12-4
――妙に吹っ切れたような表情でもあった。考えてみれば、相手の父親から「あとはよろしく」と言われて、「すんません自分には無理です」なんて言えるわけがないわけで。しかも、ジャンパーを娘から奪い取って、わざわざ“そういうシチュエーション”を半ば強引に演出してすらくれた以上、これで何の成果も無かった等となってしまっては、もはや次に会うときにどういう顔をすればいいかわからない。彼は間違いなく、「次に彼と会うのは結婚報告の時か結婚式場だ」と考えているに違いない。
過去の経緯もあって、恋愛面とは一定の距離を置いていたつもりだった羽浦だが、彼とて一人の日本男児である。たとえ見掛け倒しであろうと、一見“覚悟”のように見えるものは持っている。しかし、いまだに不安だった。自分でいいのか。彼はああ言っていたが、自分に、本当にその資格があるのか。蒼波に対する自分の感情に気づけなかったばかりか、つらい過去から逃れようと、それを半ばなかったことにしようとした、自分にだ。
「(…………)」
答えはでない。ただ、何れにせよ、舞台を作られた以上何もしないわけにはいかない。仕掛けるなら自分からだと、ココアをぐいっと半分くらい一気に飲んだ。
「――なんか、カップルみたいね。今のこれ」
……が、先に声を発したのは蒼波のほうだった。しまった。先手を取られた。焦った羽浦は返答に窮し、苦し紛れに「あー……確かにな」と、ありきたりな言葉を返すに留まった。こういった時、先手を打ったほうが話の主導権を握れるのだが、しかし、それは蒼波のほうに渡ったようである。
少し恥じらいを見せながらも、この状況そのものは新鮮に感じているのか、そこまで悪い気分ではないらしかった。戸惑いながらも楽しげな蒼波の声が、目の前から聞こえてくる。
「こうやって抱くの、なんか名前あったわよね」
「あすなろ抱き……は、ちょっと違うか」
「あれ後ろ抱きって名前じゃないの?」
「ブームになったのはあすなろの方らしいぞ」
「へぇ……。でも、悪くないわね、こういうのも」
「やってる俺はいっちゃん恥ずいけどな……」
羽浦は気まずそうに目線をそらした。元々、自分から積極的に女性交流をするタイプではなく、直接触れ合うことだってしない。昔からの付き合いである蒼波相手でさえ、抱っこどころか肩に抱えたことすら、本人が怪我をしたときぐらいしかないのだ。
羞恥はなんともいえない気まずさを呼び出し、口を開こうにも開けないといった、第三者が見れば間違いなく見ていられなくなって飛び出して説教を喰らわせる空気が流れ始める。どこからともなく、メガネをかけた青年の「くそっ……じれってーな。俺ちょっとやらしい雰囲気にして来ます!」という声が聞こえてきそうである。
何も言葉が飛ばない状態を維持しているわけにはいかない。一時は主導権を握られてあたふたしていたが、とにかく今のうちに本題に入らねば。羽浦は思わず、顔に焦った表情を浮かべていた。
「あ、あのさ――」
「わかってるわよ、お父さんと雄ちゃんが話してた件でしょ?」
……また、先手を取られた。しかも、読まれていた。右真横にある蒼波の顔は、「言いたいことはわかってる」とでも言わんかのような含みのある笑みを浮かべていた。
「……大体察してたか」
「わざわざ私にジュース買わせにいって、男二人で話すことなんて大体読めてるわよ。ましてや、自分の父と、小さい頃からよくしてもらってた幼馴染本人ときたわ。一つしかないじゃない」
「よくわかるもんだ。まだ何も言ってないのに」
「知ってる? 学生の頃、頭よかったの私のほうなのよ?」
「存じてるさ、校内トップ5常連さん」
自慢げに話す蒼波に、羽浦はやれやれといった呆れ顔を浮かべて返す。羽浦自身も、自慢ではないが学業には自信があった。特に英語は、中高通じてトップ10から落ちたことは数える程度しかない。しかし、蒼波はさらにその上を行く。親の影響もあってか、昔から勉学には力を入れていたらしく、成績は小中高と通じてトップ5から落ちたことはない。高校卒業後の進路についても、教師からは真っ先に、東大か、せめて立地的に一番近い北海道大あたりの受験を進められていた。かの父もそうであったが、両親も、将来はどこかの国立大にいくものだと思っていたらしい。
……しかし、実際には『戦闘機パイロット』という、とてもではないが学内トップクラスの女傑が行くような道とは思えない進路を希望した。両親も、担任も、進路相談の先生も、友人も、そして、羽浦も、誰もが「そんな進路で大丈夫か?」と問い詰めたが、本人は一様に「大丈夫だ、問題ない」と、どこかで聞いたようなセリフを返して回ったのである。
