第一章⑪
シンディは誰もいない狭い理科準備室でニジマスのホルマリン漬けを眺めていた。シンディは可愛い顔に似合わずはそういうグロテスクなものに抵抗は全くないようだ。一分近く無言で観察してから、隣のホルマリン漬けに視線を変えた。それはイモリ。いや、ヤモリか?
水園は机に向かって香水を作る準備をしながら理科準備室の窓側の足下の引き戸に視線をやる。その中には三十センチ四方の金庫がある。水園が生徒会長に許可をもらい設置したものだった。金庫の中には水園の研究の成果である様々な香水が納められている。白い花で作った香水も一本、そこに混じっていた。それがシンディに見つかるのは、非常にまずい。けれど、水園の金庫だから鍵を持っているのは水園だけ。職員室に行っても鍵はない。鍵穴とともにダイアルキィも付いている。だから、知らないふりを貫けばこの場はしのげると考えていた。でも、少し気がかりだ。
シンディが引き出しを開けたり閉めたりしているからだ。少し心臓の動きが早くなる。けれど、水園は金庫以外に白い花に関わるものは何も残していないから、まだ、余裕でいられた。しかし嫌な感じだ。
「……シイカは理系ですか?」シンディは窓際に移動し、小さな天体望遠鏡を覗きながら聞く。「アレ、レンズが壊れてるのかな?」
「さあ、どっちでしょう」
「大学はどこに行くつもりですか?」
「分かんない、っていうか、さっきから、何してるの?」
「この金庫、」ついにシンディに金庫を発見されてしまった。シンディは屈んだ姿勢で水園の方を見る。「なんですか?」
「なんだろうね、」水園はシンディにばれないように深呼吸した。「なんだろう、そこは開けたことなかったなぁ」
「こんなところに金庫なんて変ですね」
「うん、変だね、とっても、変、ねぇ、それより、シンディ、始めるよ、」水園は上ずった声を整えるのに必死だった。「ほら、近くに来て、近くで香水を作るところを見てよ」
「シイカ、ここに何を隠しているんですか?」
「何も、……って、」水園は首を横に振る。「私はその金庫のことなんて、何も知らないんだから、変なこと聞かないでよ」
「いえ、ただ、シイカ、私は、私の立場を明確に説明しておきます、」シンディはじっと水園を見ていた。「私はシイカが犯人だと思っています、そしてこの金庫の中には白い花の香水があるのではないのでしょうか? シイカは香水売りですよね、それなのに、この理科準備室のどこにも香水がありません、シイカとコウの部屋には香水がないどころか、匂いさえしませんでした、そもそもこんな場所に金庫があるなんでおかしいです、不自然です、しかもまだココに置かれてそう年月が経っていないようです、扉の色が鮮やかです」
「私、大事なものはバイクの座席の下に隠しているの、」シイカは嘘を付く。「内緒だよ」
シンディはニッコリと微笑んだ。「シイカ、どうかこの金庫を開けて下さい、鍵を持っているのでしょう?」
「そんなわけないじゃない、」水園は考えていた台詞を言う。「分かった、もしかしたら職員室に鍵があるかもしれないから、聞いてくる、待っていて」
水園は立ち上がって、理科準備室から出ようとした。少し落ち着く時間が必要だ。このまま逃げてしまうのもアリだと思った。いや、シンディとはもっと深い関係になりたい。正直に全てを話してしまおうか。すでにシンディは全てを推理している。逃げる余地がなさそうだ。彼女は最初から全て御見通しで、シイカの香水作りを見たいと言い出したのだ。だから、今なら、謝ったら許してくれるだろうか。
「待って下さい、シイカ、」シンディは理科実験室から出ていこうとする水園を引き止める。振り向くとシンディは瞳を輝かせている。彼女はこのシチュエーションをとても楽しんでいるようだ。きっと水園を困らせて楽しんでいるのだ。「例えばこの金庫が大人たちの物だとして、」
「例えばじゃなくて、この金庫は大人たちのものだって」水園は嘘を謝罪するタイミングを失ってしまったと思った。
「そうだとしたら、私たちに金庫の中を見る許可をくれるとは思えません」
「そうかな、錦女の先生はみんな、女子みたいにあらゆることに対して積極的で、ユーモアとクリエイティブな思考を何よりも優先するっていうか、ミステリィはトリックを先に確認してから読み始めるタイプって言うか、」
「シイカ、」シンディは早口で言う。「何を言ってるのか分からないよ」
