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第一章⑫

喫茶マチウソワレの広い空間は、古い時代にロックンローラが第二家庭科室と第一視聴覚室の壁を壊して実現したとか、しないとか。通称マチソワの店内はそんな古い時代のヒステリックなんて感じさせないピンクとホワイトとブラックだ。平日の放課後と土曜日、日曜日にマチソワは営業している。運営するのは料理部のメンバ。その中で精力的に働いているのは店長の散香シオン、泉波ナルミ、芳樹野ルカの三人だった。いつもこの三人は白いブラウスに黒いスラックス、臙脂色の前掛けというお揃いの衣装を着ている。土曜日の夕方の店内はおめかしをした女子たちで賑やかだった。

「あ、会長、いらっしゃいませ」 

 アッシュブラウンのポニーテールの芳樹野に案内され、ウタコとエイコは奥の窓際のテーブルに座る。キネマみたいな臙脂色の長いカーテンはすでに閉じられていた。すでに宴の準備は着々と進んでいる。芳樹野はエイコを一瞥してから、ウタコに笑顔でメニューを差し出す。「何か、頼まれますか?」

「コーラ、」ウタコはにっこりと言う。「エイコちゃんは?」

「ミネラルウォータ」

「かしこまりました」芳樹野はポニーテールを揺らして軽やかな足取りでテーブルから離れる。

「ダンスを踊れるスペースなんてないじゃん、」エイコは周囲を見回しながら言う。「ウタちゃん、嘘をついたのね、私を困らせようとして」

 芳樹野がコーラとミネラルウォータをテーブルに置く。コーラはグラスに注がれていたが、ミネラルウォータはペットボトルのままだ。

「ごゆっくり、宴の時間まで、ご歓談を」

 芳樹野は言ってまた軽やかにテーブルを離れ、新たにやってきた来客に向かう。二人組だ。一人は知っている顔だった。香水売りの水園シイカだ。その隣にいる女の子は錦女の制服を着ているがウタコの知らない顔だ。誰だろう、一体。とても綺麗な外国人。

「ウタちゃん、どうしたの?」

「あ、ううん、なんでもない、」ウタコは視線を真っ赤なドレスのエイコに注ぐ。彼女がここで一番魅力的であるのは事実だ。その事実に再び引き込まれる。ウタコは惑わされていることを楽しんでいた。「ああ、えっとね、宴の時間になったら、ここがダンスフロアになるの」

「……なるほど、」エイコはミネラルウォータを一口飲む。そして溜息のような重たい呼吸をする。ダンスが苦手なのだろうか。運動神経が悪いようには見えない。むしろ華麗なステップを踏んで跳ねそうに見える。が、今のエイコの表情は悲壮感漂うブラック。「なるほど、……あのステージは?」

 カウンタと真逆には僅かに一段高くなったステージがあり、ギター、ベース、ドラムセット、無駄に積まれたアンプが並べられている。「バンドがダンスナンバを演奏してくれるんだよ、今日のパーティは、」ウタコは機材の種類から推測する。「シノヅカカノコ・アンド・オーバドクターズだね」

「え、なんだって?」

「理学部で博士号をとったのに大学に就職できなかった大人たちのバンド、錦女のOGの素敵な方々だよ、オファもしないのに来るんだよ、困っちゃうよね、パーティで演奏したいっていうバンドは他にも沢山いるのに」

 ウタコはコーラを飲む。とてもおいしい。きっと目の前にエイコがいるからだ。

「ふうん、」エイコは気のない返事をする。「あの、ピアノは?」

 ステージの横には年代物のピアノがある。ピアノの黒くて滑らかな表面は照明を反射している。「ピアノがどうかしたの?」

「ウタちゃん、私、やっぱりダンスなんて無理」

「え?」

 エイコはミネラルウォータを一気に飲み干して立ち上がった。「ピアノ、ピアノ、ピアノをテストにして、お願い、どうか、お願いします」

「……え、あ、エイコちゃん?」急なことにウタコは戸惑う。「エイコちゃんってばぁ!」

 エイコはモデルみたいな足取りでピアノまで歩いていく。女子たちが訝しげにエイコに視線を投げる。エイコは椅子を引いてピアノの前に座る。エイコはウタコを遠くから睨んだ。その眼は黙って見ていろと主張している。エイコはカバァを持ち上げて鍵盤を触る。一つ叩く。その高い音に賑やかだった店内が一瞬静かになって、ざわめきが始まる。視線がエイコに集中する。

