第11話 AIに副業を相談したら、初めて家族とお金の話になった
最初に届いた感想を、彼は何度も読み返した。
『昨日、閉店後の作業がかなり早く終わりました。これなら、もう少し早く店を閉められそうです。ありがとうございました』
たった三行のメッセージだった。
それでも、画面を閉じる気になれなかった。
会社では、彼の仕事が誰かの役に立っているのか、よく分からないことがある。資料を作り、数字をまとめ、会議に出て、修正依頼に応える。仕事は回っている。評価も、悪くはない。
けれど、自分が何かを変えたという実感は薄かった。
副業で作ったのは、小さな店の在庫と売上をまとめる表だった。
店主は、閉店後に手作業で数字を転記していた。商品ごとの在庫を確認し、売上と照らし合わせ、翌日の発注数を決める。彼は話を聞き、Excelで入力欄を整理し、集計を自動化した。
最初の依頼を受けたときは、何をどこまで作ればいいのかも分からなかった。
AIに相談すると、必要な機能を洗い出し、作業手順を整理し、見積もりの考え方まで教えてくれた。
『まずは、相手が現在どの作業に時間を使っているかを確認しましょう。機能を増やすより、手間のかかっている工程を減らすことを優先します』
その助言に従って店主に質問すると、必要なものと、なくても困らないものが見えてきた。
見積もりも、AIに相談した。
『作業時間だけでなく、修正対応や連絡にかかる時間も含めて考えることをおすすめします』
彼は言われたとおりに時間を記録し、作業内容を整理した。最初に考えていたより時間はかかったが、次の依頼では、その経験を使えた。
ここ数か月で、利益は八万円ほどになった。
会社の給料と比べれば小さい。それでも、誰かに言われた仕事をこなして得た給料とは、少し違って感じられた。
自分の知識で、誰かの面倒を減らせる。
自分が会社の外でも通用するかもしれない。
あのメッセージを読むと、その可能性が、ただの想像ではなくなった気がした。
彼は新しいモニターの販売ページを開いた。
今のパソコン画面では、仕様書を見ながら表を作り、別の資料で数字を確認するたびにウィンドウを切り替えなければならない。画面がもう一つあれば、作業はずっと楽になるはずだった。
値段は四万円台。
安い買い物ではないが、副業の利益から出せない額でもない。
彼はAIに、購入すべきか相談した。
『複数の資料を同時に参照する作業が多い場合、外部モニターは効率改善に役立つ可能性があります。ただし、購入前に現在の作業で発生している切り替え時間を記録し、導入によって削減できる時間を見積もると判断しやすくなります』
もっともな回答だった。
彼は、次の依頼から作業時間を記録してみようと思った。
その日の夕食後、妻が言った。
「洗濯機、そろそろ買い替えない?」
彼は、モニターの販売ページを閉じた。
「壊れたの?」
「完全には壊れてないけどね。最近、脱水がうまくいかないことがあるの。もう一回回すときもあるし」
「修理じゃ駄目なのかな」
「それも調べた。でも、修理代を払って、また別のところが悪くなる可能性もあるって」
妻はスマートフォンを差し出した。いくつかの機種の価格と、修理費用の見積もりが表示されていた。
彼は数字を眺めた。
モニターと洗濯機。どちらも、買おうと思えば買えないわけではない。ただ、両方を買うと、せっかく積み上げた副業の利益がかなり減る。
「もう少し使えるんじゃない?」
口にしてから、彼は自分の言葉が少し軽かったことに気づいた。
洗濯機を使うのは、妻のほうが多い。
毎日、洗濯物を入れて、終わる時間を見て、干して、取り込む。調子が悪ければ、もう一度回す。彼はその一つひとつを、ほとんど意識していなかった。
「使えるよ」
妻は怒った様子もなく答えた。
「使えるから、今まで使ってきたんだよ。でも、使えることと、使い続けたいことは違うでしょう」