……頭がいいということと、感が冴えていることは決してイコールではないが、このときの蒼波は冴えていたには違いない。だが、その表情はすぐに曇る。
「でも……」
「ん?」
「……いいのかな。私で」
「え? 何が?」
「だって、私、裏切ったのよ?」
……は? 羽浦は、蒼波の言っていることがこれっぽっちも理解できなかった。裏切った、と表現するにふさわしい経験は彼の記憶にはない。困惑する彼の目が蒼波の顔に向いたとき、彼女は、深刻なほどに暗い表情を浮かべていた。
「前々から、薄々気づいてたわよ……雄ちゃんが、何か言いたそうにしていることなんて」
「……」
「高校の時も、休み時間は基本的に一緒にいたし、昼ごはんだってそうだし、部活は暇さえあれば話してたし……その時から、何か言いたげな雰囲気はあったもの。こういうときの女の感ナメないでよ?」
「敵に回しちゃならんやつだ」
「何が言いたいのよ……。それに、あの時も……」
「あの時?」
「……ウイングマークもらった直後、お祝いに連れて行ってもらった日よ。あの人から告白されたの、雄ちゃん見てたでしょ?」
羽浦の心臓が一瞬飛び跳ね、言葉が詰まる。ウイングマークをもらったことを聞いた羽浦は、祝いの席を催すべく蒼波の元を訪れたが、その時、神野に告白されている蒼波を目撃してしまっていた。蒼波の目からうまく逃れられたと思い込んでいたが……。実際は、彼女の目にも、慌てて物陰に隠れる羽浦の姿が写っていたのである。
「(見られてたのか……)」
軽く衝撃を受ける羽浦だったが、彼女の告白はまだ続いた。いつしか、その声は、暗く、震えてくるようでもあった。
「あの後、こともなげに出てきたけど、動揺しっぱなしなのが即行でわかったし、何をしようとしてるかもわかったわ。このまま、何もなかったように振舞うつもりだって。でも、私は……その……」
「……なんだ?」
「……受けたくなかったのよ。告白」
「(……冗談でしょ?)」。羽浦はにわかに信じられなかった。受けたくなかったものを受けて、あそこまで仲睦まじい関係になれるだろうか。いくら神野のほうは演技であったとはいえ、蒼波のそのデレ様は本心からのものだとばっかり思っていた。思わず蒼波に問いただす。
「え、でもお前、あの人とは結構――」
「友達としては、あのまま関係を続けてもよかったの。でも、恋人ってなると……。それに……」
「ん?」
言いよどむ蒼波。気がつけば、その頬は赤く染められ、“本人が目の前にいる”ことを意識してか、次の言葉が中々出せない。だが、「それに、なんだ?」と、羽浦から迫られたことで、ついに観念して打ち明けた。
「……意中の人は、彼じゃないのよ」
「意中の人?」
「わからない?――」
「――雄ちゃん、貴方のことよ」
――思い切ったような、凛としたその顔とはっきりした声。その声を聞いた羽浦の脳裏は、一瞬ホワイトアウトしたように固まった。二十数年の時を生きてきて、告白どころか、彼女すら作ってこなかった羽浦にとって、この“告白”が持つ衝撃はあまりにも大きかった。それを言った本人は、真っ白に固まった羽浦とは対照的に、真っ赤に染まりながら早口で続けた。
「最初に出会ってからあれやこれやで付き合い続けて、周りから恋人だなんだで冷やかされもしたけど、いつの間にかそんな時間が楽しくなって、気がつけば、雄ちゃんの何か言いたげな視線に気づくぐらいに自分も雄ちゃんのこと見てて……そろそろ、もう言った方がいいかとも思ってたのよ……」
「……」
「でも、そんな時に、あの人から告白された。すぐに断ればよかったんだけど、今までずっと仲良くしてもらったこともあったし、同期の中じゃ一番親しかったこともあって動揺してたから、とりあえず適当に流して時間がたったら適当な理由つけてなかったことにすればいいやって思ってたんだけど……。でも、雄ちゃんに見られてたのに気づいて……ッ」
羽浦の腕に包まれながら、彼女の独白はなおも続く。羽浦はあの告白の現場に動揺していたが、蒼波もまた、羽浦に見られたことで動揺していた。当然、時間を使って適当にはぐらかす方向で穏便に収めようという目論見も失敗したことを悟り、気まずいまま、レストランでの食事の席を取った。
その時は、お互い何気ない様子で会話を楽しんでいたし、自分も、食事時ぐらいは余計なことは考えないようにとは思っていた。しかし、羽浦があの告白の現場を見てしまった。あの、“意中にしていた人”に見られたという事実は、蒼波から冷静な思考力を奪っていた。それはひとえに、彼の脳裏に、この一言が浮かんでいることを恐れてのことだった。
「(……告白されるほど良い感じだったのか、あの二人?)」
決してそんなことはない。あくまで彼は親しき友人であって、それ以上の関係になったつもりはない。しかし、羽浦に見られたという事実は、自覚していた以上に蒼波の精神にダメージを与えていた。
