第二章⑩
理学部の実験塔は大学の敷地の中央にある、芝生のグラウンドの北側に位置する円筒状の建物だった。五階建てくらいの建造物を想像していたのだが、それよりはずっと低い。その代わり横幅があり、ドームのような構造をしている。窓ガラスの並びから考えると二階建てだろうか。屋根は卵の表面のように丸みを帯びている。
水園はシンディの後ろから、南側のドアから実験塔へ入っていく。とても解放感のあるスペースが広がっているのだろうなと想像したが、この想像も違っていた。両脇を白い壁に仕切られた細長い通路がドアから真っ直ぐ続いていた。奥には螺旋階段が見えた。目を凝らすとさらにその奥に水園たちが入ってきたドアと同じようにドアがある。通路を進んでいくと両側の壁にスライド式のドアを確認。ドアの中央に縦に擦りガラスがはめ込まれていてそれぞれ中から明かりが漏れていた。それにしては音が聞こえない。シーンと静まり返っている。時折、シンディが水園を振り返る。「どう?」とでも聞きたい顔をしている。水園はなんとも言えない。比較の対象が分からない。
水園はシンディの後に続いて螺旋階段を登った。目的の内田先生の研究室というのは二階なのかと思った。そこまであがって、シンディは立ち止まって壁に立てかけられた、プラスチック製の棒を手にした。先に金属がついていて、その先は丸くなっている。引っかき棒のようだ。何をするんだろうと思ったら、シンディは若干低めの天井に向かって棒を持ち上げた。棒の先は天井の凹んだ部分を目指している。棒の先と引っかかる構造になっているらしかった。シンディは確かに引っかかったのを確認して、ひょいと引く。白い天井部分が手前にダランと落ち、人一人分が入れるくらいの隙間が生まれた。暗くない。二階と同じ明度の明かりは約束されているようだ。そしてどこかからかモータ音が聞こえてきて、その隙間から梯子がゆっくりと垂直に降りてきた。シンディは「どう?」とでも聞きたい顔をしている。水園はそれよりも、上に何かあるのか気になった。「この上に何があるの?」
「屋根裏」シンディは梯子を登っていく。
水園はその梯子の強度に不安があった。シンディが登りきるまで水園は下で上を見上げ、シンディのピップラインを眺めていた。白衣を着ていなかったらパンツが見えたかも思うと、とても残念だ。
シンディが上に登りきった。水園も登った。梯子の両側を掴んで、わざと体重をかける。ビクともしないしっかりとした作りだった。さすが大学の設備。安心して足を掛けて登り始める。でも、この梯子を登ったら、屋根裏だなんて変だ。でも、顔を出して屋根裏を見てみる。想像よりもずっと屋根裏じゃなかった。天井が低いけれど、十分立って歩ける高さがある。ただ狭い。エスカレータくらいの正方形のスペースだ。その四辺にそれぞれ扉があった。それぞれ違う色がついている。白、赤、黒、緑。シンディはノックして、白い扉を開けて中に入る。
水園も入った。そして部屋の構造を確かめるよりも先に、鼻を摘んだ。水園は香水売り。臭いに敏感なのだ。
弱くはないが。
強烈な刺激臭。
違う。
ただただ。
お酒くさーい。
「あ、お帰り、シンディ、」右手の方から声が聞こえて振り返ると腰くらいまでの高さの小さな冷蔵庫の前に、白衣を来た女性の姿があった。白衣の下は、ロンズデールのゴールドのロゴが輝く灰色のスウェット。とてもラフだなぁと思う。その顔もとても研究者とは思えないほど締まりがなくて、ピンク色で、声もトロットロで茶色い髪の毛もふわっふわだった。ただのアル中じゃねぇかって思った。「その娘が、水園シイカ? どうして鼻を摘んでいるの? 私がお酒臭いから? にゃははははっ」
突然陽気に笑い始めた。
シンディは首をすくめてしょうがないなぁという顔を水園にして見せた。「この人が内田先生、アル中なの」
「あ、てめぇ、」日本酒のワンカップを手に内田は声を低くして言う。「アル中って言ったな!」
「まあ、お酒を飲んでなくても飲んでいてもあまり変わんないんだけどね、あ、シイカ、今の先生は酔ってないから、勘違いしないでね」
水園は鼻を摘んだまま、内田を見る。
どう見ても酔っぱらいだと思う。
「まあ、座って」シンディに言われ、部屋を歩く。
部屋はドアから、ちょうど扇のように広がっていた。そして奥にいくに従って天井がカーブして低くなっていっている。確かに屋根裏だ。でも、屋根裏と言うには広すぎる空間だった。すぐ左手に内田の机があり、キャスタ付きで背もたれが複雑なデザインの高級感漂う椅子を挟んで、白い長テーブルが二台隣接していた。そこには普通のキャスタ付きの椅子があり、水園はそこに腰掛ける。シンディが紅茶を淹れてくれて水園の前にカップを置く。シンディは長テーブルの上のアルコールの缶と瓶とパックをすべてゴミ袋に放り込んでから水園の対面に座った。それまで内田は日本酒をチビチビと飲みながら、狐みたいに目を細くして水園を観察していた。水園は意識していないフリをするのがとても大変だった。
「その、件の香水は持ってきてくれたの?」内田が聞く。
水園は白い花の香水をポケットから取り出して、テーブルの上に置く。紫の瓶。まだ、買い手がついていないものだ。春だから皆お金がないのかな、って水園は思っていた。
「触っていい?」内田はしっかりした声で聞く。
水園は頷く。内田は触って、また聞く。「匂いを確かめていい?」
水園は頷く。品評会に参加している気分。そんな会に参加したことないけれど。「どうぞ」
