18.教習二日目②
※ペーパードライバー教習の描写はほとんどありません。あしからず。
「木立ベーカリー」の看板を見つけた千晶は、歩行者が来ていないことを確認しつつ、左のウインカーを出す。
公一の誘導で、店舗から一番離れた駐車スペースに、車を前方から慎重に進入させて停めた。
千晶の家からスーパーまで二十分、スーパーからパン屋までは五分、慣れない二車線と合流を乗り越えて、ここまで来た。
ふう、と大きなため息をつく千晶に、公一が声をかけた。
「お疲れさまでした。ここまでの運転のフィードバックの前に、少し休憩しましょう。駐車させてもらっていますから、お店で何か買ってきますね」
「あ、私も買いたいです。飲み物もなくなっちゃいましたし」
残り少ないペットボトルのお茶を飲み干してから、二人揃って車の外へ出る。
「木立ベーカリー」は惣菜パンや菓子パンの種類が豊富で、手頃な価格ということもあり、人気のパン屋だ。ログハウス風の外観と隣接する公園の緑があいまって、森の中に建っているように見えるところが千晶のお気に入りポイントのひとつである。
店へ近付くと、窓に新商品のポスターが貼ってあった。ゴロゴロ角切りのさつまいもが入ったデニッシュ、カボチャのあんパンなど秋の味覚だらけで、千晶はおなかが鳴りそうになる。
「わあ、全部美味しそう!」
「どれにしようか迷いますね。あ、クリームパン好きなんだよな……」
「ここのクリームパン、クリームにこだわっていてオススメで……わあっ!」
ブオン!! ブロロロ……
二人のすぐ近くを速度を出した車がいきおいよく通り過ぎた。驚いた千晶を公一が引き寄せ、抱き締められる形になった。
「大丈夫ですか?」
「す、すみません、私がよそ見していたから……あの、公一先生……?」
「千晶さんはちゃんと端に寄っていました。駐車場であんなスピードを出すあの車が悪いんですよ。千晶さんに何かあったら、俺は……」
あたたかな温もりと硬い胸板にドギマギしながら、恐る恐る見上げた公一の顔はとても暗く、千晶はすぐに顔の熱が引いた。その苦しげな声に何と返事をしようか迷っていた、その時。
ぐぅ、きゅるる、ぐぐぅ。
「……え?」
「今鳴るところじゃないでしょ……!」
「……ふっ!」
自分のおなかに訴えているような千晶の情けない声に、公一が小さく吹き出した。そっと千晶から離れ、顔をそらして口元を片手で押さえている。
「すみません、あまりにも千晶さんがかわいすぎて、我慢できずに笑ってしまいました」
「今のどこにかわいい要素ありました!?」
何だか嬉しそうにニコニコしている公一を見て、千晶はホッと胸を撫で下ろす。緊迫した雰囲気を崩してくれた自分の腹の虫に、千晶は内心複雑だ。
ありがたかったけど、恥ずかしすぎる……。でも、さっきの公一先生、何か嫌なことを思い出したような顔をしてた。スピードを出す車が恐い、とか? 昔、事故にあったことがあるのかな。とにもかくにも危険運転絶対駄目!
「あら、千晶じゃない。何してるの?」
「チーちゃん!」
「わあ、楓とのえるちゃん! 二人こそどうしたの? 仕事と保育園は?」
聞き覚えのある声に振り向くと、パン屋から出てきたところだった楓とのえるがそこにいた。楓のシャツとのえるのワンピースが黒のギンガムチェックで合わせていて、親子ペアルックがかわいらしい。
「午前中だけ仕事して、午後は有休取ったの。のえるとたくさん遊ぼうの日だから」
「チーちゃんのかれし、イケメンだね!」
「のえるちゃん、この人はね……」
慌てて彼氏ではないことを告げようとする千晶だったが、公一が一歩前へ出て楓とのえるに向かってにこりと微笑む。
「初めまして、片近ドライバーズ・スクールの片近公一です。以前は弊社をご利用していただきましてありがとうございました。今は千晶さんの教官として指導にあたらせてもらっています」
「ああ、悦子先生の息子さんの! こちらこそ、悦子先生には本当にお世話になりました。この子は娘ののえるです。のえる、公一先生にご挨拶は?」
「はじめまして、はしもとのえるです! ママとチーちゃんが、おせわになってます。チーちゃんは、とてもがんばりやさんで、やさしい子なので、よろしくおねがいします!」
「ご丁寧に、どうもありがとうございます」
公一がのえると目線を合わせるように、片膝を地面に付けて座った。のえるは両手を合わせて目を輝かせる。
「わあ、おうじさまみたい! おにいさん、こーいちって、おなまえなの?」
「そうですよ」
「ようちえんのコーくんと、おなじなまえ! おとなのコーくんだ! ねえコーくん、のえるのすきなパン、しってる?」
人見知りをしないのえるが、これを買った、味見をしたなど、あれやこれやと公一に話しかけている。
そんな二人をほのぼのと見ていた千晶に、楓がボソッと呟く。
「礼儀正しくてイケメンで子供好き。悦子先生の息子さんで百太くんの親友、身元もしっかり。結婚してるのかしら」
「恋人もいないみたい……って、私が聞き出したんじゃないからね!? 話の流れで公一先生が自分から言い出したからね!? 今回はペーパードライバー教習で真剣に学んでいるところだから、婚活とかパートナーとか浮わついてらんないからね!?」
あわあわと言葉を重ねる千晶に、楓が苦笑いを浮かべた。
「わかったわかった、ごめんってば。そういえば、公一先生ってあんまりご両親に似ていないのね」
「そうなの? というか、お父さんって教習所の社長の?」
「ええ、一度あのペンギンカフェでお会いしたことがあるの。まあ、どちらにせよ社長もマスターもかっこいいから、やっぱり遺伝ね。それにしても、公一先生と元々仲が良かったの? すごく親しそうだったけど」
「ううん、直哉さんにフラれたときに会った以来だから、十二年ぶりくらいかな」
「え? あの最低最悪の置き去り事件のとき? ちょっと何があったのよ」
楓には、直哉と別れたときに起きたことを全て話していたが、その後男子高校生だった公一におんぶされて家まで送ってもらったことだけは、秘密にしていた。昔から楓は千晶の一番の親友だと自認しているので、知らなかった事実に不満げだ。
千晶がどうにかかわせないかと考えていると、のえるが楓の白いロングスカートをくいくい引っ張った。
「ママ、のえるおなかすいたー! おうちかえろうよ!」
「そうね、今日はのえるの日だもんね。それじゃあ公一先生、千晶のことよろしくお願いしますね。千晶、今夜電話するわ」
「またねー! コーくん、頑張ってね!」
「はい、頑張りますね」
今夜は長電話になることを確信して苦笑しながら手を振った千晶は、のえるの別れの言葉に首をかしげる。
「のえるちゃんと、何かあったんですか?」
「ふふ、のえるちゃんと指切りげんまんしましたから、秘密です。さあ、行きましょう」
明らかに機嫌がよくなった様子の公一を不思議に思いながらも、パン屋へ入るとすっかり気にならなくなってしまった。