これについては、羽浦も思うところがあった。考えてみれば、あの大食いの蒼波が、あの時ばかりはパスタ一皿と、食後のデザートとしてカップアイスを一つ食べて終わっていたのである。普段はパスタどころか、追加でピザ2枚ぐらい食べて、ドリンクサービスをじゃんじゃん使うような、あの蒼波がだ。てっきり、健康管理の問題から自制していたのだと思っていたが、その実、それ以上に深刻な状況だったらしい。
そして、蒼波は……。意を決して、羽浦に、告白の話を持ち出した。大げさな反応をする羽浦は、どこか棒読みで、演技臭かったらしい。
「――そんなに、下手だった?」
「一歩間違えればラズベリー賞行き」
「最悪じゃねえか」
うまいこと演技したつもりだった羽浦は、頭を抱えて深いため息をついた。こんなことなら、陸上部じゃなくて演劇部にでも入るべきだったかと後悔したが、蒼波は気にも留めない。
この時、単純に相談をしたわけではなかった。相談と銘打ってはいるが、実際は――。
「――止めて、ほしかったの」
「止めてほしかった?」
「なんでそんな風に考えたのかは私でもわからない。けど、雄ちゃんに止めてもらえたら、少しは冷静になれるかもって。パニックになった頭が出したのは、そんな頭のおかしい結論よ。あんな状態で、雄ちゃんに助けを求めちゃったの。雄ちゃんに頼んだって、どうしようもないって、わかってたのに……」
意中の人に告白される場面を見られ、間違いなく関係について疑念を抱かれている状況の中で、それでも蒼波は、信頼できる彼に助けを求めた。それはまさしく、造反した敵が、窮地に陥ってかつての味方に向かって「助けてくれ!」と叫ぶ、見苦しい場面とも重なるものがあった。そして、そんな時に、羽浦が出した答えが……。
「(……背中、押してた……)」
羽浦は、肩ごと力が抜け落ちるような感覚を覚えた。自分の動揺を抑えるために、一先ずありきたりな回答をして、蒼波の困惑した心境を解消させようと実行したあの行動。蒼波の話が正しいなら、これは間違いなく……。
「(……“追い討ち”だ)」
まさしく、助けを求めたかつての味方に、無慈悲にトドメを差すが如し。最後の最後、好きなようにやれと、彼ともうまくいくはずだと、安心させようとして口にしたあの言動。実際は、全くもって逆効果。これを言われた瞬間、蒼波は「自分のせいだ」と思ったという。
「……助けを求める時点でおかしいって話なんだけど、これも全部、私が……、私が、雄ちゃんを“裏切った”せいだって……ッ、見切りつけられたと思って……ッ」
「ま、待ってくれ、それは誤解だ! 俺は純粋にアドバイスのつもりで言ったのであって、決してお前を見切ったなんて――」
「わかってる! わかってるのよ! でも、雄ちゃんがいながら、私は結局告白を断れなかったのは事実なのよ! 断ったら悪いと思っちゃってッ。でも、それは雄ちゃんの思いを裏切ることになるに違いないのにッ、それも、ちゃんとわかってたのに……ッ!」
「さ、咲……」
気がつけば、蒼波は羽浦の腕を離れ、目の前で背を向けて泣き崩れていた。
完全なる思いの相違に他ならない。羽浦は、動揺を隠して、自分の思いを追いやってでも、蒼波の人生を邪魔しない一心で背中を押したつもりだった。だが実際は、蒼波は羽浦の思いに感付いており、神野に告白された後も、羽浦からの拒否の意思で持って自信をつけて、改めて告白を蹴ろうという算段だったがために、それは全くもって逆の効果をもたらした。動揺しきった末に、“想定とは間逆の結果”へと繋がった。
――バカすぎる。羽浦はかつての自分を大いに責めた。本心はわからないからと、彼女の思いを邪魔してはならない等と言い訳をつけて、適当なアドバイスを送った結果がこのザマだ。なんという愚行。なんという醜態。蒼波が言うとおり、一部は蒼波の思い込みの部分があるだろう。しかし、最終的に背中を押してしまったのは、紛れもない自分自身だ。
……背中を押した先にあるのが、煌くヴァージンロードではなく、真っ暗な底なし沼であることを知らずに。
「(……ただのバカじゃんか……)」
これっぽっちも恋愛経験もない人間が、簡単に恋愛の話に口を挟むべきではないと思い知るには十分な真実だ。この時の羽浦のアドバイスによって、蒼波は、羽浦から恋愛面では見切りをつけられたと思った。だからこそ、あの一言を出したのである。
「……聞こえてたんでしょ、どうせ。「ごめん」って謝ったの」
羽浦は、一瞬躊躇しながらも小さく頷いた。告白を受け入れてくることを羽浦に打ち明ける直前、俯きながら、震える声でそう言っていた。
