11、開かれた舞台
二十五階は、それまで以上に静かで、重苦しい緊張感を湛えていた。一度来た場所はずなのに、あの時とは全く違う空気に、皐氣は思わず息を止めてしまった。そして、深くため息をついた。そんな彼を尻目に、溯羅は用心深く周囲の様子を窺った。埋め込まれた機械が、彼の視覚、聴覚、神経を刺激する。もう、恐れない。この力を。世界が変われば、この機械ともおさらばできる。もう少しで使えなくなる力ならば、使える時に使っておかなくては。
「どうした、黙って」
皐氣の声が、普段の二倍くらいの大きさで聞こえる。五月蝿いとは思わない。普通聞こえないような回りの音も、敏感に聴覚が捉え、脳に伝える。いる。ドールと、璃里が。近くにはいない。別行動しているのか、心拍音が全く別の場所から聞こえる。璃里は、管理室のある部屋の周辺。ドールは、自分達の様子を探っているのか、近くの柱に化けている。彼は、人の他にも、この世の万物に化ける事が出来る。だが、一つ条件があった。それは、化けるものに触れなければならない事。そうして、そのものの特徴を捉え、真似するのだ。化けたように見えるのは、それほどにそっくり真似るからだった。
「無視するなよ、溯羅」
「ゴメ、ちょっと回りの様子、探ってたんだ」
「黙ったままで?突っ立ったままで?」
「そう、黙ったままで。突っ立ったままで」
冷やかすつもりはなかったのだが、皐氣はふくれっ面で、のしのしと歩き出してしまった。しかも、これは非運か。ドールが化けている柱の方に向かって。
「待て、皐氣!そっちはダメだ!」
「はあ?」
彼が振り返ると同時に、ドールが姿を現した。と言っても、本当の姿ではなく、何かに化けた状態で。それは、大きな剣だった。溯羅の持っている剣と同じものだった。そう、彼は一度、ドールに剣に触れられてしまった事がある。用心していたつもりだったが、やられてしまった。
「伏せろ、皐氣!」
「ふぉえ!?」
言葉と同時に、溯羅は腰に挿していた鞘から短剣を抜き、投げた。それは、皐氣に向かって飛んでいったが、彼はそれをギリギリで避けて、ドールの刃に当たって弾かれた。そのせいで、彼はバランスを崩し、床に倒れた。
「ててて……」
「大丈夫か、皐氣」
すばやく彼をドールから放すと、溯羅は聞いた。
「大丈夫じゃねぇよ、いってぇなぁ。何か知らせたい時は、言葉にしろ。言葉に」
「ゴメンな、気が付いたら直しとく」
「気が付く前に、直しとけ」
「話をしている暇なんて、お前らにあるか?」
二人が機械的なその声に振り向くと、銀に輝く刃が飛んできた。先ほど溯羅が投げた、短剣だった。それは二人の間を切って、壁に刺さった。
「これだけだと、思うなよ?」
どこかで聞いた事のある声。その声の主がいつの間にか、皐氣達の間に割り込んできていた。手に持った大剣は、一人の人間を狙っていた。皐氣だ。
「皐氣!」
横薙ぎに大雑把に振られる剣。それを後ろに下がって避ける皐氣。学ランの前の部分が、少し斬られた。気にしている暇もなく、次の一手が繰り出される。次は上から下に大きく振って。それを横に逃げると、そちらに向かって突いてきた。さらに横に逃げたが、少し脇腹を切られた。薄っすらと白いワイシャツに血が滲む。
「つぅっ」
痛いと言ってはいられなかった。次から次へと、いろいろな方向から繰り出される剣を、避けるので精一杯だった。避け手も、避けても追ってくる剣で、とうとう壁に追い込まれてしまった。
「ヤベッ!」
「終わりだな」
そう言った声は、やはり聞き覚えがある。そして、大剣を持つ、その姿も。
振り下ろされる剣。唇を噛み締めて、ぎゅっと目を瞑る。斬られる事を、皐氣は覚悟した。
―――ガキィン
重い鉄同士がぶつかり合う音がする。だが、皐氣の体に痛みはない。こわごわ目を開けて見ると、頼り甲斐のある背中が見えた。
「俺の事、忘れてね?」
溯羅だ。ドールが自分を放って置いて、皐氣ばかり狙うものだから、少々怒っているようだ。
そして、皐氣はやっと気付いた。思い出した。襲ってきた者は、溯羅だった。正確に言えば違うのだが、外見と力だけを見れば、彼だった。間違いなく、彼なのだ。だが、そんな皐氣を助けたのも彼である。格好も、力も、剣も同じ、彼なのだ。だが、何故、溯羅が二人いるのだ。皐氣の頭は、ショート寸前だった。
「なんで、溯羅が二人?双子か?」
「こんな時に、ふざけるな皐氣。双子な訳ねぇだろ!こいつはドール。何にでもなれる奴だ。だから、今俺の格好をしてんだよ」
「……そうだったのか」
「分かれよ!フツーに!!」
皐氣への怒りを、ドールに向けて発散する。力で勝り、ドールを突き飛ばした溯羅は、鼻息を荒くしていた。怒りのせいからだった。
「……。本物は、お前……だよな?」
「そうに決まってんだろ!何故に悩む!」
「記憶力とかそういうの……俺、自信ねぇからさ」
「そういう問題じゃねぇ!」
酷く幼稚なやり取りに、ドールは溯羅の声で高笑いした。溯羅は嫌な気分になった。
