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アイ・マイ・シー  作者: 津久美 とら
第五章・牛歩の歩みに似て非なる
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第五章・牛歩の歩みに似て非なる(6)

 彼は迷っていた。笠原アンジュに何をどこまで質問をし、進言すべきか。それとも或いは、このまま何も言わずにいた方がよいのかと。


「シロさん、どうしたの?」

「えっ、ああ」

「何か困ってるの?」

「困ってる、というか……」

「というか?」

「……」


 『二の彼女』だ。先ほどまではいつも以上ににこにこと上機嫌であったが、今はシロを心底心配しているような様子だ。


「あたしには話したくない?」


 車いすに座る少女は、悲し気な上目遣いでシロを見た。若干前のめりになった上体は、彼の言葉を聞き漏らすまいとしているようだった。その姿に妖艶さは感じられない。


「むしろ、アンジュさんは困っていることはない?」

「え?」


 笠原アンジュが境界性パーソナリティ障害であったとするならば。症状として性依存があるとするならば。困り事、悩み事という点においては確実に彼女の方が重大であろう。


 現状、シロが行動を起こして笠原アンジュの助けとなる手立ては無い。彼女は未成年であり、助けられるのは保護者か行政しかないのが実際のところだ。

 しかし笠原アンジュの両親は生活を共にしておらず、シロは未だその姿を見たことが無い。もし虐待と思しき痕跡でもあれば、通報をして行政から医療機関へ繋がることも期待ができた。だが彼女にその様子は一切見受けられない。為す術が無かった。

 笠原アンジュに対し彼が今できる事は、彼女の話相手に徹すること。アルバイトとして本来の役目を全うすることだけなのである。


「どうして?」

「いや……」


 彼女は思い当たる節などまるで無いと言った風に、大きな目をさらに大きく見開く。


――自覚が無いのか。そんなことがあり得るのだろうか。


 精神状態や人間関係の不安定さに自覚がないだけならばまだ理解ができる。『他の人も同じであるはずだ』と自分自身に言い聞かせ、納得させることも可能であろう。しかし性依存について全く苦悩していないなど、シロには到底考えられないことだった。


 依存症状のある境界性パーソナリティ障害の患者は、往々にしてその依存に悩み苦しめられる。

 どんなに頭で『してはいけない』『やめなければならない』と理解をしていても、心と体はその命令を聞こうとしない。それ故にうつ病を併発したり、藁にも縋る思いで医療機関へ駆け込んだりするのだ。

 その一方で自ら助けを求めることができず、周囲の人間からも手を差し伸べてもらえない患者もいる。そういった患者に最後に訪れるのは、心身の死である。


「六月中旬に、S区で遇ったでしょう」


 その言葉はシロにとって賭けだった。『二の彼女』は彼に信頼とも呼べる感情を持っていると思われたからだ。この話題を持ち出すことは、その信頼を破綻させかねない。


 シロはこれまで敢えてS区の話題を持ち出さなかった。彼自身心の整理に時間が必要であったからだが、何より笠原アンジュを傷つけることになりはしないかと危惧したためだ。自身の好奇心を満たすためだけに、苦しんでいるであろう人間を更に傷つけ苦しめるような趣味はない。

 また、その話題に触れることで『三の彼女』が現れることも考えられた。それの意味するところは、シロへの拒絶である。そうなると多少なりとも縮まったはずの心理的距離が再び離れてしまう。元の木阿弥だ。なるべくならば避けたい事態であった。


 依然として『二の彼女』のおもねるような仕草はあった。なれど通用しそうにないとわかれば、彼女はすぐにそれを引っ込める。シロの倫理観と自制心のほうが彼女の色香を上回り、僅かではあるが変化を与えたのである。そしてそれが一種の信頼感へと繋がった。

 強固な姿勢を見せること。境界性パーソナリティ障害の可能性のある者に対し、周囲が一番にとるべき対応である。


――鬼が出るか、仏が出るか。


 自覚と問題意識の有無を確かめたかった。決して暑くはない室内。シロの額にじんわりと汗がにじんだ。

 緊張の走る脳の片隅で、好奇心が声を上げている。


 何を恐れる。なぜ臆する。彼女を紐解くことは決定事項、今さら覆せない。親友の骨にもそう誓ったはずだ。訊け。掴め。笠原アンジュの正体を!


