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アイ・マイ・シー  作者: 津久美 とら
第六章・見えざりしひと
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第六章・見えざりしひと(1)

 雨の気配の中で、シロの思考は同じところを回り続けていた。

 何をどう仮定しようともそれは彼の立てた仮説に過ぎない。精神疾患について調べ始めたときと同じく、事実や本質といったものは仮説と思考の外に存在するのだ。それらは詰まる所、笠原アンジュ本人にしかわからない。


――お腹空いたな。腹が減っては戦はできない。


 空腹も相まって、頭はろくに働いてくれない。いずれにせよ、彼の中に渦巻く不快感を今すぐどうこうすることはできそうになかった。

 スマートフォンの画面をぼんやりと眺める。液晶のゴシック文字が十七時十二分を報せていた。雨が降りはじめるのが先か、家族の迎えが先か。

 川田家の夕食は特別なことがない限り、十九時半からと決まっている。”規則正しい食事が健全な心身を育む”という父の理念によるものだ。ゆえに基本的に父は十九時には帰宅するし、母もそれに合わせて日々のスケジュールを立てている。

 しかしシロは今現在の自分自身を(かえり)みたとき、果たして両親のその理念と努力が功を奏しているのか判然としない。平凡を疎ましく思い非日常に愉悦を覚えている自分に、”健全な心身”が育まれているとは思えなかった。


――かなり遅めの思春期かな。


 思い起こせばシロにはその年齢になれば当たり前に訪れる、思春期らしい苦悩や葛藤に相対した記憶が無い。成績に思い悩むことは無く、人間関係にも問題は無かった。せいぜい好意を寄せる女子生徒への接し方について当惑した程度だ。

 いわゆる中二病とも全くの無縁であった。やたらと大人を敵視したり、いたずらに世を儚んだりもしていない。教師や両親を苦慮させることのない、少数派の子どもだった。クラスメイトたちを常に観察しその行為に沈潜していたこともまた、少数派たる所以である。


 現在彼の心に潜む非日常への期待が本来思春期ごろに芽生えるべきものであるとするならば、両親の理念と努力は実っているとも言えるし一切実っていないとも言える。

 しっかり物事の分別がつくようになってからその様な思いを抱いたことは、彼にとってもその周囲にとっても幸福であろう。なれどある程度の知識や行動力が身に付き、自我の形成も殆ど済んでしまった今になってからその思いを抱くことは不幸でもある。思考も行動も、存分に傾注できてしまうからだ。そしてそれは、シロの日常生活を確実に寝食している。

 とうにスリープモードになっていたスマートフォンが、通話の着信を表示した。前触れなく明るくなった画面に目が眩む。


――ゼロハチゼロ……。誰だ?


 表示されている数字は家族や知人のものではない、心当たりのない携帯電話の番号であった。


「もしもし」

『あ、えっと、川田さんですか』


 それは少女の声だった。まだ年若く、幼さの残る声。その声は何かに怯えるかのように、微かに震えていた。


『あの、アンジュです』

「……アンジュさん?」


 それは彼がこれまで聞いたことのないアンジュの声だった。

 落ち着いてもおらず、中性的でも蠱惑(こわく)的でもない。十五歳の少女らしい声だ。


「どうしました」


 震えた声の少女に、こちらの動揺を気取られるのは避けたい。シロは精一杯の落ち着きを声に表した。

 年上であるという矜持(きょうじ)ももちろんあった。だが何より今は”そう”すべきだと、無意識が訴えている。動揺や恐怖といった負の感情は知らぬ間に、そしていとも簡単に相手へ伝染してしまう。


――携帯電話。


 笠原アンジュからの連絡は初めてだ。シロは彼女が携帯電話を持っていることすら知らなかったのだ。アルバイト募集の連絡先は固定電話の番号が記されていた。そうでなければさすがの彼も(いぶか)しんでいるところだ。


『あの、今日は、すみませんでした。ご迷惑をおかけしたみたいで……』


 アンジュは依然として微かに震えた声で、詫び言を述べた。電話の向こう側に、うっすらと涙を浮かべるこげ茶色の大きな瞳が見える。


「大丈夫ですよ、気にしていません」


 欺瞞(ぎまん)だ。当今、シロの思考の殆どは笠原アンジュが占めているのだ。気にしていないわけがない。


「珍しいですね、アンジュさんからお電話いただくなんて。わざわざ、それを言うために?」

『あ、いえ、あの』


 電話口の彼女は、いやにしどろもどろだ。声だけではない、その態度も初めて接するものであった。


「落ち着いて下さい。ゆっくりで大丈夫ですから」


 そう声をかけるならば、こちらも落ち着かねばなるまい。

 送話口を離し、湿った空気を吸っては吐く。シロはそれをゆっくりと三度繰り返した。

 事実、彼は落ち着かねばならなかった。思わぬ形で笠原アンジュの新たな側面に逢着(ほうちゃく)している。

 首から上が異様に暑い。手のひらにはじんわりと汗が滲み、スマホが滑り落ちてしまいそうだ。耳の奥では強く甲高い心臓の音が響いている。目はと言えば空へ向いたり木々の根元へ移ったりと、留まるべき所を見つけられない。

 畏怖に近い興奮と歓喜に似た興奮とが、全身でせめぎ合っていた。


『お話ししたいことがあって、その』

「話、ですか。はい、なんでしょう?」

『あ、いえあの、できれば電話では……』

「ええと、では次回伺ったときに?」

『それも、あの』


 随分と歯切れが悪い。だが彼女の言わんとすることを、シロは充分に了解していた。しかしそれは今ではない。今の彼に、他人の話を冷静に聞けるようなゆとりなど全く以て無いのである。


「そうですか。ただ今からではちょっと、アレなので」

『はい……』

「明日でも大丈夫ですか」

『あ、えっと、大丈夫だと思います』

「では明日、また同じくらいの時間に伺いますね」

『はい、すみません、よろしくお願いします』


 通話を終える直前の笠原アンジュはどこか名残惜しそうな、消え入るような声だった。

 思わず口をついて出た指示語に、幸太郎の笑い顔が思い出される。指示語は幸太郎の専売特許のようなものであった。

 興奮の中に安堵と緊張が入り込んできている。手当たり次第にいろんな色の絵の具をぐちゃぐちゃと混ぜたような、得も言われぬ気持ちの悪さだ。


「気を付けろよ」


 そう言い残して、親友はいなくなった。

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