③
レオンが訪ねて来てから数日が過ぎた。リディアは普段と変わらない生活を送っていた。朝は庭の花の世話をし、昼は帳簿を確認し、夜はエリアスへ手紙を書く。変わったことなど何もない。けれど、あの日聞いた噂だけは頭の片隅から離れなかった。
もちろん信じてはいない。エリアスはそんな人ではない。私自身が誰よりも彼を理解している。だから大丈夫。そう何度も自分に言い聞かせていた。
その日、リディアは久しぶりに街へ出た。
使用人だけに任せるのではなく、自分の目で店を見て回るのが好きだったからだ。冬の寒さも少し和らぎ、市場は多くの人で賑わっていた。
パン屋の香り。
果物を売る商人の声。
子供たちの笑い声。
平和な光景だった。
「奥様」
付き添いの侍女マーサが声をかける。
「どうかなさいましたか?」
「何でもないわ」
リディアは微笑む。けれどマーサは少し心配そうだった。本人は気づいていないがリディアがぼんやりすることが増えていたからだ。だが周囲は気付いていた。
市場を歩いていると、向こうから知り合いの貴婦人がやって来た。
「まあ、リディア様」
「お久しぶりです」
軽い挨拶を交わした。いつもならそれで終わる。だがその貴婦人は少しだけ言い淀んだ。
「その…」
「どうされましたか?」
「お気を悪くされたら申し訳ないのですが……」
嫌な予感がした。
「何でしょう?」
「伯爵様はお元気ですか?」
「ええ」
「そうですか」
貴婦人は安心したような顔をした。
「変な噂が流れておりますでしょう?」
その瞬間。
リディアの笑顔が固まった。やはり王都にまで広がっていたのか。
「噂ですから」
できるだけ自然に答える。だが貴婦人は困ったように続けた。
「私もそう思っておりますわ」
「…」
「ですが最近は随分広まっていて…」
リディアはそれ以上聞かなかった。聞きたくなかった。挨拶を済ませ、その場を離れる。背後でマーサが心配そうに見ていることにも気付かなかった。
帰りの馬車の中で窓の外を眺めながらリディアは考えていた。なぜこんなにも噂が広まっているのだろう。誰が流したのだろう。エリアスのことを本心から信じている。だが、これだけ多くの人が同じ話をするのはなぜだろう。
ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ。心が揺れた。嫌な考えに支配されてしまう。リディアは慌てて首を振る。
「違う」
小さく呟く。そんなことを考えてはいけない。エリアスを疑うなんて。それこそ裏切りだ。
屋敷へ戻ると、一通の手紙が届いていた。遠征先からだ。エリアスの字を見た瞬間、リディアはほっとした。部屋へ戻り、すぐ封を開く。
『元気にしているか』
いつもと同じ書き出し、いつもと同じ報告内容。
そして最後に、
『帰ったら海へ行こう』
その一文があった。リディアは思わず笑った。約束をちゃんと覚えていてくれていることにホッとして胸の中に溜まっていた不安が少しだけ軽くなる。
(ほら、やっぱりただの噂じゃない)
馬鹿みたいだ。自分は何を気にしていたのだろう。そう思ったその時だった。一枚の紙が封筒から滑り落ちる。リディアは首を傾げた。手紙以外にも何か入っていたらしい。そこには短い文章だけが書かれていた。
差出人はない。
『伯爵様は最近、宿営地近くの村へ頻繁に通われています』
リディアの動きが止まった。
『いつも同じ女性と会っているそうです』
心臓が大きく脈打つ。
『知らないのは奥様だけかもしれません』
紙を持つ手が震えた。こんなもの信じる必要はない。誰かの悪戯だ。そうに決まっている。なのになぜだろう。手が冷たい。呼吸が苦しい。リディアは慌てて紙を丸めて暖炉へ投げ込んだ。紙は炎に飲まれ、あっという間に黒くなった。
これで終わり。
こんなもの終わりだ。
信じない。
絶対に。
けれど。
燃えていく紙を見つめながら、リディアは気付いてしまった。あの日レオンが植えた小さな不安の種が確かに心の奥で芽を出し始めていることに。
ーそして同じ頃
遠く離れた戦場でエリアスもまた、ある一通の手紙を受け取ろうとしていた。
彼はまだ知らない。
その手紙が、自分たち夫婦の運命を狂わせる最初の一歩になることを。




