⑥
エリアスは机の上に置かれた三通目の手紙を前に、しばらく動かなかった。いつも通り差出人はない。見慣れてしまった封筒だった。悪意だけが詰め込まれた手紙。開かずに捨てればいい。
そう思う。実際、そうするべきだとも分かっている。だが手が伸びてしまう。もしまた嘘なら、本当に悪意ある悪戯なら。確認して終わらせたい。そんな言い訳をしながら、エリアスは封を切った。中には紙が一枚。そして、小さな押し花が挟まれていた。
白い花だった。それを見た瞬間、エリアスの表情が凍り付く。なぜなら、その花を知っていたからだ。
リディアが好きな花だった。屋敷の庭で育てている花。春になると咲く小さな白い花。昔、一緒に植えた。
『可愛いでしょう?』
そう言って笑っていた彼女を覚えている。手紙を読む。そこにはこう書かれていた。
『奥様はその花を大切にしております』
『最近はよく男性へ贈っているそうです』
エリアスは紙を握り潰した。
(ふざけるな。誰が書いた。どうやって知った。その花のことは親しい者しか知らない。)
偶然ではなく、誰かが意図的に調べている。誰かが自分たち夫婦を狙っている。そこまでは分かった。だからといって心が平穏になるわけではなかった。知らないはずの情報が混ざることで、手紙に妙な現実味が生まれてしまったのだ。
「団長?」
ルークの声がする。エリアスは慌てて紙をしまった。
「どうしました?」
「何でもない」
ルークは首を傾げる。明らかに何でもない顔ではなかった。最近の団長はおかしい。いつもならあり得ない失敗をする。考え事も増えて、眠れていないようにも見える。だが聞いても答えない。だからルークは諦めて話題を変えた。
「敵軍が撤退を始めています」
「そうか」
「このままいけば春には帰れそうです」
帰れる。その言葉にエリアスの胸が少しだけ軽くなる。リディアに会える。顔を見れば全部終わる。
噂も。
手紙も。
不安も。
全部。
きっと笑い話になる。そう思いたかった。
その日の夜、久しぶりにリディアから手紙が届いた。
エリアスは少し安心し、封を開く。いつもの文字、いつもの書き出し。だが途中で手が止まった。
『最近、変なことを考えてしまいます』
珍しい一文だった。
『あなたのことを信じているのに、心から信じているのに不安になる時があります』
『嫌になってしまいます』
『こんな自分が』
エリアスは眉をひそめた。何かあったのだろうか。手紙は続く。
『噂なんて気にしなければいいのに』
『あなたがそんなことをするはずないとわかっているのに』
そこでエリアスは理解した。リディアの元にも届いているのだ。自分と同じように、誰かが彼女にも嘘を吹き込んでいる。胸がざわつく。今まで感じたことのない怒りだった。リディアは悪くない。何も悪くない。
なのに誰かが意図的傷付けて、泣かせている。不安にさせている。許せなかった。
しかし、手紙の最後を読んだ時。エリアスは言葉を失った。
『でも、私はあなたを信じます』
『だってエリアスですもの』
短い文章だった。それだけだった。胸が痛かった。
信じる。
そう書いてある。迷いなく、真っ直ぐに。それなのに。自分はどうだ。
何度も噂を思い出した。
何度も手紙を気にした。
何度も心が揺れた。
信じているはずなのに完全には振り払えない。その事実が苦しかった。
ー翌朝。
エリアスは早くから訓練場へ出て剣を振るっていた。嫌なことを、余計なことを考えなくて済むように一心不乱に。リディアを疑う自分を振り切るように。
だが、どれだけ剣を振っても頭から消えない。
その時だった。
「閣下」
見張りの兵士が走ってくる。
「どうした」
「王都から使者が」
またか。
エリアスは僅かに眉をひそめる。使者は一人の男を連れていた。三十代くらいの見覚えのない男だった。旅商人のような格好をしている。男は緊張した様子で頭を下げた。
「閣下」
「何だ」
男はしばらく迷った様子だった。そして言った。
「奥様について、お伝えしたいことがございます」
空気が凍る。エリアスの瞳から感情が消えた。男は怯えたように唾を飲み込む。
「…話せ」
その一言に、男はゆっくり口を開いた。
そして。
これまでで最も残酷な嘘を語り始めるのだった。