彼は返事ができなかった。
副業を始めたとき、妻は反対しなかった。
会社以外でも自分の力を試したい。うまくいけば、家計にも余裕ができるかもしれない。そう話すと、妻は「やってみたら」と言った。
実際、妻は応援してくれていた。
彼が作業に集中できるように、夕食の片づけを先に済ませてくれた日もある。翌日の準備を早めに終わらせ、彼がパソコンに向かう時間を作ってくれたこともあった。
そのたびに彼は、ありがたいと思っていた。
ただ、ありがたいと思うことと、自分も同じだけ負担を引き受けることは、別だった。
「副業をやめてほしいわけじゃないよ」
妻は続けた。
「頑張ってるのは分かってるし、あなたが会社以外でも仕事をできるようになったのは、私もうれしい。でも、いつか余裕ができるからって、今の生活をずっと後回しにするのは違うと思う」
彼はモニターの価格を思い出した。
買えば、仕事が速くなるかもしれない。仕事が増えれば、もっと稼げるかもしれない。
その「かもしれない」は、決して間違っていない。
けれど、洗濯機の調子が悪いことも、妻が何度も洗濯機を回していることも、すでに起きている事実だった。
その夜、彼はAIに二つの買い物について相談した。
『副業の作業効率を改善する設備投資と、家庭内の家事負担を軽減する買い替えについて、費用と効果を比較したい』
AIは、それぞれの費用、期待できる効果、購入を先延ばしにした場合のリスクを整理した。
モニターについては、作業時間の短縮が見込める。ただし、実際の効果は作業内容によって変わる。
洗濯機については、買い替えによって再洗濯や作業のやり直しが減る可能性がある。現状の不具合が続く場合、日々の負担は残る。
どちらの説明も、納得できた。
彼は数字を表にまとめた。今後の副業収入を控えめに見積もり、必要な支出を差し引く。モニターを買った場合と、買わなかった場合。洗濯機を買い替えた場合と、修理を続けた場合。
表の上では、モニターを先に買う選択にも合理性があった。
だが、妻が毎晩どれだけ洗濯機の様子を気にしているかは、表に入っていなかった。
いや、入れようと思えば入れられる。
再洗濯にかかる時間を計り、月に何回起きるかを記録し、時間の価値を仮定すればいい。
それでも、その時間を妻がどう感じているかまで、数字だけで決めることはできなかった。
彼はしばらく表を眺めたあと、妻に話しかけた。
「洗濯機、買い替えよう。モニターは、もう少し考える」
「いいの?」
「うん。全部を今すぐ買うのは難しいし」
妻は少し考えてから、うなずいた。
「ありがとう。でも、副業を諦めてほしいわけじゃないからね」
「分かってる」
そう答えたものの、彼はモニターの販売ページをお気に入りから削除できなかった。
買えなくなったことが残念だった。
それ以上に、次の仕事ならもっと稼げるかもしれないと思っていた自分の計画が、いったん止まったことが悔しかった。
家族のために副業を始めたはずなのに、その副業を続けるための時間を、家族の誰かが支えていた。
そのことを認めたからといって、悔しさまで消えるわけではなかった。
*
数週間後、彼のもとに新しい相談が届いた。
複数の小さな店の売上データをまとめ、比較できるようにする仕組みを作れないか、という依頼だった。
以前の仕事より規模が大きい。うまくいけば、継続的な依頼につながるかもしれない。
彼はすぐに、必要な作業を洗い出した。
データ形式の確認。項目の統一。集計方法の設計。テスト。修正。説明資料の作成。
AIに相談すると、工程ごとの作業時間を見積もり、優先順位をつけてくれた。
『既存のデータ形式が大きく異ならず、仕様変更が限定的であれば、提示された期限内に対応できる可能性があります。ただし、データの不整合や追加修正が発生する場合に備え、予備時間を確保することをおすすめします』
