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アイ・マイ・シー  作者: 津久美 とら
第五章・牛歩の歩みに似て非なる
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第五章・牛歩の歩みに似て非なる(8)

――笠原アンジュのあの様子を統合失調症の幻覚・幻聴であるとする。しかし。


 シロは『しかし』の後に続くべき、それらしい言葉も記憶も見つけられないでいた。

 らしくもなく感情的になってしまった名残をまだ拭いきれていないのかと感じるほど、彼の思考は安定していなかったのだ。”引っ掛かり”なのか”見落とし”なのか”忘れている”のかすら、はっきりしない。


 徐々に夜が深くなり、スズムシの鳴き声がそこかしこから聞こえてくる。本来なら気持ちが落ち着くはずの山中。しかしジィジィと大きくなっていくその声が、かえってシロの思考を追い立て惑わせた。

 空は藍色と薄青色が半々になっている。厚みを増した雲が邪魔をして、一等星の位置はもうわからない。雨の気配は着実に近づいてきていた。


――土砂降りになられると困るな。


 できることなら澄んだ空気の中で考えを巡らせていたかったが、濡れ鼠になるのは避けたいところだ。

 幸太郎の死以降、母と姉はシロに対して異様なほどに過保護だった。遅い時間に濡れそぼって帰宅しようものなら、一も二もなく彼の精神状態を深憂(しんゆう)するだろう。


――連絡だけ入れておこうか。


 スマートフォンの画面に自宅の電話番号を打ち込む。未だに使い慣れないこの機械の中から電話帳を探し出すことは、彼にとって一苦労なのである。

 無機質で電子的な呼び出し音が鳴る。自然に囲まれたこの場所には、それはあまりにそぐわない音だった。


――出ないな。


 普段なら数回のコールで誰かしらが応対するはずだ。留守電にも切り替わらない。何かあったのだろうか、母の携帯に掛けなおすべきか。そう思案しているうちに、コール数は十五を超えた。


『もしもし?』


 聞こえたのは母でも父でもない、若い女性の声だった。笠原アンジュの姿が浮かぶ。『二の彼女』だ。


『もしもーし』

「もしもし……?」

『あっ、シロ? 何よびっくりしたぁ。無言電話かと思って気味悪かったじゃない』

「え、姉さん?」

『姉さんで悪かったわね。ちょうど今買い物から帰ってきたところだったの。もしかして何回か掛けた?』

「いや。出るまでだいぶ待ちはしたけど」

『あっそう。なぁに、遅くなるの?』

「ああ、うん。バス一本逃しちゃって。今歩いて……」

『ええ? 着くまでに一時間はかかるじゃない! 仕方ないなぁ、迎えに行ってあげる』

「え? いや、いいよ別に。ていうかなんで姉さんが」

『今日の晩ご飯はみんなですき焼きなの。一時間も待ってられないし雨も降りそうだし、そこに居て』


 姉は半ば押し切るようにして通話を切った。シロは薄暗い山中で、否応なしにあと二十分以上は家族の到着を待つことになる。


――笠原アンジュがうちの電話に出るはずがないのに。


 彼が今歩いている坂道が、笠原邸から山の麓までの最短距離だ。もう一方の道からでは山の向こう側まで下って、山すそをぐるりと迂回しなければならない。

 これまでバス以外の車はこの道を通っていない。仮に山の向こうから車で行き来しようとしても、片側が一車線分あるか無いかの狭い坂道だ。Uターンはできない。笠原邸にロータリーなどと言うものは無く、いくら門扉が大きくとも車一台が通れるほどの幅ではなかった。

 笠原アンジュがシロの自宅に居るはずなどまず無いし、居る理由も無いのだ。


――笠原アンジュ。笠原。


「全て、本当の私です」

「私の名字は笠原ではありません」


 シロはその言葉の真意を、対人操作からくる方便であると考えていた。わざと疑問を深めるように仕向け、自身の存在を意識させる。自分はまんまとそれに引っ掛かり踊らされていたのだ。彼はそう結論付けていた。

 彼女が境界性パーソナリティ障害であろうことが、殆ど確定事項だったからである。

 だが状況が変わってきた。境界性パーソナリティ障害の可能性と統合失調症の可能性が、どちらも同程度の割合で考え得るのだ。そして言葉の真意が方便でなく別にある場合、大きな疑問と違和感が残る。


 雨の気配と緑のにおいを吸い込む。見上げた雲は相変わらず分厚く、スズムシはひっきりなしに鳴いていた。

 シロはこれまでのアンジュの様子をゆっくりと、しっかりと思い起こした。

 笠原邸での『一の彼女』。一番情緒が安定していると思われる状態だ。『二の彼女』は笠原邸で会う時とS区で遇った時、話し方や仕草などの印象に差異は無い。『三の彼女』。昨日までなら、笠原アンジュが一番感情を剥き出しにしている状態であったはずだ。

 では今日のあの状態は、どう解釈するべきか。単に感情の乱れと取るか、或いはやはり彼女にだけ何者かの姿が見え声が聞こえていたのか。


――差異が無いだって?


 自宅では車いすで生活をしている彼女は、S区ではその足で立って歩いていた。

 短期間にもたらされた情報の量に圧倒され、彼はひどくわかりやすいはずのその事実を見落としていた。見えているはずのものを見ていなかったのだ。


「歩いてたよ、普通に」


 幸太郎も、確かにそう言っていた。

 彼女、笠原アンジュは歩くことができる。彼女の下肢に障害があるわけではないのだ。にも関わらず自宅での彼女は車いすを使用し、広い屋敷の中の狭い地下室を敢えて自室としている。


――私宅監置。


 現代ではおよそ聞き及ぶことなどない、時代錯誤な単語がシロの脳裏をかすめた。

 しかしその単語こそが、笠原アンジュの精神病様の一端を担っている。彼はそう確信めいたものを感じていた。

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