43.操り人形
今年の夏は暑くなると、いつだったかの天気予報で言っていた。
それはそうだろう、と伊万莉は思った。その時は疑いもなく今年も当たり前の夏がやってくると思っていた。蒸し暑くて、どことなく気怠くて、何か変化を求めつつもそんな変化は起こらない予感を抱いている、そんな夏。
だが、それがどうだ? この一週間の慌ただしく驚愕の日々は。
古代の神との出会い、同級生の少女の窮地、旧家屋の地下の隠し部屋。
エスプレッソのように濃密で、伊万莉は自分の時間だけが加速されたかの如く感じていた。
そして今また、目の前で繰り広げられる事象に脳細胞が必死で食らいついている。
先制の攻撃はルリだった。
「ァァァァァァァァァァアアアアアアア―――――――ッ‼」
立ち上がったルリは顎が外れそうなくらい口を開いて、喉の奥から超高音の声を大出力で咆哮した。
高周波の振動が空気を伝い、それが伊万莉たちの鼓膜を劈く。
「耳がっ……⁉」
不快過ぎる音に伊万莉は慌てて手で耳を塞ぐも、それすら貫通して無理やりに送り込んでくる。
もう声というよりマイクのハウリングを何倍何十倍にもしたような、可聴音域を超えたものになっていた。
すると不意に伊万莉の視界がぐにゃりと歪んだ。上が右に左が下に、自分がどの方向を向いているのかわからなくなって、唐突に襲い掛かる吐き気を伴う気持ち悪さに膝をつく。
東条も同じような症状に見舞われているのか、伊万莉以上に苦しそうで、口を手で押えて地に体を投げだす形だ。
あの声が耳の機能を混乱させ、結果、酷い空間失調の症状を引き起こしているのだろう。目を瞑っても体が浮いて沈んで横に突き飛ばされる感覚が消えてくれない。
あともう少しこの状態が続いていたら胃の中身が全部逆流していただろうその時、
「大丈夫か? 伊万莉」
ぐっと体全体が重くなり、伊万莉は自分に重力が適用されていると感じることができた。
気が付けばオロチがしゃがんで伊万莉を心配そうに覗き込んでいる。
空間失調に陥っていた時間はほんの数秒だったはずだが、疲労感がとんでもなかった。
オロチとメイハルはあの声を聴いてどうして無事でいられるのだろうか。
「神器の展開が遅れてすまない。神力に耐性がないお前たちにアレはきつかったな」
「ごほっ……! ……神……器?」
ふと伊万莉の視界の片隅に複数の光点が映る。
それぞれがお互いに線で結ばれて多角形の面を形作り、それが何枚も繋がり合って伊万莉たちを守るように周囲をドーム状に覆っていた。
よく見ればその光点は勾玉や管玉。
喉の奥を焼く胃液に咳き込みながらをオロチを見ると、彼が普段から首に下げている首飾りがそこになかった。
着替えてもあれらの装飾品を肌身離さず身に着けていたのに、それが今ないということはあれが神器だったのか。
「例の娘に与えた神器とは天と地ほどの差がある低級なものだが、神力の乗った攻撃の影響を弱めることくらいはできる」
勾玉の一つを爪で弾きながらオロチは伊万莉の疑問に答えた。
純粋な音の力で伊万莉たちの平衡感覚器官がやられただけではなく、その声に混じっていた神力に酔ったというのももう一つの原因らしい。
「しかし酷い声だな。己の大事なものを全て失うとは、こうなるともう怒りを通り越して憐れとしか言いようがない。あの声だけは認めていたのに……」
昨晩、ルリの声についてオロチは何も感想を言わなかったが、内心では褒めていたようだ。
だからこそのこの顔――渋面を作っていた。
同じ頃メイハルも表情を歪めていて、
「耳、痛ぁい……。でもこんなもの我々には効きませんよ。小細工なんかやめて、拳で語りましょう。私の拳はあなたと喋りたがっている」
「……?」
メイハルの言葉が理解できなくてなのか、それとも自身の攻撃が相手に痛手を負わせられないのを納得できなかったからなのか、ルリの首が横にコテンと曲がってその感情の籠らない瞳でこちらを眺めていた。
「わからないならいいです」
メイハルが陸上のクラウチングスタートのように体を深く沈める。
丈の長い夏草が彼女の肢体を覆い隠して、それは草むらに潜伏して獲物を狙う蛇を伊万莉に思い起こさせた。
「シャッッ‼」
鋭い呼気とともに収縮させた脚の筋肉を一気に開放し、足があった場所の地面を深くえぐってメイハルが前方に向かって疾走する。
メイハルが通った後は左右に割れた草が波のように押し戻されて、再び彼女を草の海に沈めた。ただその澪だけがメイハルがそこにいたことを証明していた。
「ア……ウ……?」
急な挙動と変則的な動きをするメイハルのことを見失ったルリが彼女を探して左を向いた瞬間、
「これは挨拶っ‼」
ルリの足元から草を割って跳ね上がってきたメイハルの拳が、完全に無防備になっていたルリの腹部にめり込む。