彼は依頼内容を読み直した。
期限は短いが、無茶というほどではないように見えた。
会社の仕事が予定どおりに終わり、副業の作業を毎晩二時間ずつ進められれば、間に合うかもしれない。
彼はAIの見積もりを参考に、作業予定を組んだ。
月曜日はデータ確認。火曜日は項目整理。水曜日から集計機能の作成。週末にテスト。
表にすると、仕事は収まりそうだった。
しかし、会社の仕事が毎日定時に終わるわけではない。取引先からの連絡が入れば、予定していた作業は後ろへずれる。仕様について確認する時間も必要になる。修正が一度で終わる保証もない。
そして、家に帰れば家のことがある。
彼は、妻と話した夜のことを思い出した。
予定表を開き直し、会社の仕事が延びる可能性と、家事に使う時間を入れた。予備時間も増やした。
すると、期限までに完成させるための余裕が、ほとんど残らなくなった。
できないと決まったわけではない。
ただ、できると約束する自信がなかった。
彼は依頼主に、納期を数日延ばせないかと相談した。
返事は、その日のうちに届いた。
『申し訳ありません。こちらの集計作業の日程が決まっているため、今回は当初の期限でお願いできる方に依頼することになりました。また機会がありましたら、ぜひお願いします』
丁寧な文章だった。
責める言葉は一つもない。
彼は、返信画面を閉じずに、隣の作業予定表を開いた。
月曜日。データ確認、二時間。
火曜日。項目整理、二時間。
水曜日。集計機能の作成、二時間。
その下には、予備時間として空けておいた枠が並んでいた。
彼は、作業時間の合計をもう一度確かめた。数字は変わらない。予定表の上では、あの仕事はまだ期限内に収まっているように見えた。
返信画面に目を戻す。
『今回は当初の期限でお願いできる方に依頼することになりました』
彼は作業予定表を閉じようとした。
カーソルが、画面の隅で止まった。
あの依頼があれば、収入が増えたかもしれない。仕事の実績が増え、次の依頼につながったかもしれない。
もう少し早く作業を始めていれば。最初の見積もりを出す前に、もっと細かく確認していれば。モニターを買っていたら、多少は楽だったかもしれない。
考え始めると、いくつもの「もしも」が浮かんだ。
けれど、モニターがあれば必ず間に合ったとは限らない。会社の仕事が予定どおりに終わるとも限らない。家事を後回しにして受けたところで、最後まで責任を持てたかどうかは分からない。
AIの見積もりが間違っていた、と言い切ることもできなかった。
見積もりには条件があった。彼はその条件を読んでいた。
彼は作業予定表を開いたまま、しばらく画面を見ていた。
月曜日から金曜日まで、工程がきれいに並んでいる。
データ確認。項目整理。集計機能。テスト。
すでに必要のなくなった予定だった。
彼は、もう一度だけ作業時間の合計を確認した。
それから、返信画面に戻った。
断りのメッセージは、さっきと同じ場所に表示されていた。
彼は、作業予定表を閉じられなかった。
家族を優先したから仕方がない、と片づけることもできなかった。
彼は、仕事を失いたくなかった。
本当は、家族のためにも、自分自身のためにも、もっと稼ぎたかった。
その気持ちは、今も変わっていなかった。
*
その週の土曜日、彼は夕食の片づけを引き受けた。
食器を洗い、調理台を拭き、翌朝に使うものを出しておく。妻が普段やっていることを、思い出しながら進めた。
洗濯機の買い替えも済んでいた。
新しい洗濯機は、以前より静かで、再び回し直すこともなくなった。妻は「やっぱり替えてよかった」と言った。
その言葉を聞いて、彼もほっとした。
食器を洗い終え、翌日の洗濯物を確認しようとすると、妻が洗濯かごを指さした。
「白いものは、こっちに分けてあるよ。タオルは別にしたいかな」
「あ、分かった」
彼は洗濯かごを分け直した。
