第五章・牛歩の歩みに似て非なる(7)
「帰って。今日のシロさんは嫌い。もう帰って」
こげ茶色の瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。しゃくり上げながら涙を拭うその姿は、まるで小学生のようだ。
アンジュのその様子に、後悔の念が強くなる。『一の彼女』『二の彼女』どちらと話をしていても、彼女がまだ年端も行かぬ少女であることを失念してしまうのだ。それがシロの過失であることは火を見るより明らかだった。
「あの」
幼女をやり込めてしまったかのような感覚が彼を襲っていた。弁明し、この場を何とか納めなければ。しかし泣きじゃくる少女を眼前に、冷静な声掛けなどできそうになかった。そもそも泣いている女性に対し、どのように声を掛ければ良いのかもシロにはわからないのだ。
――しかし、もしかすると。
境界性パーソナリティ障害の症状”不安定な感情や行動”である可能性は無いだろうか。もしくは”対人操作”の新たな形である可能性は。
ともあれかくもあれ笠原アンジュの今の状態は、この二ヶ月近くでシロが初めて目にするものであった。
――考えがまとまらない。
自分の感情ですらまともに自制できなかったのだ。体全部を使って感情をぶつけてくる彼女に、かけて良いとされる言葉も資格も彼は持ち合わせていない。
適切な心理的距離を数段飛びで放棄し、意識していたはずの強固な姿勢は自らが崩した。あまつさえ彼女からの信頼をも破綻させたのだ。この現状を丸く収められるような、都合の良い打開策は無いのであった。
「もうやだ、みんなあたしをいじめるんだもん! みんな嫌い!」
「え?」
「うるさいうるさいうるさい!」
「アンジュさん、落ち着いて」
「いやだ! 来ないで! 帰って、早くどっか行って!」
アンジュは瞼を固く閉じて耳を塞ぎ、うるさい帰れと泣き叫ぶ。彼女のその指示に従う以外の選択肢を、シロは見つけられなかった。
錯乱状態とも取れる笠原アンジュとその引き金となったであろうシロ。それは最悪の組み合わせであるとしか、言いようが無かった。
* * *
まだ薄明るい空に、一等星だけがぼんやりと瞬いている。この時間では月は低く、山中の坂道からは見られない。湿度の高い空気にはほのかに雨のにおいが混じっていた。
定刻通りにバス停を通過したらしい路線バスが、坂道を下るシロの横を颯爽と走り抜けた。
本来ならば麓までバスで十五分、その後徒歩で二十分ほどの自宅までの道程。笠原邸から自宅までを徒歩で行くと、下り坂とは言えたっぷり一時間以上はかかる。それだけの時間コンクリート舗装された道を平べったいスニーカーで歩けば、帰宅する頃には膝や踵が悲鳴を上げているだろう。
それでもシロは自宅に着くまでに少しでも頭を冷やし、考える時間を稼ぎたかった。
泣き叫ぶ笠原アンジュの姿が何度も思い起こされる。
両手で耳を塞ぎ、声を張り上げて拒絶の態度を見せた彼女。
「みんな嫌い!」
あの場にはシロしか居なかった。屋敷全体で考えても、シロとアンジュしかいないはずだ。
彼女は両親とは離れて暮らしていて、高校へは通っていない。日常的に接点があるのはシロと、週に何度か訪れるというお手伝いさんのみだ。
「いついらして、いつ帰られるのか。スケジュールも知らないんですよ」
二ヶ月ほど前、アンジュはそう言って笑った。彼女とそのお手伝いさんとの親密度が今現在どの程度のものなのか、彼にはわからない。
だがS区での振る舞いを除けば、彼女の生きる世界がとても狭いことは確かである。接する可能性のある人物を片手で数えられる程度には。
――みんなって誰だ。
あの時のアンジュの様子は、他にもそこに人が居るかのようだった。シロ以外の人間の姿が見え、声が聞こえているかのようだった。
「来ないで!」
彼女は確かにそう叫んでいた。しかしシロは、腰かけた椅子から少しも動いていない。それどころかあまりに急なアンジュの変化に、身動きすらまともに取れなかったのだ。
しかし彼女の視覚と聴覚によれば、シロ以外の何者かがその場に存在していたと考えられる。あの渾身の拒絶を物ともせず、執拗に近寄り話しかける何かが。
――幻覚と、幻聴?
シロが一貫して強固な姿勢をとっていたことで、笠原アンジュの態度にも変化が見られていた。その事実も相まって、彼の中では笠原アンジュが境界性パーソナリティ障害を抱えているであろうことは殆ど確定していたのである。しかしここに来て、その確定事項は思いがけず揺らぎ始めていた。
境界性パーソナリティ障害では一過性のパラノイア等現実検討ができない、つまり自分の考えが現実的なのかどうかの判断ができなくなる場合がある。あくまで一過性であるため、境界性パーソナリティ障害の患者が恒常的に幻聴や幻覚といった精神病症状を訴える事例は少ないとされる。
――統合失調症。
精神障害と精神病について調べ始めたときに、シロが自身に対して疑った病だ。
統合失調症と境界性パーソナリティ障害は症状の類似点が多く、誤診がされやすい。これら二つの疾患の類似は専門医でも惑わされるのである。
経験を積んだ医師でもそうであるなら、素人のシロが見誤るのは当然であるとも思われた。
――待て。何か、何かを見落としている。
夜の帳が降りかけスズムシが鳴き始める中、シロは記憶を手探った。自分の記憶であるのに、露いささかも見通しがきかない。
家路の歩を進める余裕はとうに無くなっていた。
空にはいつの間にか薄く雲がかかり、雨のにおいは濃くなっている。




