④(エリアス視点)
北方戦線の冬は厳しい。
エルミナ王国の北端に位置するこの地では、昼になっても吐く息が白く、地面は固く凍りついている。兵士たちは慣れた様子で行軍を続けていたが、王都育ちの新兵たちは未だに寒さに苦戦していた。
そんな様子を見ながら、エリアスは馬上で地図を広げる。
「敵軍は東へ後退したようです」
隣を進む副官のルークが報告した。
「追撃は?」
「可能ですが、雪が深く速度は出ません」
エリアスは少し考える。無理に追えばこちらも疲弊する。敵はその隙を狙うだろう。
「補給を優先する」
「了解しました」
ルークは頷いた。いつも通りのやり取りだった。
戦況も悪くなく、兵士たちの士気も高い。本来なら何も問題はない。それなのに、ここ数日、エリアスの胸の奥には妙な棘が刺さっていた。理由は分かっている。数日前に届いた、あの手紙だ。
『奥様は最近、頻繁に男性と会っております』
ただそれだけの内容、証拠もなければ署名もない。悪意だけが込められたような文章だった。読んだ直後、暖炉へ投げ込んだ。そんなもの信じる価値はない。そう思ったからだ。
だが、信じていないはずなのに。なぜか忘れられなかった。
「団長?」
ルークの声で我に返る。
「どうかされましたか?」
「いや」
短く答える。ルークは少し心配そうな顔をした。最近、こうして考え込むことが増えている自覚はあった。
ーその日の夕方
宿営地へ補給部隊が到着した。兵士たちは歓声を上げながら荷物を運び込んでいる。久しぶりの新鮮な食料に喜んでいるのだろう。エリアスも補給品の確認を終え、自分の天幕へ戻ろうとした。
その時だった。
「閣下」
聞き慣れない声がする。振り返ると、補給部隊の一人が頭を下げていた。まだ若い男だった。
「何だ」
「王都から参りました。少しだけお話を」
「手短に頼む」
男は緊張した様子で頷いた。
「王都は平和です」
「そうか」
「皆様お元気です」
エリアスは特に興味もなく聞いていた。本当に聞きたかったことは一つだけだった。男もそれを察したのかもしれない。少し笑って続けた。
「奥様もお元気だそうです」
その瞬間だけ、エリアスの表情が僅かに緩む。
「そうか」
「ええ」
それだけで十分だった。胸の奥の重さが少し軽くなる。やはり余計な心配だったのだ。リディアが元気ならそれでいい。だが、男はなぜか言葉を続けなかった。何かを迷っているようだった。
「まだ何かあるのか」
問いかけると、男は困った顔をした。
「いえ…」
「言え」
しばらく沈黙が続く。やがて男は観念したように口を開いた。
「最近、王都で妙な噂がありまして」
嫌な予感がした。理由は分からないが胸がざわつく。
「噂?」
「その…奥様のことです」
空気が冷えた気がした。男は慌てて続ける。
「もちろん私は信じておりません!」
「内容は」
「男性と親しくされているとか…」
エリアスは何も言わなかった。男もそれ以上言えなくなった。しばらくして、エリアスは静かに口を開く。
「もういい」
「申し訳ございません!」
「それ以上誰かに広めるな、わかったな?」
「承知しました」
男は慌てて頭を下げた。だがエリアスは怒らなかった。怒る気にもなれなかった。ただ胸の奥が重かった。
ーその夜
エリアスは眠れなかった。天幕の中は静かだった。外では見張りの兵士が歩いている音だけが聞こえる。目を閉じても眠気は来ない。代わりに思い出すのはリディアのことばかりだった。
初めて出会った日。
結婚式の日。
出征前の夜。
「帰ってきたら海へ行こう」
そう約束した時の笑顔。思い出せば思い出すほど、あの噂が馬鹿らしくなる。
(リディアが浮気?そんなはずがない。絶対に。彼女はそんな女性ではない。誰よりも俺自身が知っている。)
なのに、頭のどこかで別の声が囁く。もし本当だったら、と。エリアスは眉をひそめた。リディアを疑ってしまっている自分自身に腹が立つ。何を考えている、そんなはずがないだろう。
リディアだぞ。
お前が愛した女性だ。
お前を待っている女性だ。
疑うこと自体が失礼だ。
そう思う。
そう思うのに。
一度入り込んだ不安は簡単には消えない。
それがどれほど小さなものでも。
ー数日後
再び王都から手紙が届いた。見慣れない封筒だった。差出人は書かれていない。嫌な予感がした。開けるべきではない気もした。だが無視することもできなかった。
エリアスは封を切り、中に入っていた紙を開く。そこには短い文章だけが書かれていた。
『前回の話を信じていただけないようなので』
『証拠を用意いたしました』
エリアスの眉が動く。そして紙の奥から、もう一枚何かが滑り落ちた。彼はそれを拾い上げる。その表情から全ての色が消えた。暖炉の火だけが静かに揺れている。外では兵士たちの笑い声が聞こえる。
だがエリアスには何も聞こえなかった。
ただ目の前の紙だけを見つめていた。信じたくない。だが目を逸らすこともできない。
運命は静かに、そして確実に、彼の心を蝕み始めていた。




