雨の中で出会ったもの
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「ハァ、……ハァ、ハァ……っ!」
息が、続かない。
胸が焼けるみたいに苦しい。
肺に入る空気が、冷たくて、痛い。
――それでも、止まれない。
ばしゃ、ばしゃ、と。
泥を跳ねながら、アネモネは走る。
雨は容赦なく降り続いていた。
髪も、服も、肌も、全部が冷たい水に打たれている。
後ろで、足音。
一つじゃない。二つでもない。
もっと――増えている。
「いたぞ!そっちだ!」
「逃がすな!回り込め!」
――やだ。
喉がひくりと震える。
「……やめて……」
声に出したつもりだったけど、
雨音に飲まれて、自分にすら届かなかった。
石畳が滑る。
足がもつれる。
転びそうになって、なんとか踏ん張る。
痛い。
どこかぶつけたのか、足がじんじんする。
でも、止まったら――終わる。
(……捕まったら……)
頭の中に、あの言葉がよぎる。
“魔女の血は、不浄である”
“見つけ次第、捕縛せよ”
“抵抗すれば――処分してよい”
――違う。
(わたしは……ただ……)
ただ、花が好きで。
本を読むのが好きで。
風の音や、小鳥の声を聞くのが好きなだけなのに。
「足止めしろ!傷つけんなよ!」
「殺すなよバカ!価値が落ちるだろうが!」
――価値。
その言葉に、足が一瞬止まりかけた。
ぞっとする。
自分が“人”じゃなくて、“物”みたいに扱われている。
(やだ……怖い……)
視界が滲む。
雨なのか、涙なのか分からない。
曲がり角をひとつ、ふたつ。
知らない路地に入り込む。
細い道。
薄暗い。
人の気配がない。
(どこ……ここ……)
もう方向も分からない。
それでも、ただ前へ。
――そして。
行き止まりだった。
「……え……」
壁。
高い、逃げ場のない壁。
振り返る。
足音が、近い。
「……っ……」
逃げ道がない。
膝が、震える。
力が抜けて、その場にへたり込みそうになる。
「……どうして……」
声が、震えた。
「どうして、わたしが……」
ただ、生きてるだけなのに。
ただ、選べなかっただけなのに。
――どうして。
そのとき。
――鈍い音がした。
ぐしゃ、と。
何かが、折れるような嫌な音。
「……がはっ」
男の一人が、前に崩れ落ちた。
「……は?」
もう一人が、間の抜けた声を出す。
その視線の先。
――そこに、いた。
少年が。
ぼろぼろの服。
濡れた髪が額に張り付いている。
手に持っているのは――
曲がった鉄の棒。
先端が、鉤爪みたいに歪んでいる。
それを、だらりと片手で下げていた。
「……てめぇ、誰だ……」
男が睨む。
少年は、面倒くさそうに息を吐いた。
「……うるせぇんだよ」
一歩、踏み出す。
水たまりが、小さく揺れた。
「夜中に騒ぐな」
次の瞬間。
ガンッ!!
鈍い衝撃音。
男の体が横に吹き飛ぶ。
「ぐっ……!」
もう一人が飛びかかる。
――速い。
でも。
少年は、動じなかった。
半歩だけ引く。
男は、滑る。
バランスを崩した男の腕に――
鉄の棒が絡む。
「っ、ぐあああっ!?」
ひねる。
骨が軋む音。
そのまま、叩きつける。
石畳に、鈍い音。
動かなくなる。
――静かになった。
雨音だけが、戻ってくる。
少年は、軽く息を吐いた。
それから、こちらを見る。
アネモネの心臓が、跳ねた。
近づいてくる。
怖い。
さっきの光景が、頭から離れない。
でも。
逃げられない。
「……怪我は」
低い声。
「してねぇな」
じっと、見られる。
その目は――
冷たい。
でも。
どこか、違う。
「……あ……」
声が出ない。
何か言わなきゃ。
お礼を。
でも、言葉がまとまらない。
少年は、少しだけ視線を逸らした。
「こんなとこにいたら、また来るぞ」
ぶっきらぼうに言う。
顎で、路地の奥を指した。
「そこの角、右に曲がれ」
間。
「突き当たり抜ければ、大通りに出るから」
それだけ言って。
くるりと背を向ける。
「え……ま、待って……!」
思わず声が出た。
少年の足が、止まる。
振り返らない。
「……ありがとう、ございます……」
絞り出す。
本当は、もっと言いたい。
でも、うまく言えない。
少しの沈黙。
雨音だけが響く。
やがて、少年は――
吐き捨てるように言った。
「さっさと行けよ」
冷たい声。
「――お嬢様」
そのまま、雨の中へ歩いていく。
すぐに、姿が見えなくなる。
アネモネは、その場に立ち尽くした。
胸の奥が、ざわつく。
怖いはずなのに。
さっきまで、あんなに震えていたのに。
――どうしてか。
あの少年のことが、頭から離れなかった。