……実際には、“泣きながら”言っていた。そして翌日、何気ない様子を醸しながら告白を受け入れることを神野に伝えたその夜。彼女は、一人でまた泣いたという。人気がない、夜の女子トイレの中で。
蒼波は後悔していた。羽浦の思いには気づいていたし、自分もそれに応えようと思っていたのに、告白を断れなかった。それも、結局は自分の思いが弱く、正直になりきれなかったからに他ならない。羽浦に対して本気になれなかった自分がいたからこそ、羽浦に助けを求めてしまったし、勘違いも生んだ。全て、自分が原因だと、蒼波はいつまでも自分を責め続けた。
――この瞬間、蒼波は、羽浦にフラれたのではない。自分から、そっけなく“フッて”しまったのである。少なくとも、彼女はそう感じ、罪悪感に苛まれるようになった。
「(じゃあ、彼と仲がいいように見えたのも、せめてもの罪滅ぼし……?)」
せっかく告白を受け入れたのに、その相手たる彼と仲がよくないように見えては、背中を押した羽浦の立場もないし、心象もよくない。しかも、なぜかそれをサポートする側にまで回った。それもまた、蒼波を追い詰めていくことになると、羽浦自身は気づかなかった。
そう考えれば、仲がいいように見えたのは当然だ。羽浦の前だけではなく、他の同僚の前でも仲のよさを見せておかなければ、何らかの拍子に羽浦の耳にも入りかねない。時として一緒に訓練をすることだってあるだろうし、幹部の異動は頻繁だ。意外と狭い自衛隊社会において、女性パイロット関連の噂は、油断した隙に一気に広がっていく。
……演じねばならなかった。仲のいい恋人を。ここまで来て、羽浦は、一つの推測を立てるに至った。
「まさか、お前が、今まで結婚しようとしなかったのって……」
ご明察のとおり、とばかりに、蒼波は力なく首を縦に振った。
……結婚しなかったのではない。“できなかった”のだ。あれだけプッシュしても、蒼波は頑なに恋人以上の関係になることを拒んだ。それは、自分自身にとっても、“踏み越えたくない”一線だったからだ。ここを踏み越えたら最後、羽浦の元にはもう、二度と行けなくなるという恐怖心が、蒼波の行動を抑制させていた。
――全て合点が行く。結局、二人が理想の恋人に見えたのも、お互いがお互いの理由をもって“演技”していたのだから当然だ。神野は、反逆者の容疑がかからないような身分であることを詐称するため。そして蒼波は、意中の人の厚意を、ないがしろにしてはならないという“強迫観念”にとらわれたため――。
幸せのように見えて、これっぽっちも幸せでなかったカップルの闇。羽浦は、それを無邪気なまでに後押ししてしまっていた。やらかした、という言葉はまさしくこの時のためにあるのだろう。羽浦の胸中は、いよいよ後悔という言葉では表せなくなってきた。
「……雄ちゃんは、それでもいいの?」
「え?」
涙ぐんだ蒼波の背中越しの声が響く。震える肩の動きは、寒さによるものではないことは一目でわかった。
「こんな……思い人に本気になりきれなかったばかりか、勝手にあわてふためいて勘違いして、告白受け入れたと思ったら捨てられて、そんな惨めもいいところの女なのよ? 雄ちゃんは本当にいいのッ?」
「咲、俺は――」
「私はッ、一度でも雄ちゃんを“裏切った”のよッ? それでも、そんな私を受け入れてくれるのッ!? また貴方を不幸にしちゃうかもしれないのにッ!」
蒼波は勢いよく振り返って、羽浦を一直線に見つめてそう叫んだ。瞼は涙で溢れ、悔しさと、後悔と、様々な負の感情に耐えるように肩を震わせ、寒さを感じる余裕もないように気持ちが高ぶって赤くなっている顔。懺悔の表情、とでも言えばよいのだろうか。自分を責め、目の前の彼に向けて大粒の涙を浮かべる様は、怪我をして大声で泣くのを必死に我慢している子供そのものだ。
思いを寄せていたくせに、いざとなるとひよって羽浦を捨てた自分を受け入れることが、本当に羽浦の幸せに繋がるのか。蒼波は、羽浦にも、そして、自分自身にも問うようにそう叫んだ。
……すぐに言葉が出ない。あまりにも思い詰めた表情の蒼波は、羽浦を困惑させるには十分すぎた。十数秒ほどの時間が長く感じ、周りには、どこからともなく飛んできた風の音だけが優しく響いている。
「…………」
つられるように思い詰めた表情を浮かべる羽浦。こういう時、なんて声をかければいいのかがわからない。そんなことはないと直球で言ってやればいいのか。それとも、あえて恨み節の一つや二つでも言って自虐風に振舞えばいいのか。経験が全くない羽浦に、正解となる答えを導き出すことはできない。
しかし、そんな彼を助けたのは、学力で負けていた蒼波に負けじと勉強する過程で知った、先人の言葉だった。意を決した羽浦は、至って冷静に、そして、真面目に振舞って言った。