「滑稽だよ、滑稽。お前ら、まさに馬鹿だな」
「うっせぇよ!」
言い返す皐氣を放って置き、溯羅は考えていた。このまま二人で足止めされている場合ではない。少しでも、先に進まなくては。
「皐氣、聞けよ」
「言われなくても、聞くつもりだよ」
皐氣の隣に立って、溯羅は続ける。
「俺達は、ここで止まってちゃ、いけない。先に行かないとな」
「そうだ」
「ここは俺に任せろ。何とかする」
「何とかするったって、方法はあんのか?」
「なんの?」
「両方」
一歩、溯羅が前に出る。ドールが楽しそうに哂った。自分があんなふうに笑っていたらと思うと、彼は吐き気がしてきた。
「やるだけやるさ」
「じゃ、頼んだわ」
背を向けて、走り出そうとする皐氣を引き止めた。
「何だよ」
「この先にも、敵はいる。そいつが使うのは、幻術だ。なるべくあたりの煙は吸うな。余計に幻術にはまり、そのまま殺されるぞ」
「そりゃ、恐ろしい。覚えておくよ」
「忘れんなよ」
先に進みだした皐氣にではなく、ドールは溯羅に向けて、剣を構えた。彼がニタッと哂うと、溯羅はニヤリと笑った。
「生きて帰れると思ってるのか?あいつは」
「思ってるだろうさ。帰ってくるよ、皐氣は。絶対」
その声は、皐氣にも聞き取れた。
「聞こえるか、皐氣!もしも死んだりしたら、一生お前を恨むからな!」
「分かってるよ!」
遠くで微かに聞こえる声。もう聞こえなくなるだろうと思い、溯羅は言う。
「約束だぞ、皐氣。幻術なんかに、心を砕かれんじゃねぇぞ。……絶対に死ぬなよ」
その声は、しっかりと皐氣に聞こえていた。だが、あえて彼はその声に応えなかった。
「はじめるか?真似ピエロ」
「はじめよう。機械人間」
再び、思い金属音が、その場に響き始めた。
*
霧が出ている。だが、ここは、外ではない。建物の中なのだ。だから、霧がでる事なんてない。霧じゃないとすれば、溯羅が言っていた事だ。もう一人の敵が使う、幻術。注意しなければ。確か、あまり煙を吸わないようにしろと言っていた。その煙とは、この霧の事だろう。
「ハンカチ、ハンカチ……っと」
学ランのウチポケから、ワイシャツの胸のポケットまで調べたが、見つからない。ズボンのポケットにも入っていない。試しに斬れた学ランのポケットを見てみる。
「……」
入っていた。珍しく。もしかしたら、母が珍しく入れて置いてくれたのかもしれない。何かの気まぐれで。何かいい事があって。破れたハンカチは宙ぶらりんで、皐氣の前をぶらぶらしていた。紙一重で繋がっているそれは、引っ張れば簡単に千切れそうだ。
それでもないよりはましだと思った皐氣は、口元にそれを当てて、用心深く進んでいく。そして、進むに連れて、霧も濃くなっていく。敵に、管理室に、近付いて行っているという証拠だ。濃い紫色の霧は、視界を悪くする。そのせいで皐氣は、何度も額を柱にぶつける事となった。
何回目だろうか。額をぶつけ続けて、数分後。漸く人の姿を見る事が出来た。
「いらっしゃい。待っていたわ、皐氣翠」
「いきなりフルネームッスか?ま、いっか」
ハンカチで口を押さえているせいで、声がくぐもって聞こえる。相手に失礼だとは思わない。何せ、彼女は敵なのだから。黒い、体のラインが良く出るスーツを着、霧の中に立つ彼女に、違和感があった。場違い。その言葉が、しっくりとくる。
「すみません。私の紹介がまだでしたね。私は、璃里。伯爵様に仕える者ですわ」
「伯爵様?」
「知りませんか?ここに来てから、一度はその名を耳にしたはずです。ダイラ様の名を」
「伯爵様ってのが、ダイラって野郎か?」
「汚い口の利き方ですね。だから貴方は、この世に相応しくない」
「それ、ぶっちゃけ、かんけぇなくね?口の利き方なんて、どうだっていいんだろ?」
フフッと、妖艶に哂った彼女は楽しそうだった。腕を組み、唇に添えられた指が、皐氣を誘っているようだった。だが、皐氣は動揺も何もせずに、ただじっとしていた。
「よく分かっているようね。だけど、この世に相応しくないという事は、本当の事」
「……分かってら、そんな事」
「なら、話は早いわ」
長いブロンドが風に翻る。不思議に吹く風は、皐氣を包み込む。甘い匂いが、鼻を擽った。眠い。不思議とそう思った。風に誘われるように、どんどんと眠くなっていく。目が開けられていられない。懸命に眠気と戦うが、さらに強くなっていくだけだ。足に力が入らない。地面が揺れているような感覚に陥る。幻術に掛かっているのだ。ハンカチ如きじゃ、所詮役に立たないという事か。立つ事すらも、辛くなってきた頃。遠くで声がした。
「貴方は、生きて帰って来られるかしら?」
膝の力が抜けて、床に膝を付く。立てない。意識が朦朧としてくる。起きろ、起きろ。心の中でどんなに叫ぼうとも、その意志に反して体は重くなる。倒れてしまいそうだ。
俺、何してるんだ?
ふと、そんな思いが心に浮かび上がった。それを境に、皐氣は意識を失った。