洗う順番も、量も、干す場所も、妻はいつものように手際よく決めていた。彼が一つずつ確認しているあいだに、妻はほかの用事を済ませている。
「いつも、こんなふうに分けてるんだ」
「うん。慣れると考えなくてもできるけど」
彼は、分け直した洗濯物を見た。
自分が今まで気づかなかっただけで、毎日の家事には、手を動かす前に決めておくことがいくつもあった。
妻は洗濯かごを持ち上げ、洗濯機のそばへ運んだ。
彼は、そのあとを追って洗剤を棚から出した。
次の週、彼は副業の作業時間を確保する日に、夕食後の片づけと翌日の洗濯の準備を担当することにした。
予定表には、副業の時間だけでなく、家事の時間も入れた。
ところが、会社の仕事が延びた日は、帰宅した時点で予定が崩れた。
夕食を食べ、食器を洗い、パソコンを開くころには、考えていた作業時間の半分しか残っていない。無理に作業を始めると、集中力が続かず、同じところを何度も読み直した。
別の日には、妻が先に片づけを終わらせていた。
「ごめん。時間がなかったから、やっちゃった」
「いや、ありがとう。でも、次からは俺がやるよ」
「うん。分かった」
妻はそう答えたが、使い慣れた手順で済ませたほうが早いのも事実だった。
彼も、予定表に家事を書き込んだだけで、すべてをうまく回せるようになったわけではない。
副業の作業が遅れると焦った。予定していた時間がなくなると、少しだけ妻を責めたい気持ちが湧くこともあった。
そのたびに、彼は作業予定を組み直した。
前より稼げるようになったわけではない。仕事の依頼が増えたわけでもない。
それでも、家のことを最初から誰かがやってくれる前提で予定を立てることは、少しずつ減っていった。
*
ある夜、彼は新しい副業の依頼を見つけた。
今度は、商品の販売データを整理する小さな仕組みだった。以前の仕事に近い内容で、経験も活かせそうだった。
彼はAIに、必要な作業と時間の見積もりを相談した。
AIは依頼文から必要な工程を整理し、それぞれの作業時間と、確認や修正に必要な余裕を示した。
『これまでの経験を活かせる内容です。依頼主への確認事項を整理し、作業範囲を明確にすれば、見積もりの精度を高められます』
彼は回答を読み、依頼文を開いた。
以前なら、そのまま応募文を書き始めていたと思う。
経験を活かせる。作業時間も確保できそうだ。条件が合えば、受ける価値がある。
その判断は、今も変わらない。
彼は応募文の入力欄にカーソルを置いた。
それから、いったん画面を切り替えた。
カレンダーを開き、会社の予定を確認する。今週は会議が多く、帰りが遅くなる日もある。家事の分担を決めた日も、いくつか入っていた。
彼は副業の作業時間を、その隙間に仮置きした。
余裕があるように見えた日も、移動や食事、休む時間を考えると、思っていたほど自由ではなかった。
もう一度、AIの見積もりを確認する。
数字は、さっきと同じだった。
彼は妻のいる部屋へ行った。
「ちょっと相談していい?」
「なに?」
「この仕事、応募しようかと思ってる。前にやったのと似てて、経験も使えそうなんだ。ただ、今週ちょっと仕事が詰まってて。家の予定も含めて、どこまで時間を取れるか確認したい」
妻は彼の話を聞き、カレンダーを一緒に見た。
「この日は遅くなるんじゃなかった?」
「あ、そうだった」
「じゃあ、こっちの日に作業するなら、洗濯は朝に回す?」
「そうだね。俺がやるよ」
二人は予定を確認した。
まだ応募すると決めたわけではない。確認したからといって、納期まで余裕があると保証されたわけでもない。
彼はパソコンの前に戻り、カレンダーとAIの見積もりを並べて開いた。
依頼文には、確認が必要な項目が残っていた。彼はその項目を応募文の下書きに書き出し、作業予定表を新しく作った。
そして、新しい予定表に、仕事の時間だけでなく、家の時間も書き込んだ。




