64話 白き竜王と海を渡る影
分厚く巨大な布の扉をくぐり、俺とカーミラは王宮の奥へと通された。
使用人や警備する兵士には、竜の翼や尻尾のある者ばかり。
それを見るに、ここが竜族にとって重要な場所なのをすぐ理解できた。
案内された一室に足を踏み入れた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
「…………」
そこには、護衛の姿すらなかった。ただ一体の竜が、部屋の中央に鎮座しているだけだ。
だが、その威圧感は異常だった。
全身を覆うのは、純白の鱗。大きさは、火竜となったレジエよりも二回りほどは大きい。
天井の高さは数メートル以上もあるはずなのだが、その白竜が部屋にいるだけで、頭が天井に擦れそうなほどの異様な狭さと圧迫感を感じる。
(……こいつが、竜族のトップ。強くなった今の俺でも、まともに戦ったところでまだ勝てないだろうな)
肌を刺すような魔力の密度が、生物としての格の違いを雄弁に物語っていた。
「立ち話もなんだ。そこに座りなさい」
白竜が、低く、腹の底に響くような声で言った。
そして信じられないことに、その巨大な前足というか爪先を器用に使って、竜に比べるとサイズの小さな人用の椅子をスッと引いてくれたのだ。
「あ、は、はい……」
俺は恐る恐る、勧められた椅子に腰を下ろした。
ちらりと後ろを見ると、カーミラの分の椅子は引かれていなかった。彼女はズワルトと共に、無言で壁際に控えている。
どうやら、話をする者として認めた相手にしか、こうした対応はしないらしい。
南部を統一した魔王である俺は、特別扱いというわけだ。
「名前は……もはや立場こそが私の名前となっているから、竜王とでも呼ぶといい。魔王ミアよ」
「よろしくお願いします、竜王殿」
挨拶を交わすと、竜王は再び器用な手つきで、テーブルの上のティーセットを操り、俺の前のカップに黒い液体を注いでくれた。
立ち上るのは、嗅いだことのある香ばしい匂い。
(……これは、コーヒー?)
俺は驚きつつ、カップを口に運んだ。
魔界に来てから一度も口にしていなかったが、一口飲んで確信する。
間違いない、前世でよく飲んでいたコーヒーの味だ。
ただし、淹れたてのブラック。
(……ブラックは風味が強すぎるから、せめてミルクが欲しいな。砂糖を入れると別方向で味が微妙になるから、たまにしかやらないんだけど)
前世の味覚の記憶が蘇り、俺の表情がほんのわずかに動いた。
それを逃さず、竜王が口を開いた。
「どうかね? この魔界と呼ばれる大陸では作られていない、コーヒーという代物だが。なかなかのものだろう? 伝え聞いた話では、大昔、南の方で転生した者が動いたとかなんとか」
そう言うと、竜王はカップではなく、巨大なポットを直接持ち上げ、ドバッと口の中に黒い液体を注ぎ込んだ。
目を細め、舌の上で転がして味や風味を楽しんでいる。
俺はハッとして、竜王を見た。
「あの、その言い方……もしかして、南の大陸と交易か何かをしているんですか?」
俺の問いに、竜王は心を読んだかのように喉の奥で笑った。
「長生きしていると、人脈というものは勝手に広がってくるものだ。望むと望まざるとにかかわらず。……先代魔王の時代、私は人間たちとの密貿易を主導していたことがあってな」
「密貿易……!」
「うむ。稼ぐ以外にも、侵略が円滑に進むように、向こうの情報を集めておく意味合いもあった。すべては過ぎ去ったことだが」
さらっと怖いことを言っている。
いやまあ、世界征服を考えていた先代魔王からしたら、下準備をしないという選択肢はないわけだが。
「だが、今は昔よりも細々としたものになり、こうした嗜好品くらいしか入ってこない。……あとはまあ、情報も入ってくる」
竜王はゆっくりと首を下ろし、俺と視線を合わせた。
「近いうちに、向こうの大陸から大規模な船団が来るだろう。……その対処を、そちらに任せたい」