「S区?」


 少女は純真無垢を体現したかのような声と表情で、そう問い返した。それは十五歳という年齢より、些か幼い印象をを感じさせるほどだった。


「何のこと?」


 好奇心の声は、もはや怒号となってシロの脳に響き渡っていた。


 しらばっくれる気か。何を隠匿しようとしている。同情など無用だ。訊け。暴け。その腹の内を明かしてやれ。あの口を開かせろ。そうすれば疑問は解消される。それこそが目下最大の目的であったはずだ。日和るな川田武白!


――黙れ。落ち着け。急いては事を仕損じる。


 腹の内を探ろうというときに、好奇心と焦りは最大の敵である。ましてや相手は手負いの虎だ。虎をつつけば、ヘビが出て来るだろう。それらの感情に身をゆだねることが悪手以外の何者でもないことを、シロは嫌というほど体感している。

 ヘビと初めて対峙したあの日。シロは自身の好奇心に囚われ、結果殆ど何も得ることができなかった。ほんの少し得られたのは笠原アンジュの多面性とその恐ろしさ、そして精神疾患を抱えているのではないかという新たな疑念だけだった。

 あの日、シロは笠原アンジュに負けた。その敗因は他でもない、彼自身の好奇心と焦燥である。


「……覚えてないかな。六月十六日の日曜日。夜八時ごろ、S区で僕と遇ったでしょう?」

「わからない」

「きみは男性と腕を組んで歩いていた」

「シロさん、なんか怖いよ」


 アンジュのその表情は、怯えたように歪んでいる。

 実際シロは苛立っていた。それは好奇心の怒号のせいでもあったし、好奇心そのものへの怒りでもあった。しかし一番の理由は、目の前の少女が思いがけず白を切ろうとしていたからだ。いっそヘビが出て来る方がまだマシだと思われた。

 シロの知るこれまでの彼女であれば、ここまでしらばっくれることは無いはずだ。『二の彼女』ならば無理やりにでも話題を変えただろうし、『三の彼女』が出て来るならば理性的に話ができると踏んだ。


 対して笠原アンジュは叱られた子どもの様に怯え、まるで被害者のような態度でいる。彼には理解できなかった。彼女の言動は、予想の範疇も理解の範疇も超えていたのだ。

 怒りの矛先は否応なしに少女へと向かってしまう。シロは、殆ど八つ当たりであるその語気を抑えられない自分にも苛立った。


――だめだ。落ち着け。


 多くの苛立ちに呑まれ、理性の声はひどく小さい。


「きみは男性と腕を組んで歩いていた。僕に気付いて駆け寄ってきたでしょう」

「知らない。シロさん、どうして怒ってるの」

「知らないはずはない。きみは、きみからおれに話しかけたじゃないか。内緒にしてくれと。そしてこうも言った。次は私の家で会おう。なぜ知らないなんて嘘をつくんだ。こんなにあからさまな嘘をつかれて、少しも怒らない人間なんていないでしょう」


 一気に捲し立ててから、今度は後悔がシロを支配した。落ち着かなければと自制したはずなのに、直後にこの有様だ。


「嘘なんてついてない。本当に知らないの」


 笠原アンジュはすっかり怯え切っていた。弁明の言葉は涙声となり、その華奢な身体は小刻みに震えている。

  『三の彼女』は一向に姿を現さない。


――なぜだ?


 後悔の中で、理性の声が徐々に高まる。


なぜヘビが出てこない? 泣くほどにやり込められるなら、なぜ拒絶をしなかった? これまでの彼女ならそうしたはずだ。何かがおかしい。何だ。探せ。何がちがう。


 怒りや苛立ちは静まり返り、警鐘のような理性の声だけがシロの脳に響いている。得体の知れない何かが、ざわざわと彼の精神を波立たせた。脳と心臓の早鐘を聞きながら、必死に相違点を探す。

 脳も心臓も精神も落ち着く気配はなかった。落ち着かせる手段も、見当たらなかったのだ。

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