 離してください!」
掴まれて引かれる腕と手首の痛みに耐えながら、必死に抵抗を試みる。足を踏み止まらせてその場に踏ん張ろうとするが、それすらも叶わない。ドナルドに引きずられるようにして進むしかないのだ。
「誰か……誰か助けてください!」
すれ違う警察署員達に向かって声を上げるが、ドナルドが「娘なんですよ」とひとこと説明すると、家出娘が悪さをして捕まり、厳格な父親に連れ戻されるように見えるらしく、ああ、と頷かれるだけで誰も気にかけてはくれなかった。リュネットは絶望する。
ハウスは先に警察署を出て、前の道で辻馬車を停めていてくれた。ドナルドはそこへ向かってリュネットを引きずって行く。
馬車に乗せられたら終わりだ。あの狭い車内で抑え込まれたら抵抗など出来やしないし、かと言って、走る馬車から飛び降りるような度胸もリュネットにはない。
いや、そんなことを考えている場合ではない。例え大怪我をしたとしても、逃げ出せるなら飛び降りるべきだ。
「その手をお離しなさい、ドナルド・ニコラス・スターウェル」
リュネットが一か八かの覚悟を決めたとき、喧騒の中に凛とした女性の声が響いた。
呼びつけられたドナルドは不機嫌そうにあたりを見回し、声の主を捜す。リュネットとハウスも同じようにあたりを見回した。そうして、六十フィート程先に立つ女性と二人の男性の姿に気がつく。
そのうちの一人にリュネットは見覚えがあった。
「――…バーネット、さん……?」
すらりと背の高い黒髪の男のことを、リュネットはよく知っていた。
バーネットは大きく頷く。
「大変お待たせ致しました、レディ・リュネット」
申し訳ございません、と丁寧に頭を下げるその声は、確かにバーネットのものだった。
けれど、彼が一緒にいる金髪の男性は、主人のマシューではない。年頃はマシューと同じ三十前後かと思えるが、見たことがない。それなのに、その容貌を見ると、なんだか懐かしいような気がする。
「なんだ、貴様……カートランドの従者か」
見覚えあるバーネットの姿に、ドナルドは鼻頭に皺を刻んで威嚇するように唸る。
さっとマシューの姿を捜し、彼がいないことに気がつくと、バーネットを無視することにしたらしい。掴んでいたリュネットの腕を引き、辻馬車の中へ押し込もうとする。
「手をお離し、と言ったのよ、ドナルド・スターウェル」
バーネットの手前に立っている女性が口を開いた。先程の声の主は彼女だったのだ。
女性は日除けなのか薄絹のついたツバの広い帽子に顔が隠れ、その容貌がわからない。それ故に誰なのかわからず、ドナルドは自分の名前を知っているその不気味な女に敵意を向け、鋭く睨み据えた。
女性は持っていた日傘を金髪の男性に預け、こちらに向かって歩き始める。
喪服だ、とリュネットは思った。彼女が着ている服は上品に洗練された雰囲気で、お洒落や流行に疎いリュネットにでも上等なものだとわかるが、装飾の少ない黒の無地で、帽子も、手袋も、男性に預けた日傘に至るまですべてが黒い。襟許に飾られたブローチもジェットと黒真珠を使っている。
女性はリュネット達に向かってまっすぐと歩きながら、帽子を留める役割も持っているらしい日除けの薄絹をふわりと外し、ツバを持ち上げてその顔を見せつけた。
ドナルドが「ヒッ」と悲鳴を堪えるように息を呑み、僅かに仰け反る。
リュネットも、ハウスも驚きに言葉を失った。
そこにはリュネットに瓜二つの顔があったのだった。