「船団……!?」
俺は、ルーサーの領地にあるという港町のことを思い出した。
「……戦いが起きる可能性とかは、あるんですか?」
「あるかもしれないし、ないかもしれない」
竜王は平然と答えた。
「まあ、港町のあるそちらの領地に上陸するのだから、南部が最初に対応するしかないわけだ。なに、せっかく東まで来てくれたのだ。手土産に、これくらいの情報は教えるとも」
体のいい厄介払いだ。
竜族は、人間たちの船団と直接関わる気はないらしい。
彼らにとって最も重要なのは、大陸北部の旧魔王軍をどう叩くかであり、海の向こうの人間など優先度が低いのだ。
もうしばらくの間、竜族と全面戦争をせずに済むことは大きな収穫と言える。
だが、お姉さんの言っていた南の大陸と交易できるところに、大規模な船団がやってくるという事実は、重い不安として俺の肩にのしかかった。
「さて、ズワルト」
竜王が、壁際の黒竜に声をかけた。
「その船団関連の事態が解決するまで、魔王ミアを手伝うように。……そこで見聞きしたことを、しっかりと覚えておくようにな」
「はっ……承知いたしました」
ズワルトが深く頭を下げる。
協力という名目だが、明らかに南部の戦力と謎の船団の動向を監視するという側面を含んでいる。なかなかに抜け目がない。
その後、簡単な食事が運ばれてきた。
俺は普通にカトラリーを使って食べたが、竜王はこんがりと焼けた肉の塊を丸呑みにしていた。
「人の姿になれば食べやすいのでは?」と尋ねると、「一国の長として威厳の問題があるゆえ、意識して人の姿にはならんようにしているのだ」という答えが返ってきた。
食事が一段落した頃、俺は意を決して、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「……恐れ入りますが、一つお聞きしても? 生まれついて、竜の姿にしかなれない竜がいると耳にしたのですが……」
ルーサーに雇われているレアのことだ。
その瞬間、竜王の眼差しがスッと温度を失った。
怒っているわけではない。見下しているわけでもない。
ただ、絶対的な上位者が、その事象にどう対応すべきかを純粋に冷徹に計算しているだけの目。
それゆえに、背筋が凍るほど恐ろしかった。
「……あれは、不便なものでな」
竜王は淡々と語り始めた。
「食事の問題があるし、教育の問題もある。人の肉体であるうちは、子どもが多少暴れても大したことはない。だが、最初から竜の姿では、じゃれ合っているだけでもそれなりの被害が出てくる」
効率と管理。それが竜王の視点だった。
「もし、今後……人の姿になれぬ者が増えてくるようならば……」
そこで、竜王は言葉を切り、俺から視線を外した。
「まあ、これ以上はそちらには関係のない話だ」
ぴしゃりと、見えない扉が閉められた。
ただの奇病や差別というレベルではなく、竜族の社会基盤を揺るがしかねない、結構な問題として捉えられているらしいことが窺えた。
◇◇◇
謁見を終え、俺たちは再びズワルトの背に乗って帰路についた。
重い情報を抱え、俺もカーミラも無言で風に吹かれていた。
「おい」
不意に、飛んでいるズワルトが首だけをわずかに後ろへ向けて声をかけてきた。
「このまま、まっすぐ帰ってもよいが……それなりに大きい都市の近くを通る。土産物を買うのはどうだ?」
「え?」
監視役としての役割を押しつけられて不機嫌かと思いきや、意外と気を利かせてくれる提案だった。
あるいは、それを口実に息抜きをしたいだけという可能性もある。
なにせ、俺だったらそうする。確実にする。
「あ、ああ。せっかくだし、頼む」
「よかろう」
いきなり都市の内部に降り立つことはせず、ズワルトはゆっくりと高度を下げ、地上にある巨大な城壁都市から少し離れた、見晴らしの良い平原へと静かに降り立った。