「……昔のイタリアの神学者に、トマス・アクィナスって人がいたんだがな。その人が、こんな言葉を残した」
「え……?」
「『誰かを愛することは、その人に幸福になってもらいたいと願うことである』……。他の偉人たちも似たようなことを言っていた。読んで字の如し。誰かを愛することは、その人の幸せを願うことと同義だと」
「……それが、何なの?」
「お前、さっきなんて言ってた?」
「え? う、受け入れてくれるのかって――」
「違う違う、その後だ」
「あと? ……、不幸にしちゃうかもしれないってところ?」
「そこだよ」
「え?」
困惑する蒼波を目の前にしながら、羽浦はキリッとした表情を保ったまま、さらに続ける。
「お前、俺が不幸になるかもしれないって言ってたよな?」
「ええ」
「つまり、お前は俺が幸せになることを願っていることでもあるわけだな?」
「そりゃあ、もちろん」
「じゃあそれが証明だ。お前は、ちゃんと俺を愛してる」
「……え?」
「アクィナスの理屈に従えば、お前はちゃんと俺を愛してるってことだ。自信を持て。本気じゃなかったなんてことはない。感情任せに言葉を出した結果、そういう言葉が自然と出たってことは、心の底からそう思っている何よりの証拠になる。お前は、ちゃんと自分の思いに正直であり続けてるッ」
羽浦のその目は、どこか訴えるような目でもあった。そこに、決して蒼波に対する非難の意思はない。
彼女は、自分を責め続けていた。自分の無責任な振る舞いが後押しするように、そういった考えに支配されていた。自分のことを思ってくれていたことに対する反動として、これほど残酷なものはない。
だからこそ、羽浦は伝えたかった。蒼波自身が犯した過ちは、さして重いものでもなんでもないと。
「本気じゃなかったとか、裏切ったとか言わないでくれ。裏切ったって意味なら俺だって同じだ。さっさと思いを伝えればよかったのに、足踏みしながら結局何もせず放置した上にあの人と付き合うのを傍観してたッ。本気じゃなかったって言うなら俺のほうだ!」
「何言ってるのよ! 本気じゃないやつがあの戦争のとき空の上であんなに怒鳴ったりするッ?」
「無意識の懺悔みたいなもんさ。中途半端な思いは、時として冷静さを奪い去る」
気難しい表情を羽浦は浮かべるが、蒼波は納得のいかない様子だった。自分より、彼自身のほうが相手としてけなしているようにも感じる。それが、蒼波にとっては耐え難いものだった。そして、いつの間にかその互いの声は、口論に使うものへと変質し始める。
「なに臭いこと言ってんのよッ。あれのおかげで私は感情任せに怒鳴らずに済んだのよッ? また冷静さを失って空の上で落ちてたかもしれないのにッ」
「結果論だ。本当にお前のことを思っているなら、あそこはじっと耐えてお前のことを気にかけるような言葉を普通投げる。結局、自分は自分の不甲斐なさにキレてたに過ぎないッ」
「そんなのただの思い上がりじゃない! 私の中途半端な思いより幾分もマシよ!」
「辛い記憶から逃げようとして、お前に対する思いを半ば無かったことにしようとした人間だぞッ? それでもいいのかッ!?」
「じゃあ貴方は、私みたいなパニクって貴方に助けを求めた挙句勝手に捨てた私が良いって言うの!? また同じことしちゃうかもしれないのよ!?」
「俺はお前のことをよく知ってるッ。同じことはもうやらないと信じているし、そもそもあれはお前は悪くない。お前が責任を感じる必要は無い、俺が背中を押したのも原因なんだぞッ」
……寒空の下、白く厚い息を引っ切り無しに空気中に吐き出しながら、そんな“口喧嘩”が展開される。自分たちも、なぜこんなことで喧嘩をしているのかわかっていない。いや、そもそも、これは喧嘩であるのかどうかすらわからない。実際は、お互いに「自分でいいのか?」と、間接的に問うているに過ぎないのだ。
だが、二人の目は本気だった。それは偏に、互いの幸せを、無意識ながら願ってのものであり、別の幸せの可能性を見出そうとしていたからだった。涙ぐんだ蒼波が、肩を呼吸に合わせて上下させながら、強引に声を振り絞るようにして言った。
「それでも、一度でも自分の思いに正直になれなかったのには変わりないわよッ。不安しかないの、貴方と人生を共にしようと思っても、またどこかで同じことやっちゃうんじゃないかって……私は貴方を裏切ったりしたくないのに……!」
「俺だって同じだ。お前の父さんから、娘を頼むと頭を下げられた。でも今だに不安なんだ。恋人なんて持ったこともない、本当の意味で付き合ったこともない、ましてや、結婚なんて今まで考えたことも無かった、そんな人間なのに……。本当に俺でいいのか未だに答えがわからない。正直な話、お前を恋人として意識したことも無ければ、更に先の関係なんて考えたことも無かった」