「にゃははははっ」
内田は急に笑う。心臓がビクってなる。すぐに真面目な顔に戻った。発作のようなものなんだろうかって思って息を吐きながらシンディを見る。シンディは素知らぬ顔で論文のコピィに目を落としていた。水園は再び内田を見る。内田は瓶の蓋を開けて、鼻を近づけていた。くんくん、という感じに嗅いでいる。水園はその様子をじっと観察していた。静かにしていれば可愛い人だなぁと思った。
「なるほど、」この声は真面目だった。「これは、売れるね、よし、売ろう」
「いえ、もう売っていますけど」水園は答えながら、なんとも変なことを言うなぁと思った。
「ああ、そうだったね、にゃは、」内田は可愛い顔をする。日本酒を飲む。「あなたは素敵な香水売りの水園シイカちゃんだもんね、とにかく、コレは、確実に売れるよ、ビジネスになるよ」
「えっとその、どういう意味ですか?」
「あれ、シンディ、説明してくれてないの?」
「詳しいことは先生からって思って、」シンディは論文から顔を上げる。「そういうのはまだ、シイカには話してなくて」
「なるほど、まあ、要はだね、」内田は椅子の上で胡座を掻いて人差し指を立てる。内田はお医者さんが病院ではいているような底の柔らかいサンダルを履いていた。それが床に落ちて、内田の裸足が見えた。アル中なのに、爪には綺麗に色が塗ってあった。「私は現金が大好きなの、それで常日頃から金儲けの手段をいろいろ考えていてね、株をやったり、ギャンブルしたり、小説を書いたこともあったなぁ、でも、結局、現金はそんなに懐に入ってこなくて、自分の研究で一儲け出来ないかなぁって思ったときにだよ、ちょうど裏山で蝶を捕獲しているときにね、目印を見つけたんだよ、きっと、君がつけたものだと思うんだけどね」
「ええ、多分、」水園は頷いた。「青い星のマーク」
「うん、そう、私は何だろうなぁって思ってね、草をかき分けて目印に従って奥へ進んでいったんだ、少し気味が悪いなぁって思ったけど、好奇心が買った、しばらく進んで、あの場所に出たんだよ、白い花の場所にね、丁度、半年くらい前だったかなぁ、暑さの残る九月だね、」内田は日本酒を一口飲む。「私は珍しいものを見つけたと思ったんだ、一応私、講義で植物も教えているからだいたいその花がなんなのか検討がついたんだけど、でもね、こんなところにこの花が咲くはずはないんだけどなぁって不思議だったんだ、春先に咲く花のはずなんだけどなぁって不思議だった、ここに戻って私は図鑑を広げて調べてみたんだ、検討をつけたグリフォっていう花のページを見てみた、違ったんだ、花のカタチとかは似てるんだけど、付き方とか、巻き込み具合とかよく見ると全然違うんだ、じゃあ、なんだろうって、新種かな、私は興奮して、しばらくその場所へ通ったんだよ、ときどき君の姿も見たから、この娘が世話しているんだなぁって思った、でも、おかしかった、ビニルハウスに咲いているわけでもない白い花、それが秋にも、冬にも枯れなかった、何かあるって思って私とシンディは研究を始めたんだ、シンディはどうして咲き続けるのかに興味があって、どちらかと私は何か新しいものが作れるんじゃないかって期待したね、その流れで君とコンタクトを取るべきなんじゃないかって思った、何か知っているんじゃないかって思った、君とコンタクトを取ってよかった、君は白い花の謎は知らなかったけれど、素敵な香水売りだった、つまりね、シイカちゃん、今はビジネスの話をしているの」
「私の技術が欲しいってことですか?」
「そうです、頭の回転が早いね、将来は私の研究室に来てよ、いや、今すぐにでも推薦状を書いてあげよう、」内田は水園に顔を近づける。とてもお酒臭い。「とにかくね、私は大学の研究者で、ある程度の実績がある、メーカにその香水を持っていって取り引きすることが出来る、私のプランはね、まず、大学内に香水が大量生産できるマシンを作る、そして錦女のハッピィ・チェリィ・フェスタで売り出す、錦女以外の女子高生たちに認知してもらって噂を流してもらう、マスコミに認知してもらって、ある程度の風評が立ったところでメーカに持ち込んで交渉を始める、それが店頭に並んでヒットしたら、すごいよ、シイカちゃん、どうかな?」
「臭いですぅ」水園は強烈な酒の匂いにさすがに耐えきれず内田から離れた。
「あ、ごめんね、にゃははは、」内田は笑いながら身を引く。「……で、どうなんだい、ええ? 悪くないと思うよ、そう思うでしょ、君も?」
水園は少し考えた。
もう少しアカデミックな話になると予想していたのだが随分と俗な話を聞かされたような気がする。
内田がアル中だからそう思うだけなのか。
でも、そういう話、おっしゃられるように、嫌いじゃない。
「私、現金な女です、現金が好きです」
「おお、それじゃあ!」内田の目が煌めく。「いいんだね!?」
「でも、先生、」水園は内田に向かって手のひらを上に向ける。「積もる話はまず、その香水代を払ってからにしましょ」
「へぇ、しっかりしているんだねぇ」
「ええ、私は現金な女です」水園はニッコリと微笑んだ。
「いくら?」内田は机の引き出しを開けてキラキラした重たそうな財布を手にする。
「香水一瓶、一万円です」
「いい商売だねぇ、」内田は一万円札を水園に渡して酒をあおった。「それじゃあ、新たなプロジェクトの発進を祝して乾杯!」
「先に飲むなよ」シンディと水園は同時に突っ込んで笑い合った。