鈍い音と引き換えに一瞬だけ重力の枷を解かれたルリの体が宙にふわりと浮き上がった。
元々空を自由に飛べたはずのルリは、人の形となってしまったからその翼を失ってしまった。
そんな彼女が再び宙を舞う。しかも自身と敵対している他者の手によって。何という皮肉か。
しかしそれも瞬き一回する間に終了する。
メイハルは攻撃の手を休めずに今度は地面に向けてルリを無慈悲に叩き落した。
「グッ……⁉」
受け身らしい受け身を取れず、ルリはまともに頭から落下。それによって首や腕があらぬ方向に曲がってしまっていた。
「あ……。軽い挨拶のつもりだったのに、これはやり過ぎました……?」
メイハルとしてはこの攻撃だけでどうにかできるなんて微塵も思っていなかっただろう。ルリが防御するか回避することを想定しながら、更なる攻撃の手を考えていたに違いない。
しかし、ルリはぐったりと手足を投げ出して動かない。まるで糸の切れた操り人形のようだった。
普通の人間であれば即死でもおかしくない状態だ。
だが――そんなメイハルの心配は杞憂に終わった。
常にルリの体を覆っている泥状のナニカが彼女の意識を離れてぞもぞと動き出し、倒れている彼女を物であるかの如く扱い、引っ張り起こす。そして曲がったままだった首や腕も正しい形になるよう強制的に修正がされた。
ゴキッ、ボキッ――という嫌な響きがこれらの一部始終を間近で見ていたメイハルの耳にも届く。
こんなものもう、治癒ではなく修理としか言いようがない。
「何ですかコレは……?」
メイハルの表情が凍り付く。
ダメージも何もない、そこにはメイハルが攻撃する前と何ら変わりないルリが平然と佇んでいた。
オロチはルリを頑丈だと言った。だがそれは間違いだ。
メイハルの攻撃は間違いなくルリに致命傷とも言えるダメージを与えた。しかし、それを無かったことにしたのがあの泥だ。
怪我を治し、体を修理し、あるべき姿に戻す。
本人の意思すら無視して。
あの泥はこの世にはあってはならないものだ、とメイハルは直感で理解した。
黄泉の国とか根の国に属する性質のもので、そう考えればこの異様な回復力――厳密に言えば回復力とは違う、言うなれば修正力――の説明がつく。
楽になることを許さない、終わってしまうことを許さない、悪夢のような力。
こんな力を望んで欲しがる者がいるとは到底思えなかった。
メイハルはルリにわずかばかりの同情を覚え、その分だけ警戒が緩んだ。
「あっ、しまっ……‼」
あの泥が地面を這って草の間を縫い、静かに密かに近づいてメイハルの足首を捕らえた。
ぬるっとした感触が生物の臓物に似ていて、微細に蠢いている。
足首に絡んだそれを引きちぎろうと手を伸ばした時、メイハルは貧血にも似た脱力を感じた。
――神力を吸われている⁉
脈打つ泥の腕がメイハルから彼女の力の源を奪っていく。いや、それどころかこの急激な疲労感は生命力すらも吸われているではないか。
あの猪の土地神もこうやってその命を奪われた。その事実に至った時、メイハルは余りにも相手のことを舐めすぎていたことに気付く。
頑丈なだけの化け物ではなかった。殴っても蹴っても相手は何の痛痒も感じない。あの泥をどうにかしない限り無敵と言っても過言ではない。
「くそっ! 離……せっ…………」
泥の腕をなんとか振り払おうとするも全身に碌に力が入らず、声の末尾が力無くしぼんでいく。
圧倒的有利にあるのにルリはメイハルを攻撃してこない。ただの栄養源としてしか見てないのかもしれない。
捕まえてしまえば勝ち確定のこの泥の腕は追撃を必要としないのだ。
薄れゆく意識の中でメイハルは「これが死か」と未知の感覚に妙に納得してしまう。
封印された時は泥酔状態だったからそこまで自身が危機にあると思わなかったメイハルだが、今回はダメかもしれないなと瞼を閉じた。
長く生きた。
普通の蛇より力のあったメイハルは人々から土地神に祀り上げられ、そのうち人の姿で人と共に生きることになった。
愛する人、愛する家族。幸せだった。
そして、何の因果かその時から二千年先だという世界に今はいる。メイハルの知る世とは何もかもが違って驚くばかりだった。
しかしそれも自分の子孫たちが頑張った結果だと思えば誇らしい。
十分生きた。
もう思い残すことなど――。
(伊万莉殿の作るご飯美味しかったな)
「……………………ッ!」
(伊万莉殿の膝枕、柔らかかった)
「…………………ルッ!」
(そういえば、恩をまだ返せてなかったっけ。守らないと)
「………………ハルッ!」
(守る? 何から? …………それは)
「メイハルッ‼」
とんでもなく重い瞼を持ち上げると必死の形相で自身の名前を呼ぶ伊万莉の顔がそこにあった。