「ええ、私もよ……」
「はっきり言って素人だ。女心が完璧にわかる人間とは思ってないし、俺が相手として相応しいという自信もない。自分に正直になれず、肝心なときに逃げてばっかりな自分なのに……。お前は、そんな俺が良いっていいたいのか?」
羽浦は、心のうちを探るような目線を蒼波に向けた。この時になっても、自分が蒼波の相手に相応しいか、核心をつかむことはできずにいた。だが、蒼波はしばし俯いた後、懐かしむような、暗くも優しい声を羽浦に返す。
「……覚えてるか知らないけどさ」
「?」
「戦争のとき、電話かけてきて遼ちゃんの話になったときあったでしょ?」
「ああ」
「その中で、私が「まだやりたいことある」って言ってたの、覚えてる?」
「……、あー、ヨモツオオカミがなんちゃらの話の後か?」
「さすが、記憶力はいいみたいで」
確かにそんな会話したなーと、羽浦は記憶の棚から電話の内容を引っ張り出す。蒼波は、小さく含みのある笑みを浮かべながら、
「……あれ、中身知らないわよね」
「まあな」
「あれ――」
「――貴方と、もう一度やり直したいって意味なのよ……」
……やり直す。一度“裏切って”しまった過去を乗り越えて、もう一度、自分の思いに正直になりたいという意味であった。そう明かす蒼波の瞼には、大粒の涙が浮かんでいる。目の前に広がる湖の水のように綺麗なその水滴は、頬を伝って滴り落ち、ほんの少しだけ雪が積もった地面へと落ちて同化していく。
「もう、自分の気持ちに嘘をついて無駄に苦しみたくないの……。一生、そんな痛みを感じるぐらいなら、どこかで、もう一度最初からやり直したいって……ッ、ずっと、ずっと心のどこかで思ってて……ッ」
「……咲……」
「こんな……こんな中途半端で、バカ正直で愚直なぐらいに真っ直ぐで、かと思えば優柔不断で誰も幸せにできないことをずっとしてきたような……、そんな私を――」
「――貴方は、“受け入れてくれますか”?」
……彼女の顔はもうぐしゃぐしゃだ。目からは大粒の涙が溢れ、冬の白さを微塵も感じさせないほどに顔を赤く染め、涙を拭こうとする手元が何度も目の周りをなでている。二十歳をとうに超えた女性には見えないほどに、“子供っぽい泣き顔”。一番最初に出会った、あの時の彼女の顔を思わせるものだ。
そこに秘められた複雑な思いを実感するには十分な光景。冬の冷気がもたらす若干くぐもった世界は、その涙、その泣き顔にすらも、湖の水面から跳ね返ってきた美しい光を当てている。
羽浦は言葉を失った。今までの人生で、ここまで自分の幸せを願った人がいただろうか。男女共に友人はそこそこの数を持っているつもりだった。しかし、このような涙を流したのは、誰でもない、蒼波しかいなかった。
数分だけ、彼女のすすり泣く声だけが美麗な狭山湖の景色に反響し、溶けていく。日も落ち始め、蒼波の涙を拭いてあげるように優しく吹いていた風は、人の体を不必要に冷やすほどの低温になっていく。だが、今の彼女に、そんな冷気を感じる意識はなかった。そこにあるのは、ただただ、罪悪感と、嬉しさと、戸惑いと、安堵感と……人間が持つ感情を全て鍋に放り込んでかき混ぜたような、そんな複雑な感情のみだった。
――羽浦は、ここに来て、神野の言葉を思い浮かべて、詫びの言葉を入れた。あぁ、神野さん。貴方に自分は、青い人間だと言い返していたが、撤回したほうがいいかもしれない。“お互い”、まだ小さい頃のままだった。成長した部分もあろうとは思うけれども、結局、根本はこれっぽっちも変わっちゃいなかった。貴方の言ったとおり、自分はまだまだ青い人間だ。
未熟な自分に、ここまで涙を流してくれる。それに対して、未熟な自分ができることなんて限られている。
「……咲」
「え――」
――羽浦は、真正面から、蒼波を両腕で包んだ。唐突な出来事に動揺したか、一瞬で蒼波の涙は引っ込み、感情が高ぶり温まっていた彼女の体は、さらに温もりを感じる狭い空間へと誘われる。すぐ隣から響くのは、小さい我が子を宥める父親のような、優しい声だった。
「……俺は、お前の期待に応えられるかも、幸せにできるかも、相手として相応しいかも、未だにわからない。未だに、俺は自分なんかでいいのか、はっきりした自信がない」
「……」
「……でも」
「ッ」
羽浦は小さく口元に笑みを浮かべ、あふれ出る感情をなだめる様に頭を優しく撫でながら、白い息を交えて呟くように言葉を紡ぐ。
「……守ることには、自信がある。たとえこの先何があろうと、絶対に、お前を守ってやる。地上でも、空の上でも、絶対にお前を導いて、守ってやる。それしか、俺の取り柄がない」
「ッ……」