水園はその場で半回転して振り向く。「だったら、どうやって開けるの?」
「私、理系だから、大丈夫ですよ、こんなの簡単です」
「……簡単?」水園は誰にも負けない純情な笑顔を作って首を竦めた。「じゃあ、開けてみせてよ」
「この金庫、錦景ロフト辺りで売ってそうなデザイン重視の簡単な金庫ですよ、コレ、」シンディは理科準備室の引き出しを再び開け始め、探し始めた。「どこかにあるでしょ、ほらありました、ピンセット、マイナスドライバ、銀のピン、ハンマ、あと必要なのは、聴診器ですね」
「お医者さんごっこ?」水園は本当につまらないことを言ってしまったとすぐに反省する。
「冗談ばかり言わないでください、シイカ、保健室まで案内して頂けませんか、聴診器を借りに行きましょう」
「そんな、なんて言って、借りるのよ?」
「お医者さんごっこをするから聴診器を貸してください、コレで貸していただけるでしょう」
「そんな、そんなバカみたいな理由で、駄目に決まっているわ」
「ユーモアとクリエイティブな思考を何よりも優先する」
「はあ?」
「それを言ったのはシイカですよ」
「いつ?」
水園とシンディは保健室に向かった。保健室には白衣を纏った養護教諭の楠田先生と当たらない占い師の三年生の斗浪アイナがいた。楠田先生は養護教諭として産まれたような人でとても癒し系。一方の斗浪はミステリアスだ。土曜日に占い師の斗浪が保健室にいるなんてとてもミステリアス。保健室には二人だけのようだ。
「ハロウ!」叫んだのは斗浪のおしゃべりオウムだ。「ご機嫌いかが!」
「悪くないですよ、」オウム君に返事をしてシンディは楠田先生に近づき控えめな声で、言う。「あの、すいません、聴診器を貸していただけませんか」
「聴診器?」楠田先生は困った顔をする。「何に使うの?」
「言わなきゃ、駄目ですか?」
シンディが思わせぶりに言うと楠田先生はさらに困った。「理由を説明してくれないと貸せないよぉ」
「シイカちゃん、この娘、誰?」斗浪は水園に耳打ちした。香水売りと占い師は何かと縁があって、二人は耳打ちし合うくらいの関係がある。
「留学生のシンディ」
「初めて見るねぇ」
「引きこもりだもん」
「ふーん、」斗浪の反応は小さい。もっと別な情報に興味があるようだ。「誕生日と血液型と家族構成は?」
「知らないわよ」水園はそっけなく言う。
「シイカちゃんとの人間関係は?」
「自分で調べろ、」水園はべぇっと舌を出す。「占い師ぃ」
「あらら、ご機嫌斜めのようだね、シイカちゃん」
「……お医者さんごっこをしようと思って、」随分、ためを作っていたシンディが水園の袖を触って楠田先生に答えた。「駄目ですか?」
「うわぁ、エロい、」斗浪小さく言って、そして何か勘違いをしたようだ。「あれ、コウちゃんのことは諦めたの?」
水園は斗浪のことをキツく睨んだ。まだ会って間もない頃、占い師の斗浪に占ってもらったことがある。古町との恋愛関係を占ったことがあった。今ではすごく後悔している思い出の一つ。
「いいよ、貸してあげる、」楠田先生はおもむろに立ち上がり、机の引き出しから聴診器を取り出してシンディに渡す。「一つでいい、それとも、二つ?」
「ありがとうございます、」シンディは熱っぽい眼で水園を見る。演技派だなぁ、このぉ。「一つで、十分です」
「……いいんですか?」水園は早口で怒鳴った。「私たちのお医者さんごっこのために貸してくれるって言うんですか!? 意味分かんないでしょ!? お医者さんごっこなんてぇ!? 理由が不純でしょ!?」
「ちょ、シイカちゃんってば、」斗浪が楠田先生を守るように間に立つ。「顔が怖いぞぉ」
「だって、ねぇ、」楠田先生は癒し系のほんわかオーラで言う。「ユーモアで、クリエイティブな何かを感じるんだもの、錦女の一教師として二人のお医者さんごっこを邪魔する事なんて出来ない、私には出来ないわ」
「あんた、」水園はさらに怖い顔をしてがなる。「意味分かって言ってんのか、このぉ!」
「可愛い」楠田先生は水園の頭を撫でた。
「可愛い」斗浪も楠田先生の真似して水園の頭を撫でる。
「可愛い」おしゃべりオウム君が言う。
「可愛くなーい!!」水園は天井に向かって叫ぶ。
「可愛いです」シンディがいたずらに笑った。