 エイコは眼を瞑ってから、そして天井で回転するゴールドのプロペラを見上げる。

 そして視線を鍵盤に戻し。

 素敵な横顔で。

奏で始める。

 スローテンポで始まった。

 そして。

急に鳴り出した、ダンスナンバ。

 徐々にスピードが上がっていく。

 それに女子たちは慌てて立ち上がり、テーブルを隅に寄せた。

 ダンスフロアはセルフサービス。

 音楽を待ちわびていた女子に音楽を与えたらこうなってしまう。

 火がついてしまう。

 エイコのピアノは情熱的だ。パッショネイトだ。

 店長の散香、それから泉波、芳樹野はとても慌てている。

慌てて何やら相談している。

 仕方がないことだ。

 宴の開始時間は大幅に早まった。

 始まってしまっては誰も朝まで止められない。

 散香は一度照明を落とした。会場は宴仕様に変更される。

 素晴らしい判断。

 怪しい真っ赤なライトがエイコを強く照らしていた。

「あらら、」ウタコは一瞬でダンスフロアに様変わりしたマチソワの真ん中で口の前で手の平を広げて可愛い子ぶる。「エイコちゃんってば、だいたぁん」

 ウタコは少し出遅れてしまったようだ。

 女子たちはエイコの奏でるダンスナンバに合わせてスカートを揺らして激しく踊っていた。

 汗を流し、狂ったように踊っている。

 どうやらエイコのピアノは意図せずして女子を狂わせてしまったようだ。

 ウタコも刺激されて体が勝手に横に揺れる。

 踊りたくなってきた。

「あらら、これは一体どういうことなの?」

 いつの間にかヨシノが隣にどことなく優雅に立っていた。愉快そうにエイコを見つめている。ヨシノはブルーのドレス姿。腰にはフリンジ。

「とにかくさ、」ウタコはヨシノの手を触る。「騒ごうよ!」

 エイコの情熱的なピアノの演奏は一曲で終わった。

 女子たちはワンモアソングを要求したが、シノヅカカノコがそれを認めなかったのだ。

「今日の主役は私だぁ!」

 シノヅカカノコは二十八歳無職なのに大人げないことをマイクに向かって叫んだ。

 しかし、今夜の主役は誰の心にもエイコだった。

 エイコは済ました顔でウタコの隣に帰ってきた。

 エイコがなにもなかったような顔をするから。

いや、僅かに不貞腐れているような感じだから。

 ウタコは頭を撫でてあげる。

「合格だ」

ウタコの声はシノヅカカノコのディストーションにかき消された。エイコの耳に届いただろうか?

 エイコは片目を瞑って、難しい顔をしている。

ウタコの気持ちはどうやら届いていないらしい。

残念だ。

 しばらくシノヅカカノコ・アンド・オーバドクターズのロックンロールをウタコとエイコとヨシノはカウンタに座って聞いていた。エイコは気の抜けた顔で頬杖ついていた。ウタコは時折エイコの横顔を眺めていた。エイコとウタコが今夜踊ることはなかった。けれど彼女と踊るよりもずっと、興奮する体験に巻き込まれてしまったような気がしていた。

 エイコが真っ赤なドレスに着替えたら。

 怪しい真っ赤なライトの中で。

ピアノを弾かせよう。

「あっ!」

 シノヅカカノコのとても笑えなくて誰も耳を傾けていないMCの最中、エイコは急に声を上げた。

 ウタコは意表を貫かれてカウンタの座席から落ちかけた。いや、不覚にもストンと完全に落ちてしまった。「もぉ、いきなりどうしたの?」

「あ、今、」エイコは酷い慌てよう。「今、今、今、何時!?」

「そろそろ九時だね」ヨシノはどことなく優雅に腕時計を見て答える。

「帰らなきゃ」

「え、パーティはまだまだ続くよ」

「九時までに帰らなきゃいけないの!」

「あ、ちょ、エイコちゃんってば!」

 ウタコの制止も聞かず、エイコはマチソワを飛び出していった。

「もぉ、」ウタコは無性におかしくなって大きな声で笑う。「しょうがないんだから」

「ああ、門限持ちだったんだね、なるほどぉ」ヨシノはどことなく優雅に納得していた。

「ヨシノ、何が、なるほどなの?」

「彼女、気にしていたでしょ、ずっと、土曜日を」

「ああ、そういえば、」ウタコはポンと手を叩いた。「全然気にしてなかったぁ」

「意外と普通な理由だったね、少し変わった娘だと思ったんだけど」

「普通がいいよぉ、」ウタコは今夜十杯目のコーラを飲み干す。「世の中変な女子が多すぎるからね」

 ヨシノはどことなく優雅に、急に笑った。「あはっ!」

 きっと何かを思い出して笑ったんだと思う。

 こんなときに思い出し笑いをするなんて、ヨシノも変わった女子である。




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