「やり直しだなんて言うな。アニメで言えば第1期が終了したようなもんだ。ここからは、“第2期”が始まるんだ。戻らなくていい。今ここから、新しいスタートを切ろうぜ」
「……雄ちゃん……ッ」
「……こんな俺でもいいって言うのなら――」
「――覚悟を決めて、それに応えよう。俺も、お前が好きだ。俺に、お前を守らせてくれ」
――やっと、言えた。蒼波の涙に感化され、静かに一筋の涙を流していた羽浦が最初に感じたのは、肩から重石が消えたような“開放感”“達成感”だった。気がつけば、自分も気分が高まって、妙なことを口走っていたかもしれない。本来の自分のキャラではない。こんな臭いセリフを吐くようなタイプではないのだ。
だが、悔いは全く無い。自分の本心をようやく伝えることができたという事実は、彼に取り付いていた呪いのような何かを完全に消し去ってくれた。とても晴れやかな気持ちで満たされ、自然と穏やかに微笑んでしまう。
その視線の先にある彼女も、涙は相変わらず止まらない様子であったが、それでも、羽浦の“告白”に答えるように、瞼に涙を残したまま、両腕を羽浦の体に回して優しく抱きつき返し、
「……不束者ですが、よろしくお願いします……ッ」
安心しきったような、すっきりした笑みを浮かべながら、囁くような言葉を返した。
――セカンドシーズンのスタートだ。ここから、また新しい道を歩むことになる。小学校時代から続いた関係は、今、一つの節目を迎えた。二人は、ここに至るまでの記憶を辿り、懐かしむように目を細めた。初めて出会ってから十数年。やっとここまできたと感慨深い感情を抱きながら、互いに、自らの腕で包んでいる互いの体の温もりを惜しみつつ、腕を解いた。その時の二人の表情は、まるで穢れ無き子供のようにすっきりした笑顔だった。
「……まあ、恋人になったとしても大して変わらないだろうけどな」
「恋人になったぐらいで変わるような性格してるなら、たぶんどこかで変わってるだろうしね」
「ほんと、俺たちはいつまでもガキのままか」
「でも、悪い気はしないでしょ?」
「まあな……」
半ば呆れたように首を横に振るが、その顔に後悔はない。互いに、そんな自分たちを面白がるように、クスクスと笑っていた。実年齢より遥かに若い笑顔。かつての、小さい頃の自分達を重ねながら、羽浦は大きく息を吐いて気持ちを切り替える。
「じゃ、そろそろ時間だから帰るか。あまり遅くなるとマズイ」
「あ、そうだ。私たち今追悼式行ってきたばかりだったッ」
「忘れてたのかよ……」
大事なこと忘れるなよ……と呆れながらも、スマホの時間を確認しようとした――
「――え、わぁッ、なんだコイツ!」
「猫ォ!? こんなとこに野良猫いんのかよ!?」
「ちょ、噛むなって! 俺何もしてねぇって!!」
「いやちょっと叫ばないでくださいよ! 向こうに聞こえますよ!?」
――は? 二人の頭の中に浮かんだのは、この一言だった。
この展望デッキに繋がる通路の手すりの陰から、数人の男女が慌てふためいた様子で何かを追い払っていた。手すりを乗り越えて羽浦と蒼波の元に猛スピードで走ってきたのは、二匹の野良猫。兄弟か姉妹なのか、二匹とも柄が似ている三毛猫で、二人の近くを通り過ぎていったと思うと、あっという間に近くの草地に逃げ込んでいった。
当然、二人の視線は、二匹の猫から、猫の襲撃により軽くパニックになっていた人間たちに向けられる。男性5人に、女性1人。着ているジャンパーには見覚えがあった。いや、そのジャンパーと体格のせいで、誰が誰なのかを一瞬にして判別してしまった。
「……、え。シゲさん? 新代さんと百瀬さんも……」
「あの……。近藤さんたち、なんでそこに……」
唖然とした表情の先にいた6人は、「やっべ……」といった気まずそうな表情を返していた。羽浦の上司と同僚である、重本に、新代、百瀬の警戒管制団組。そして、蒼波とチームを組んだ、近藤と切谷、大洲加の309組の面々だ。切谷の手にはコンビニで買ったらしい菓子パン入りの袋があり、どうも猫は、食料欲しさにこれに反応して、あのような騒ぎになったらしい。
しかし、この様子。間違いなく盗み見ていた状況であったのは明らかだ。青ざめる6人をよそに、羽浦は恐る恐る聞いた。
「……い、いつからそこn――」
「ち、違うんだよ羽浦! お、俺たちは二人を呼びにやろうとしたんだけど、ついでに俺たちも神野の墓参りしようと思って直接来ただけであって……!」
「そ、そうなんスよ! 墓参りはちゃんとしてきたし、線香も置いてきたし! 切谷二尉今そのゴミ持ってるから!」
「ほ、ほら! これ線香セットのパッケージな! 嘘はついてないからな?!」
「……で、いつからそこn――」
「んでついでにどこにいるか探してたんだけど、そしたらちょうどお前らがそこn――」
「――で、い つ か ら い た ん で す ?」