そして水園と聴診器を手に入れて上機嫌のシンディは理科準備室に戻った。そしてシンディはピンセット、マイナスドライバ、銀のピン、ハンマと聴診器を旨く使って金庫を開けた。開いた瞬間のシンディの顔といったらない。とても希望に満ち溢れていた。一方の水園は絶望的な気分になった。
ああ、もう、駄目だ。
こんな面倒くさいことになるんだったら、最初から謝ってしまえばよかった。
金庫は手前に開かれる。
中は上と下に仕切られている。
簡単な造りの金庫だ。
そのどちらにも香水の入った小さな瓶が並んでいる。
様々な色の瓶がある。
様々な色の散らばり方は。
まるでカレイドスコープ。
「香水ですね?」シンディは瓶の色を映した瞳で水園を見て、その中の一つを手に取る。奇しくもそれは、シンディの白い花で作った香水だ。「ねぇ、シイカ、香水ですよね、やっぱりこの金庫は、」
「……ごめん、ごめんなさい、」水園はシンディを直視できない。「シンディの言う通り、その香水は私の香水、その金庫は私の金庫、鍵も私が持ってる、ダイヤルのナンバも私は知っていて、」
「早く言ってくれればよかったのに、」シンディはいたずらっぽく笑う。さっきからシンディのそういう顔ばかり見ているような気がする。「金庫を少し傷つけちゃった、鍵を渡して、ダイヤルナンバを教えてくれれば、よかったんですよ」
「うん、その、その、だから」
水園はぎゅっとスカートの裾を掴んだ。
すべてを打ち明けようと決めた。
でも。
すごく怖くて。
未来が見えなくて。
シンディが、どういう顔をするのか分からないから。
言えないよ。
シンディは香水の瓶の蓋を簡単に開けた。
シンディは香りを鼻に近づける。
その香水は紛れもなく白い花の香水。
シンディの表情は変わる。
何か発見した眼で水園を見る。
水園はぎゅっと眼を瞑った。
「いい匂い」
当たり前だ。
その香水は。
シンディの白い花と水園の超絶技巧で造られた最高傑作。
私のスカートのポケットの中にあるものは、さらに凄い。
「本当にいい匂い、本当にコレ、シイカが作ったんですか?」
「ご、ごめんなさい、」水園は謝ってシンディに顔を近づけた。「ごめんなさい、許して、お願い、出来心で、いや、だって妖精さんが私にくれたプレゼントだと思っていたから!」
シンディは滑稽なものを目撃している眼で笑っている。「妖精さん? 何のこと?」
「だから、妖精さんの白い花畑だと思っていたの、妖精さんが一年中あの白い花を咲かせていたのだと思っていたの、いや、妖精さんじゃなくても、何かの偶然が重なって自然的にあの白い花畑が出来たんだと思っていた、誰かの物だなんて考えても見なかった、シンディの白い花だとも思っても見なかった、だから、ごめん、私、何も考えなかった、何も考えないで香水を作って、それを売って、マリンブルーのライトニングトゥデイとか買って、その、」
「私の花じゃないですよ」
「え?」
「私の方こそ謝らないといけません、ただ、その、出来心だったんです」
シンディは香水の瓶を片手に魅惑的な表情。
香水の匂いが漏れて、水園の鼻孔にも届く。
そのせいで僅かに気持ちが変になる。シルバの髪が綺麗。そのゴールドの瞳も本当に綺麗。本当に綺麗な女の子だなぁと水園は再認識しながら、変になっていく。それに抵抗する気は全く起きない。
シンディは香水を自分首筋に振った。
白い花の甘い香りが水園をさらに惑わす。
シンディが知らないはずはない。
分からないはずがないのだ。
この香りを。
鈍感なの?
そんなはずない。
シンディはコウとは違う。
旨く説明出来ないけれど、違う。対極だ。正反対の女子だ。
女子が知らないわけがない。
シンディは水園を惑わす気だ。いや、すでに混乱甚だしい。
「んふふ、」シンディは何か企む眼をした。「白い花は私の花じゃないんです、だから別にシイカが白い花を摘んでも構わないんです、私が咎める理由なんてないんです、怒るなら怒って下さい」
「じゃあ、なんで、どうして? 何を企んでいるの? シンディはどうしてあそこで眠っていたの?」
「私、いつも十二時くらいまで眠っているんです、だから、シイカを待っていたら、眠くなっちゃったんです」
「どうして私を待っていたの?」
「シイカが妖精さんだと思ったんです」
「はあ?」
「妖精さんは、実は素敵な香水売りでした、」シンディは素敵な笑顔で甘い声を出す。「コレは予期せぬ事態なんです」
水園はもう訳が分からない。
セーラ服に着替えた妖精の言うことは、本当に訳が分からない。