この日初めて、羽浦の声に圧がかかった。その顔は無表情だが、相対している彼らはすぐに悟った。二人の後ろに、黒いもやがかかっていると。もう無理だと思った新代が、慌てて弁明し始める。
「し、仕方なかったんだよ! 呼ぼうとしたらなんかすっげえ深刻な話してたから話しかけようにも話しかけられなかったし、距離が距離だし声もそこそこ大きかったから普通に会話も聞こえてて――」
「具体的にどこから?」
「え、えっと……」
「ど こ か ら で す ?」
「ヒィッ!」
「……い、意中の人が羽浦さんだったってことからですゥ!」
「えぇ!? み、水姫お前ェ!?」
近藤の悲鳴のような声が響く。百瀬も耐えられず、涙目になりながらついに真実を口にしてしまった。
「源ちゃんごめん! もう私無理ィ!」
「お、おお俺たちは悪くねぇ! これは事故だ! ただの事故なんだ! 別に好きで聞いてたわけじゃねえんだって!」
「そ、そうだ! これは所謂不慮の交通事故と同じことであって、決して悪気があったとか、疚しい気持ちがあったわけじゃ――」
と、頑なに弁明を続けようとした一同だったが、
「――なぁ、咲」
「え」
「なぁに、雄ちゃん?」
どこか感情を抑えるような低い声が、二人の口から発せられる。弁明の声が止まった直後、二人は、意味深な“黒い笑み”を浮かべて言った。
「……お前、100mベストいくつだっけ?」
「11秒83かなぁ。雄ちゃんいくつ?」
「10秒39だった記憶ある。でもさ、今なら俺――」
「――自己ベスト、余裕で更新できるわ」
「奇遇ね、私もよ」
この瞬間、二人の次の行動は決定した。それは即ち、相対する6人の運命が――
「……に……」
――二人の足に、委ねられたことになる。
「にげろぉぉぉぉぉぉおおおおおお!!!!!!!」
「うわぁぁぁああああああああ!!!!」
「捕まえろぉぉぉぉぉおおおあああああああ!!!!!」
「ッシャゴラァァァァァァアアアアアアアアアア!!!!!!」
その瞬間、全員がはじかれた様に猛然と突っ走り始めた。通路を南に向かって、逃げる者と、追う者に分かれての逃走劇、もしくは追跡劇が展開される。後ろからは当然、一番見られたくない場面を、よりにもよって一番見られたくない人らに目撃された羽浦と蒼波が、半ば赤面させながら先ほどの猫のように猛スピードで突っ込んでくる。「殺す」だの「ぶっ潰す」だの、「頭をかち割って特定の記憶だけ物理的に消してやる」だのと、物騒などという表現では済まないような言葉を叫び続ける彼らは、まさしく死神そのものである。
「待って!? アイツらめっちゃ早くね!? めっちゃ早くね!!??」
「しまった、あの二人高校の時陸上部の短距離出身だった!」
「それなんで早く言ってくんないんスか近藤さぁん!!」
「待てきさぁぁぁぁあああああああああああ!!!!」
「ヒィィエエエエエ!!??」
大洲加の悲鳴と蒼波の怒号が共鳴する。後ろから迫る二人の足は疲労なる概念を完全に湖に投げ捨てたらしく、速度を落とすどころかむしろブーストをかけている。今の彼らには、あの光景を見られたことに対する羞恥からなる無限の体力と運動神経が与えられていた。年齢層も、身体能力もバラバラな6人が、まとまって逃げ切れる可能性は絶望的であり、距離は徐々に縮まる一方だ。
「アイツらの足おかしいぞ!? 本当に人間か!?」
「どっかでサンドスターでも浴びたんじゃないんすか!?」
「それけも○レの話じゃねえか新代ィ!」
「だから私やめようって言ったじゃないですかぁ!! 源ちゃん私もう足動かないんだけどぉ!!」
「近藤さん! 嫁さん疲れてますよ! さっさと抱えてやりましょうや!」
「女一人抱えて逃げ切れる自信ねえよ!」
「死ねぇぇぇぇぇえええええ!!!!!!」
「いやぁぁぁぁぁああああああ!!!!」
そして、やはり狭山湖全体に鳴り響く、百瀬たちと羽浦の叫び声。その姿はまるで全力で殺しにかかる猛獣の如し。今の二人は、獲物を捕らえるまでとまることは無い。200mの時間を計測していれば、間違いなくタイムはオリンピック級の数字を叩き出していたであろう。それでも、やはり二人の足は、疲労の兆候を見せなかった。彼らの命運が決するのも、時間の問題である。全てを悟った切谷が、悲痛な胸の内を叫んだ。
「誰かぁぁぁあ!! 助けてくださあああああいいい!!!」
「自衛官が助け求めんなクソァァアアアアアアア!!!」
「ギャァァアアアアアアアア!!!!」
――羽浦の怒号は、6人の足にささやかな加速力を与えるが、二人の足に、適うわけもなかった。
そんな悲鳴と怒号は、いつまでも、いつまでも、
目の前の美しい冬景色を揺らすように、空に響き続けていた……




